あなたになれない





 鏡の前に立って自分の姿を確認する。
 黒縁の眼鏡の奥の双眸はレンズで歪んで小さく、唇はそれほど厚くない。耳の形がいいと褒められたことがあるが他に褒めるところがなかったのだろうと私は認識しているし、背中はやや猫背だ。骨盤を立たせて恥骨に力を入れてと言われても、私は自分の体のどこに力を入れればいいのか見当もつかない。張る胸がなければどうしたらいいのか。自信に溢れる同じ顔の女の子の影で私は今日も丸くなる。
 白いシャツに黒いパンツで自分の体を誤魔化して、着飾ることを避け、私は今日も、ごめんなさい、と思いながら目を覚ます。首筋の汗を手の甲で拭い、のそりと体を起こすと、私の隣で長座布団を二枚敷いて敷布団代わりにしている成人男性にしては小柄な恋人が小さく唸った。どうせすぐ引っ越すんだから、そのとき荷物にならないように布団は引っ越し後に買う、という持論を展開して見せた王馬くんは、きっとそこまで睡眠の質に拘泥していない。というか、多分どこでだって眠れる体質の人間なのだろう。私が早朝からどれだけ物音を立てていても、料理をしていても、彼は普段から自分がセットした目覚ましが鳴るまで目を覚まさなかった。
 カーテンの隙間からは朝陽が差す気配がない。朝の五時。この人のことをまだ何も知らなかった頃、この時間は白んでいた。








「デートに行こう」



 昨晩、私が揚げたコロッケを頬張りながら王馬くんは唐突に言った。



「……明日は引っ越しの準備をするんじゃなかったの?」



 この人の気分屋なところに最近ようやく慣れてきた私だけれど、既に決められた予定を前日に覆されるのは気に入らない。二人そろっての休日なんてなかなか取れないから、一気に片付けを進めちゃおうと言ったのはどこのどなただったか。だけど王馬くんは「いやー! そんな気分じゃなくなっちゃったんだよねー!」と悪戯っぽく笑う。



「じゃあどんな気分なの?」



 食事をしていた手を止め、うんざりして尋ねると、ローテーブルの向こう側の王馬くんは満面の笑みで答えた。



「買い物行こ!」



 猫のような目を細めて笑う彼の言葉に、私が文句を差し込む隙間はない。








 私が働いている本屋が入っている駅から電車に乗って二駅行けば、市の中心部だ。気軽に行ける距離だとは重々承知していたけれど、気が重くてたまらない。買い物だったらこの街の商店街でいいのに。と呟いた私の言葉に王馬くんはあからさまに無視をしてみせた。わざわざ人がたくさんいるところに行くなんて、風邪でももらったらたまったもんじゃない、欲しいものがあるならネットで買えばいいのに、たくさんの否定の言葉が浮かぶけれど、私はそのどれもを呑み込んでしまう。王馬くんは私をじっと見つめたあと、小さく首を傾げて「じゃ、決定ね。いやー楽しみだなー」と実に楽しそうに目を細めた。
 なのに彼は結局ギリギリの時間に目を覚まして、緩慢な動作で顔を洗い、私の用意した目玉焼きを寝起きの顔で咀嚼し、気に入っているらしいパンツとシャツに着替えた。既に支度を終えていた私は彼のその一連の動作をじっと見守っていた。いくら食べても太らないひょろひょろの体は服を着ても隠せないけれど、首筋は意外と男の子っぽい。ふあ、と欠伸を噛み殺した王馬くんは私に視線を向けると「いつまで見てんの。行くよ」とぶっきらぼうに言う。あ、ちょっと照れてる。と思うと少しだけ嬉しくなる。彼と付き合うことになって一カ月。強引なところもあるし、子供っぽいし、機嫌が悪いとお風呂からなかなか出てこないけれど、彼は私を良く観察している。深く理解してくれようとしている。だけど、私はそんな彼が好きだと思う反面、申し訳なくも感じてしまう。
 最近は気温がぐっと下がって、寒がりの私には厳しい季節になってきた。いつもより厚手のシャツに、あったかいパンツ、アンクル丈のブーツは中のほうがもこもこしていて気に入っている。羽織ったジャケットを王馬くんは「男物?」と茶化すけれど、このシックさが分からないのだろうか。薄い雲に覆われた空の下、電車を降りた私は王馬くんのあとを必死でついていく。平日の朝は、まだ通勤ラッシュが終わっていないせいかそれなりに混雑していた。人が多いところでは私が手を繋ぐことを拒否することを知っているから、彼はわざと早足で歩く。改札に向かう人の流れに紛れ込む、背の低い彼はまるで埋没し、私は神経をすり減らした。切符を通して何とか人ごみから解放されると、壁際に立って様子を見ていた王馬くんはにやりと意地の悪い笑みを浮かべた。



「もみくちゃにされちゃったねー頭ぼさぼさだよ」

「えっ嘘」

「嘘だけど」

「……」

「だから手は繋いだ方がいいんだよ」



 手のひらを差し出す王馬くんに、私は眉を寄せる。ちら、と周囲に目線を向けたところまで彼には御見通しらしい。



「誰も見てないって。気にしすぎだから」



 体の横におさまっていた手首をぐいとひかれた。漏れかけた悲鳴を飲み込む。言いたいことはたくさんある。人に見られるのが嫌なわけじゃない。手にかいた汗を笑われるのが嫌なんだ。だけど彼は何も言わない。隣に並ぶ王馬くんを盗み見たら、彼は実に楽しそうな瞳をしていた。これじゃあどちらが最近まで引きこもっていたのか分からない。



「……仕方ないなあ」



 そう呟いた私に、彼は笑いを噛み殺した。








 買い物がしたいと言うくらいだから何か目的があるのかと思えば、王馬くんは目についた店に片っ端から入っていった。キッチン雑貨を扱う店で、カラフルなフライパンを手に取る。「これで料理してよ」と真面目な顔で言うものだから本気かどうか思案してしまう。靴屋さんでブーツを見たいと言ったかと思えば、何故か女物を見ていた。足が小さいから女の子のものでも入るのかもしれない。とはいえさすがに靴は男物を買った方がいいと思うよと伝えると、とんでもないものを見るかのような目で見つめられてしまった。二十代の若者が好みそうな服屋さんをぐるりと回る。秋冬物と言えど鮮やかな色の並ぶ店内に目が眩む。同い年くらいだろうと思われる女の子たちの集団が、品物を手に取って可愛い可愛いと言い合っているのを、視界の端で盗み見る。よくわからないけれど、あんな風に袖に装飾がついた服は重ね着が難しいんじゃないだろうか。裾の形が少しだけ変わったスカートは可愛いと思うけれど。王馬くんに声をかけられて店を出る。
 すっかり冷えてしまったから、カフェで休憩する。そのあとに行った雑貨屋さんで、王馬くんは目をキラキラさせて店内を物色するものだから、半歩後をついていくと、ぐるりと振り向かれた。



「あのさ、キミはオレの彼氏? こういう店って普通女の子の方がテンションあがるもんじゃないの?」

「うーん……王馬くんが見たいものを見たらいいと思うよ」



 王馬くんが目を細める。何かを考えている顔だ。怒らせてしまっただろうかと微かに焦るけれど、私はやっぱりこういったお店に来ても、夢中になれない。可愛い小物も生活用品もアクセサリーも、私には必要があるように思えないのだ。「様式美より機能美って感じ」私の家に転がりこんできたばかりの王馬くんに言われた言葉に、なるほどと納得した。実家から持ってきたものは兎も角として、一人で暮らすようになってから買ったものは全てシンプルなものだ。フライパンに柄なんかないし、割れなければ食器も買い替えない。箸先が折れていたことにも気づかずにいた私を王馬くんは信じられないと馬鹿にしたけれど、使えるならまだ使っていてもいいじゃないか、と、思う。物欲がない。それの何が悪いのか。
 店内の壁にかけられた、細かな金細工風の鏡に目を向ける。そこには野暮ったい黒い髪の、大きめの黒いジャケットを羽織り、肉付きのよくない足を黒いパンツで覆っただけの女がいる。陰気だ。先ほどの洋服屋さんで見かけた女の子たちの中に、こんな全身黒尽くめの烏みたいな恰好をした子はいなかった。以前王馬くんに「もっといろんな服を着たらいい」と言われたことを思い出す。私のクローゼットにある服は黒か白、そういう色が好きなわけじゃない、仕事着として定着しているから、コーディネートの心配がいらないから、だけど私が並べ立てる利点の中に薄い字で書かれたそれに私も彼も気が付いている。『お前は喪に服すべきだ』私はひとりの人を殺したのだから。



「心ここに在らずって感じだよね」



 王馬くんの吐き捨てるような言葉に、私は顔をあげる。どこか怒ったような、泣きそうな顔だった。子供が自分の感情を制御できず、堪えているような、私はそんな顔を、彼にさせている。



「オレは、ちゃんと楽しみたかったんだよ」



 傷つけられたような顔で告げる王馬くんの瞳の中に、何の感情も持っていないような、ぼんやりとした私が立っている。私はそこに、姉の面影を見る。








 まだ昼を少し過ぎたばかりだったけれど、私たちは駅に戻った。お互い口も開かないまま、朝は手を繋いで歩いていた道を半歩遅れてついていく。彼と一緒に入ったたくさんのお店を無言で通り過ぎ、切符を買い、ホームに向かう。電車はつい先ほど出てしまったばかりらしく、都会とは言い難い地方都市の、平日の駅構内は人がまばらにしかいない。電車が着くのを、ホームの椅子に座って待つ。光沢のない青で塗られた椅子は冷たい。足元を人に慣れた様子の鳩が歩く。私の横を一つ空けて座る王馬くんは、ぼんやりと線路の方を眺めている。怒っているのは間違いない。
 買い物に行きたい、って言っていたけれど、結局王馬くんは何も買っていなかった。思い返してみると、そういえば彼は最初から女性向けのお店を覗いてはいなかっただろうか。私の様子を窺うようにフライパンを持ち、女性物の靴を見た。洋服屋さんだって女の子がいっぱいいるお店だった。鈍感な自分に愕然とする。彼は最初から私に買い物をさせる気でいたのだ。欲を刺激させようとしてくれていたのだ。深い沼に入り込んだ私の手を、彼はさがそうとしてくれていた。



「ごめん、王馬くん」



 アナウンスの後、向かいのホームに回送列車が入る。ごうんごうんという響きにかき消されないように吐き出した声は、きっと彼に届いていた。王馬くんはほそっこい足を組んで、目線をわざとななめ上にあげる。



「なにがー? 別にオレ、怒ってないけどー」

「怒ってなくても、ごめん。……ほんと私、鈍感で駄目だね」

「それはまあ今に始まったことじゃないじゃん」



 彼の言葉に俯くと、ジャケットから覗いたシャツの胸元に描かれた猫の刺繍と目が合った。私の一張羅。ささやかな欲。押し込めるようにして見ないふりをしていた。ごめんなさいと思いながら目を覚ました。楓ちゃんは今もベッドの上。お母さんに守られて生きている。黒い思いを嫉妬と名付けるのなら、私はこんなにも汚らしい。呪いのように首を絞める彼女とうり二つの眼球に、私は鏡の向こうから監視され続けている。幸せかと問われ続けている。一人で生きて、誰からも指さされず、尊厳はかろうじて保たれ、姉を殺し、喪服を纏えば許されるような気がした。欲を殺した。本当はピンクが好きだと言う思いを十五年前と同じように呑み込んだ。私は幸せになってはいけないと思った。
 王馬くんが視線を向ける。膝に肘をついて、私の顔を覗き込むように首を傾げる。綺麗な顔をした男の子、この人はいつもこうして私を探る。幸せになってはいけないと思った。だけどこの人のことを好きになってしまった。私のままでいいと言ってくれた人を、私は初めてほしいと思った。



「馬鹿だね」



 見透かすように、手を伸ばされる。駅のホーム。階段から降りてきた女子高生がちらりとこちらに目を向ける。王馬くんの両手は冷たかった。頬を両手で挟まれて、ぐぐ、と力を入れられる。三番線に列車が入ります。ご注意ください。抑揚のない音声に紛れるように、彼は言う。



「オレの前じゃ、いい子でいる必要ないんだよ」



 がたん、がたん、近づいてくる列車の音、甲高いブレーキ音、傍にいた鳩が飛び立つ。少し長めの前髪の隙間から、彼の悪戯っぽく細められた瞳が見える。



「我儘言やいーじゃん。文句も飲み込む必要ないし。ここに最強のお手本がいるんだから」



 ぼろぼろと、知らないうちに涙がこぼれる。王馬くんの手にも伝っただろうに、彼はそれを厭う気配も見せはしない。私たちが乗る予定だった列車が扉を開ける。乗客が吸い込まれていく。発車まであと数分。王馬くんはあんまりにも自然に、にししと笑った。それはまるで、超高校級の総統のようだった。



「もうやめていいよ」



 何を、とは、彼は言わなかった。だけど、滲んだ視界の奥で、私は確かに楓ちゃんの後ろ姿を見た。明るい金髪の、派手な色が良く似合う、私の理想の女の子。あの子になりたかった。なまじ顔が似ている分、私は彼女との差異に酷く打ちのめされた。彼女は太陽、世界の神様、誰もがあの子を追いかける、なのに、王馬くんはどうして私を選んでくれたのか。



「我儘、言ってもきらいにならない?」



 やっとの思いで吐き出した言葉に、王馬くんは私の頬から手を離しながら、「なるかもしんないけどね」と笑う。嘘だと分かる。わかるから私は安心する。



「休みの日は、もっと早く起きて。お風呂掃除、もうちょっと丁寧にやって。分かりにくい嘘はやだ」

「うんうん」

「決まった予定、変えないで。急にバイト先に来ないで。ティッシュはちゃんと捨てて」

「えー」

「拗ねてもお風呂に長時間籠らないで、怒ったら黙るのやめて、たまにはシュークリームじゃなくてエクレアにして」

「はは、何それ」



 アナウンスが鳴る。私たちが乗る予定だった電車の扉が閉まる。この次の電車は多分二十分後だ。ここは地方都市だから、私がいたような都会ではないから。どこにも、あの子の影ないから。「それと」だからこそ、涙を拭って、私は人生最大の我儘を言う。いい子の私が二十年あまりの間呑み込み続けた欲を、許してくれるひとがここにいる。



「可愛いスカートがあったの。だからもう一回さっきのお店に行ってもいい?」
 王馬くんは一度目を見開いてから、ゆっくりと瞬かせ、「そういう我儘なら、聞いてやってもいいかな」と嬉しそうに口角をあげてくれた。








 クローゼットの一番端に、真新しいスカートがかけられる。タグも切らないままかけたそれを見て、扉を開けたり閉めたりして頻繁に眺めている私を、王馬くんは呆れたように「いい加減着なよ」と言うけれど、これは次のデートのときに着ると決めている。あの日ほしかったピンク色じゃないけれど、それは私のクローゼットに少しだけ彩りをもたらしてくれたような気がした。 



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