名も無き境をなぞっている
「ねえちゃん。たまには別の服にしたら?」
着替え中に背後からかけられた声にうんざりする。最初の頃はいちいち悲鳴をあげていたけれど、何だかもう最近は反応すればするだけ王馬くんを喜ばせるだけだと気づいてしまった。
大体この部屋は狭い。一人で暮らすには充分だったけれど、王馬くんが押しかけて来て一カ月、手狭なのは明らかで、私は彼が新しい部屋を借りると言い出すのを待っているものの、最近ようやくバイトが決まった王馬くんはあろうことか「もっと広い部屋探そうか~。とりあえず寝室とリビングは別にしたいよね」とか言い出した。この同居人は独り立ちする気がないらしい。
付き合っているわけでもない異性同士がルームシェアしている現状は異常だ。分かっているのに言い出せないのは、私の気弱な性格が災いしている。
「なんかそういう漫画、昔あったよね。主人公の持ってる服が全部一緒ってやつ。なんだっけ?」
「知らない」
「あれ? 怒らせた? ごめんごめん。ねーでもさーちゃん、スカートとかも似合うんじゃない? ワンピースとかないの?」
「ないです」
「あ、敬語ってことは怒ってるね」
白いシャツに黒いパンツは汎用性が高い。何着も同じ服持ってるの?と私のクローゼット代わりになっている押入れを勝手に物色した王馬くんは眉を顰めたけれど、良く見てほしい。胸元に猫のマークが入っているシャツは私の一張羅だし、パンツだってそれぞれ違う。どこぞの国王のように同じ服を何十着も持っているわけがないのに、見分ける気のない王馬くんは私を小馬鹿にしたような目で見る。
「一応二十代なんだからさあ、可愛い恰好してみたら?」
「そんなことよりバイトの時間じゃないんですか? 準備しなくていいんですか?」
「あれ? 言ってなかったっけ。オレ、今日休み」
「聞いてないです」
「ちゃんに休み合わせたんだよね~」
「……へえ」
王馬くんはそっぽを向く私の正面にわざわざ迂回すると、かわいらしい顔立ちに満面の笑みを浮かべて小首を傾げた。
「だからデートしよ!」
その言葉に私は思い切り顔を顰めた。彼は二人で出かけることを「デート」とふざけて表現するけれど、そのたびに私がどんな気持ちになっているのかを想像したことがないのだろうか。だけどそれを口にしたらきっと王馬くんはへこむ。ダンガンロンパの中にいた彼とは違って、現実の彼は意外と打たれ弱いのだ。と言ってもここで簡単に頷くのも癪で、私は返事を考えながら黙り込む。そうしているうちに知らずに突き出していたらしい唇を指で抓まれて、無理矢理押し込めていた怒りが爆発してしまった。「もお!」叫んだ私に王馬くんが怯む。
「デートも何も、こんないっつも同じ服着てる女の子、連れて歩きたくないんじゃないの?」
嫌味ったらしい声で言ってしまったと気が付いた時にはもう遅い。王馬くんは目を丸くして、それから一人で立ち上がると、傷んだ畳の上をすり足で歩き、無言のまま部屋を出て行ってしまった。
扉が閉められた後、私は反省する。今のはよくない。最悪だ。王馬くんのあの硬い表情を思い出して、お腹が重くなる。そっと洗面所に向かって鏡の中の自分と向かい合った。そこにいた私はいつもと同じ服装をしていたのに、何だか途轍もなく重苦しく、鬱陶しい目をしていた。
援助が打ち切られて家を借りる余裕のない王馬くんがこのアパート以外に帰る場所がないのは分かっているけれど、一時間近くが経ってひょっこりと帰ってきたときはほっとした。「ただいま~!」と明るい声を出す王馬くんの存在を感じながら、私はこれが空元気であることを察する。
「……どこに行ってたの?」
声をかけた私に、王馬くんはぱっと表情を明るくした。無視するとでも思ったのだろうか。
「スーパーでシュークリーム買ってきたよ。食べる?」
「……食べる」
「五十八円だったんだよこれ」
「安っ、それは見たことないな」
「ね、いつもどんなに安くても七十八円じゃん、と思ってさ」
二人でローテーブルについてシュークリームの封を切る。クリームの水分を吸って重くなった生地はお世辞にも絶賛できる食感ではなかったけれど、しつこいくらいの甘さに顔が綻んだ。無言で咀嚼していると、テーブル越しの王馬くんと目が合った。指についたクリームを舐めながら、王馬くんは「ごめん」と眉を下げる。だけど声が出ない。口の中にまだクリームが残っていた。皮が張り付いていた。そういうことにしておきたかった。
「なんていうかさ、聞き流してほしいんだけど」
言い訳のように、彼は慎重に言葉を選ぶ。その顔を見ていられなくて自分の膝の上に視線を落とした。何の変哲もない黒いパンツ、私がこれしか穿かないのは、汎用性が高いからでもあり、コーディネートに悩まなくていいからでもあり、贖罪のためでもあった。自分自身のためだった。誰にも言えないけれど。全てを知っている彼にすら言えないことだけれど。そんな私を、きっと彼は見透かさない。
なのに彼は、突然私に爆弾を放り投げたのだった。
「ちゃんのそれ、似合うよ。似合ってるしかっこいい。でもやっぱ彼氏としては色んな服着てるところも見たいって思うじゃん。女の子っぽいかっことか」
「は?」
思わず声をあげる。王馬くんは私の上擦ったそれに気が付かずにまくし立てるように続けた。
「だからさあ、もう、わかんないかなあ。スカートとか絶対似合うから! 足をだしたくないなら長いやつでもいいし」
「ちょっと待って、えっと」
「ああ~もうオレ何回も言いたくないんだけど。ウソじゃないってわかんない?」
「いや嘘とかじゃなくてねえ、王馬くん」
「なに!」
「王馬くんって彼氏なの?」
「はあ?」
叫んだ王馬くんが固まる。空になったシュークリームの袋を握りしめる。半ば膝立ちになってテーブル越しの私に掴みかからん勢いで叫んだ王馬くんは、そろそろと体を戻し、静かに正座すると、そのまま真顔で口にした。
「……え、なに? 違うの?」
何と言ったらいいのかわからずに黙り込んだ私に、王馬くんは「嘘でしょ」と両手で顔を押さえて俯く。引きつった口角が、まるで私を責めているように思えて居心地が悪い。
「びっくりだよ……キミって今までオレのことなんだと思ってたの……?」
「え? えーっと……」
「彼氏でもない男がいきなり部屋に押しかけて住宅情報雑誌開いて二人で住める部屋探してデートしようとか言って挙句の果てに服装に駄目出しする?」
「し、しない」
「しないよね? じゃあなんでキミはオレのことを恋人っていう認識をしなかったわけ? これでオレがキミに手を出してたらオレ通報されてたの?」
「通報なんかしないよ! そうじゃなくてさあ、だって私、告白されてないよね? 付き合おうって言った? 私、はい、って言った?」
「言ってなかったっけ?」
「言われてない!」
はあああ、と長い息を王馬くんが吐く。私の言い分を受け止めて、消化して、どれくらいの時間が経っただろう、彼はやがて私の手を掴んだ。あまりにも雑で、どちらかというと投げやりな触れ方だったけれど、私の心臓は縮こまった。そっぽを向いたまま王馬くんは吐き出す。
「じゃあ、オレとつきあって」
「……目を見て言ってもらえますか」
「そういうこと言う?」
「言うよ」
だってずっと待ってたんだよ、とは言えなかった。苦笑した王馬くんが目線を動かす。触れられていた手がぎゅうと握りしめられる。六畳一間の小さな畳の部屋の真ん中で、彼の手は汗ばんでいた。きっと、私の手も。
「好きだよちゃん。オレの彼女になって」
先日ポストに入っていた花柄の封筒が、チェストの上に置かれている。楓ちゃん。心の中で姉を呼ぶ。私は一度目を閉じて、それからそろりと王馬くんの手を握り返す。
「……よろしく、おねがいします」
そう言った私に、テーブル越しの王馬くんが泣き出しそうな顔で笑った。