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 彼は私のことをどこまで把握していたのだろうか。
 王馬くんが店を出て行ってからものの数十分で勤務を終えた私は、急いで荷物をまとめて退勤した。高校生の帰宅時間と重なってしまうのはいつものことだったけれど、今日ばかりは構内を広がって歩いて通路を塞ぐ彼らに苛立ちを隠せない。「すみません」と一声かけて隙間を縫うように追い越すと、小走りで階段を駆け上がって地上に出る。商店街の近くの、滑り台がある公園にいると彼は言った。思い当たる場所は一つしかなく、私はそこに向かって走り出した。
 彼がやって来たのは、偶然ではないのだろう。彼は私があの本屋で働いていることを知っていた。私の知らないうちに、彼は私を見かけていたのだ。ひょっとしたら退勤時間が近いことすらも把握していたのかもしれない。そして、それを見計らって私に声をかけた。きっと何かを伝えるために。
 駅前にある、美術大学の教授がデザインした良くわからない形をしたモニュメントの脇を通り過ぎる。整備された街路樹の葉はまだ青いけれど、あとひと月もすれば色が変わることをこの街に暮らし始めて三年目になる私は知っている。薄れた道路標識、開け放たれた民家の窓から聞こえるニュース番組、子供が集めたらしい白い石は、道路の端で山になっていた。事故が遭ったことを知らせる黄色い看板、割れたガラスの瓶の破片、遠くに見える小学校、起伏のある道、漂う揚げ物の、むせ返るほどの濃いにおい。駆け抜ける中で、私は何もない、このちいさな街を好きだと思う。商店街の賑やかさが近づく。錆びた滑り台のてっぺんが見える。平穏そのものだったこの日々を壊していった王馬くんの姿を、私は、かつて自分が座っていたベンチに見つける。
 王馬くんは、誰もいない公園のベンチに、足を伸ばして座っていた。初めて会ったときや、お祭りの夜に彼が履いていたサンダルではないきちんとした革靴のつま先を、ただ彼は見つめている。その傍にある白いスーツケースを、私は見ないでいたい。王馬くん。声をかけたいのに、いくら口を開けても、何も言葉にならない。
 公園の入り口で立ち尽くす私に、やがて彼は目線を投げてよこした。細めた瞳はどこか厭世的にも見えた。その口角が僅かに上がった気がしたけれど、気のせいだったのかもしれない。王馬くんはベンチの後ろ側に両手をついて、首を傾げる。



「お疲れさま」



 その一言に、私はようやく足を動かした。彼の前に立つと、王馬くんは隣に座るように促した。恋人同士でもない二人が座るには少し小さなベンチに、躊躇いながらも腰を下ろす。同じ場所で、夏祭りに行こうと言う彼に短い返事を打った三週間前が、遠い昔のことのように思えた。私はけれど、何も言えない。久しぶりだね、も、体調は大丈夫、も、何も出てこない。私が彼に思い続けた言葉の数々は彼を目の前にした途端、なんの意味も待たないように思えた。
 ちょうど背後で沈んでいく夕日は容赦なく背中を照らしている。背丈のそう変わらない私たちは、伸びる影の大きさもそう変わらない。なのに、王馬くんの足元にあるスーツケースは、影ですら、ひどい存在感を持って私を殴った。だから、もう、私は、こみあげてくる感情を処理することだけに躍起になっていた。彼がつぶやいた声に、耳を塞いでしまいたかった。「あのね」彼はこんな風に話す人だったろうか。



「オレ、引っ越すんだ」



 落ち着いた、静かなその声を、私はどこかで聞いたことがあった。記憶を手繰り寄せるまでもなかった。私は彼の顔を見る。ころころと変わる表情、泣いて怒って、笑って、どれが嘘でどれが本当かわからない超高校級の総統。嘘だと、彼がそう言うはずがなかった。実はこのスーツケースは空っぽで、驚かせようと思っただけで、私をだましていて。だったらどんなにいいだろう。王馬くんは黙ったままの私に、空白を埋める様に、話し続ける。その表情がぎこちなく引き攣っていたことを、指摘できるはずもない。



「っても、実家に帰るだけなんだけどさ。参ったよ。なーんか親が離婚するらしくてさあ、あ、これはホントの話なんだけど、オレのこと追い出したくせに、一人になるのは嫌なんだろうねあの人も。帰って来いって。そんで、大学行ってもいいし働いてもいいしってことで、オレの華やかなニート生活もオシマイってわけ。快適だったんだけどねー。生活費止めるって言われちゃあ、仕方ないよね」



 自分の感情を隠すように、彼は早口で捲し立てる。まるでそれは、彼の中にこびりついた超高校級の総統としての自分自身を、彼が手ずからかき集めているかのように見えた。それは、あまりにも惨めな姿だった。やがて、彼を真っ直ぐに見ていた私の目から不自然に視線を逸らして、王馬くんはブランコの方に顔を向ける。背ける、と言ったほうがよかったかもしれない。言葉に詰まる。パンツの上で握りしめていた拳が、戦慄いている。彼は、王馬くんは、短い息を吐き出した、それが震えていた。「あのさあ」と、まるで、請うように呟く。お願いだから、どうかと、彼は言う。



「――そんな目で見ないでよ」



 縋るような、笑おうとして歪む声、丸まった背中、膝に肘をついて、彼は声を掠れさせる、そんな目で見ないで。だけど私は、視線を外してあげることができない。ここで彼から目を逸らしたら、彼が消えてしまうような気がした。



「オレなんか、駄目なやつなんだよ」



 王馬くんが小さくなる。そうして、空っぽの箱の中に、言い訳だけを詰め込み続ける。



「友達はいないし、引きこもってばっかで、キミみたいに働く勇気もない。親にも逆らえない、ほんとに、何もない。何もないから、だから」

「だから王馬小吉になったの?」



 不意に吐き出したその言葉に、王馬くんが息を止めた。瞳だけを動かして、彼は私を見る。久しぶりに出した声は、それでもしっかりと響いた。私は、酷いことを言おうとしている、彼にとっては鈍器と大差ない。だけどそれでも、言いたかった、呑み込めなかった。



「奔放で、我儘で、自由で、誰かを振り回して、本心を隠して、そういう王馬小吉になりたかったの? あの仮想空間にいた頃の自分が、あなたは一番好きだったの? そこにしか価値を見いだせなかったの?」



 人の感情なんてお構いなしに、ただコロシアイに勝つことだけを考えていた彼は、確かにあの中の誰よりも強かった。王馬くんは、私の顔を見つめたまま、表情を崩さずにただ、「そうだよ」と答える。



「現実のオレなんか、どう考えたって価値、ないでしょ。頭も悪い。父さんみたいになれって言われて、だけどなれるわけなくて、同級生に笑われて、誰も庇ってくれない、それはオレに価値がないからだ。振り回されて見下されて搾取されるのは、オレが弱いからだ。だからオレは」



 吐き出し続ける言葉の最後に、私は手を伸ばした。
 王馬くんが息を呑む。私は俯いていた彼の顔を覗き込む。丸まった小さな背中に手を伸ばす。否定してほしくなかった。「ちがうよ」私は知っていた。



「王馬くんは、強かったよ」



 限界まで目を見開いた彼は、何も言わずに私を見つめていた。








 王馬くんからの連絡を待ち続ける間に私がしたことは、彼が出演していたダンガンロンパの動画を片っ端から見ることだった。
 好き放題に振舞う彼の本心をはかることは、他の出演者たちが出来なかったように、私にも難しく、何度見返しても、検証サイトと比較しても、上手く掴めなかった。超高校級の総統が抱いていた思惑というものが明らかになったのは、彼がゲームを脱落した後のことだ。けれど、それでも私はあの人を、私の前で笑っていた彼と一致させることができずにいた。
 彼があの王馬小吉になりたいという思いを、私は否定することはできない。だけど、私は番外編と銘打たれた一つの動画を見た朝に、声を殺して泣いた。そこには私の知らない彼がいた。彼は、いつも、いつも彼の望む王馬小吉を私の前で演じていた。出会ったときも、スマホを介しても、お祭りの夜も。彼はいつだって王馬小吉として笑っていた。けれど、その動画の中にいた彼は、まるで私の知らない、素の表情をしていたのだった。
 手違いがあったせいだった。
 きちんとした情報処理がされないままに始まってしまったダンガンロンパの世界で、出演者たちは生来の彼らとして一度プログラムに放り込まれてしまっていた。そこには私の良く知る楓ちゃんがいた。見知った制服を着て、上手く現状を呑み込めないまま、彼女は舞台となる学園のロッカーで目を覚ます。教室を出たところで巨大な機械に追いかけられて、走って逃げた先は体育館で、そこには既に十数名の高校生たちが待っていた。自分たちが置かれた状況を理解できるはずがなく、困惑する彼らは全員があの機械に追いかけられてきたのだと話し合う。体育館の外に出て出口を探したいところではあったけれど、外にはあの見るからに危険な機械が待ち受けているだろう。誰もが身動きが取れずにいる中、彼は口を開いた。



「オレ、様子見に行ってこようか?」



 直後彼は、なんて無謀なことを言うんだと周囲に咎められる。危険だなんて、そんなことはきっと本人が一番分かっていたことで、なのに彼はそれを買って出た。誰もが自分の身の保全をはかることしか考えていなかったあの瞬間、けれど彼だけはそうではなかった。
 彼は優しかった。それは自分に価値がないと思い込んでいたからこその自己犠牲だったのかもしれない。けれど私は、あの十六人の中で、他にほとんど言葉を発することのなかった彼が、彼こそが本来の王馬小吉であるならば、それは決して捨てていいものではないと思った。あのときの彼の発言こそが、生来の彼が持つ強さだ。瞳から落ちた涙が液晶に丸い滴を作った。








 王馬くんが、言葉を失って私を見つめている。浮かべようとした笑みは歪んで、頬はひきつる、やがて彼は笑うことを諦めた。目を細めて、前髪を片手で潰して目を覆う。



「王馬くんに価値がないなんて、言わせない。あんな状況で他人のことを考えていた王馬くんは、弱くなんかない。だから、駄目な奴だなんて言わないで」



 言いながら、私は自分が十八まで過ごしていた白い家を思い出していた。グランドピアノが置かれた防音の部屋はいつの間にか物置になっていた。日当たりのいい立派な一軒家だというのに、どこにいても纏わりつくような薄暗さがあった。それをもたらした私は憎まれて然るべきだ。病状が安定して退院した楓ちゃんは、母と二人で家を出た。療養のため、母の実家がある長野で暮らすらしい。父は県外で単身赴任を始めて数年が経っていた。私たちが住んでいた家は、売りに出される。私は悪くない。そう思い続けて何年が経ったか。愛してくれなかった皆が悪い。私は楓ちゃんになりたいと思っていた。だけどそうじゃない、彼女のように価値を持っていなかったとしても、希望にはなり得なくても、愛されたかった。それだけだった。
 私は、やっとそれを認めた。
 誰かに言ってほしかった言葉を、私は今、彼に伝える。



「王馬くんは、王馬くんのままで、よかったんだよ」



 王馬くんが、ひ、と息を漏らした。首を振る、その手首が濡れている。「ばかだな」泣きながら、嗚咽を殺して彼は言う。だから私は、もう、何もかもを許せると思った。平穏な日々を送っていたつもりでいた。だけど私が過ごしていたのは、私が平穏に設定していただけの不安定な日々だ。それを壊されるのが怖かった。私がこの手で作り上げた、平和で孤独な日常に割り込んで、台無しにしてくれた王馬くんは今も、自分だってぼろぼろのくせに、溶けだした私の欠片を掬い上げる。



「価値がないわけないだなんて、そんなの、キミだってそうじゃない」



 伏せていた顔をあげた。涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった彼の白い顔が、歪む。輪郭がぼやけて、溶けだす。



ちゃん」



 彼に打ち明けたことなどあるはずのない名前を呼ばれた瞬間、ああ、と、声にならない声が漏れた。幻聴が聞こえる。幼い少女の笑い声、何者でもなかった二人のこども、価値なんかなくたってよかった。ただ愛されたかった。好きな人を手に入れたかった。ピアノなんかどうだってよかった、楓ちゃんともっといっしょにいたかった。私が壊したわたしの家族、あの家はもうこの世界のどこにもない。
 二人の少女がブランコに座る。手を繋いで、笑う。私は目の前の王馬くんが溶けだす幻を見る。私たちはきっと途轍もない嘘つきで、どうしようもない贋作で、傷を舐めあい笑っていた。だけど、もう終わりだ。
 夢から覚めよう王馬くん。自分の価値を他人にはかってもらうのはやめよう。私たちはもう嘘を吐かなくたっていい。偽者になんかならなくていい。私はあなたが好きだ。そのままの王馬小吉が好きだ。引き寄せるように抱きしめられた彼の背中は華奢で、簡単に壊れてしまいそうだった。陽が沈む。ぬるさを失った風が、夏の終わりを告げている。



「――いつから知ってたの」



 彼の首筋に顔を埋めたまま掠れる声で尋ねる私に、彼は「最初から」と答えた。彼は笑っていた。








 王馬くんがこの街を出て行ってから、一カ月以上が経つ。
 私はその間もいつも通りに本屋で働いた。単発の仕事をいくつか増やし、なるべく休みを入れないようにした。そうして目まぐるしい日々を過ごしていると時間と言うものは呆気なく過ぎるもので、気がつけば私は半袖のシャツをチェストの奥にしまっている。
 薄いカーディガンを羽織って退勤すると、いつものようにスーパーに向かう。少し前までは安くなったお肉をかごにいれる度に彼のことを思い出していたけれど、最早私はあの夏の記憶を簡単には取り出すことをしない。
 彼からのメッセージはあれから一度もなかったけれど、既読のついていなかった二つのメッセージはいつの間にか読まれた形跡があった。それだけで充分だった。
 卵と鶏肉と、玉ねぎ。ついでに安い低脂肪乳。必要以上の買い物をしてしまうと小さな冷蔵庫はあっという間にいっぱいになってしまうので、気を付けなくてはいけない。レジでお金を払って、袋に詰める。そう重くない袋を腕にぶら下げて店を出る。すっかり紅葉した街路樹の下を歩いていると、増した肌寒さに身震いする。信号で足を止めている間、カーディガンを纏った腕を組んで縮こまった。ぴ、ぽ、やがて間の抜けた電子音が響いて、信号が青になったことを知らせる。顔をあげて歩き出そうとした瞬間だった。背後から、聞き覚えのある声が聴こえたのは。



「カレーなの?」



 信号を渡ろうとした足を止める。他にも数人いた通行人の誰にでもなく、それは私に向けての言葉だと気が付く。
 乾いた車輪の音、振り向いた先に彼はいた。白いスーツケースを引きずって、長袖のシャツにパンツ、あの日街を出て行った彼が履いていた革靴は少し汚れていた。年の割に小柄な彼は、今も一見高校生のような幼さを残している。私は抱えた袋を握りしめる。声が出ない。



「参った参った。もっと早く戻ってこれると思ったんだけどさ。説得するのに時間がかかっちゃったよ。おかげで援助は打ち切りだし、当面の生活費くらいしかなくてさ。早くバイト探さなきゃね」



 彼は肩を竦めて、けれど、それから何も言わない私に、目を細めた。穏やかな、瞳をしていた。



「……袋、家まで持ってあげようか」



 視界が滲む。あの日と違う冷たい風が頬を撫でる。ぼやけた世界の中で王馬くんが困ったように笑ったのが分かった。首を振った私に「汚部屋なんだっけ?」と、小さく首を傾げる。王馬くん。王馬くん。私の背後で信号が再び赤になる。次から次へと溢れる涙は、私が言いたいことの全てを呑み込んでいく。今日は、カレーじゃないよ、部屋はきれいだし、袋なんか持たなくたっていい。



「泣かないでよ。泣き虫」



 困ったような声音が、彼の正体を私に告げていた。空いていた方の手の甲で、目を拭う。



「おかえりなさい。王馬くん」



 私の言葉に泣き笑いのような表情を浮かべた彼は、不敵に口角をあげ、スーツケースを手放して私との距離をつめた。身構える暇もなく、彼は私の両頬を、その両手でめいっぱい挟む。冷たい手のひらだった。けれど彼は、ここにいた。



「ただいまちゃん」



 至近距離で微笑む彼は、満たされたような、吹っ切れたような、穏やかな目をしていた。








 償いきれない罪を犯した私の贖罪は、まるでただの自己満足にしかならないかもしれない。
 買ってきたばかりのレターセットの封を切る。私の背後では、勝手に人の布団を奪って眠りこけている王馬くんがいる。安心しきったように口を開けて眠っているその顔を見て、私はペンを取った。
 拝啓赤松楓さま。そう書きだしたところで、眠っているはずの王馬くんが笑った気がした。



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