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 王馬くんとお祭りに行ったのは夢だったのだろうか。目を覚まして手さぐりで眼鏡を探して、寝転んだままそれをかけると、夢と現実のあわいでぼんやりとしていた脳が徐々に覚醒する。斜光のできない薄いカーテンから入り込んだ朝陽は、私のちょうど真上にできた天井の染みの輪郭を濃くさせた。枕元のスマホを手にして電源を入れる。ピントが合わなくて画面を少し遠ざけたけれど、新着メッセージはなかった。私と王馬くんのやり取りはお祭りの日の夜の、彼と別れたあとに私が送った「大丈夫?」という一言で終わっている。彼からの返事は今もない。
 あれから一週間近くが経っているのに、私は目を覚ませばあの日のことを思い出す。今日だって折角の休みだというのに、アラームよりも二時間も早く起きて、眠っている間に新しいメッセージが届いていないかを確認している。一度目を覚ましてしまえば再び眠りにつくことは難しく、私はまだ薄らと暗い夏の朝、布団から出ることもできずに寝返りを打ち続けた。いくらスマホを投げて目を閉じても、瞼の裏に浮かぶのは決まって私に背を向けた王馬くんの後ろ姿だった。
 あの夜、縋るように私の手首を掴んだ彼の顔面は蒼白だった。その指先は震えていた気がした。私とほとんど変わらない背丈の彼は、あのとき少しだけ小さく見えた。何を考えているのか分からない、人を好き放題に振り回して無邪気な顔で笑う普段の王馬くんからは考えられないほどの弱々しさだった。あの時私は、彼が「嘘だよ」と言って顔をあげて笑ってくれるのを望んでいた、それ自体が嘘でも構わなかった。だけど彼は虫の鳴くような声でただ一言、呟いたのだった。



「……しんどい」



 開いた唇が無意識に作ったあのときの彼の言葉は、小さな部屋にじわりと広がって、誰にも受け止められることのないまま消えていく。
 しんどい。しんどい。しんどかった。ずっと、ずっと私も。それはダンガンロンパによって人生が変わってしまった後の話ではない。きっと私は、ずっとしんどかった。両親が何となく習わせたピアノが歪めたのは私の人生だけではない。日なたにいる楓ちゃんの後を追うのはつらかった。転んだって誰も振り向いてくれないから、私は一人で強くなろうと決めた。何でもできるようになろうと思った。だけどそれに価値はあったか。私の何でも中途半端にこなせる器用さは、私の世界では希望にならなかった。どんなに頑張っても愛されないことを知った私は、架空の世界に価値を求めた。楓ちゃんになりたいとあのときは思っていたけれど、五年が経った今、十六歳の私の本当の望みを私は確実に言い当てることができる。あのときの私のように、一縷の望みを王馬くんも持っていたのだとしたら、何かに耐えて、耐えきれなくなって、それであの世界に逃げたというのなら、今の彼は一体どこにいるのだろう。
 布団の中で、閉じていた瞼をもう一度開けた。スマホを手にして電源を入れると、検索欄を開いて文字を打ち込んでいく。五年前、楓ちゃんが壊れてしまった日からずっと私が遠ざけ続けたものを、私は今になって手繰り寄せている。指が震えた。背を向けて逃げていた、傷つけられていたのは私だと叫んでいれば免罪符になるとどこかで思っていた。ダンガンロンパ。私の手によって作られた文字の羅列が、膨大な情報量の中から一瞬で掬い上げられる。私はその中から、見覚えのある一つの動画に辿り着く。
 液晶の中で、十数名の高校生の男女が体育館で呆然と顔を見合わせている。その中に誰よりも見知った顔があることを知りながら、私は彼の姿を探す。
 ダンガンロンパによって作り上げられた、贋作の彼を。
 私の手は汗ばんでいた。








「赤松さん、顔色悪くない?」



 休憩中に同じバイト仲間の滝沢さんにそう声をかけられて、私はスマホの画面から目線をあげた。咄嗟に電源を切ったはいいものの、「はい?」と普段より大きめの声が出てしまったため、自分の方が驚いてしまう。



「夏バテ? お昼もそれだけなの?」

「あ、あーそうですね、夏バテかもしれないです」



 家から作ってきたおにぎりは慌てて握ったせいかふりかけが偏っていた。見られないようにさりげなく手で隠して口に入れると、滝沢さんは駅中で買ってきたらしいメロンパンを紙袋から取り出して私の向かいの椅子に座った。私は食べたことはないけれど、たまに行列ができているのを見かけるところを見るとそれなりに人気のある店らしい。「でも、最近朝とか涼しくなったよね」メロンパンを一口齧ってから、人当たりのいい笑みを浮かべる滝沢さんに、私は曖昧に頷く。



「……もう秋ですね」



 あの夏祭りが終わって二週間が経っていた。歪な形のおにぎりは私の指圧で簡単にひしゃげる。








 あれから、王馬くんから連絡は来ていない。私が夏祭りの夜に送ったメッセージも、既読すらつけられないまま放置されていた。何度か新しいメッセージを打ちかけたけれど、結局送ることができたのは一通だけだ。きっとあれは今でも、読まれていない。既読マークのつかない自分の送ったメッセージを視界に入れるのは聊か居心地が悪く、私は最近ではアプリすら開いていなかった。王馬くんのことは心配だったけれど、彼が今何を考えているのかを理解できるほど、私は彼のことを知っているわけではなかった。
 スマホの中で動く王馬くんは、今よりも少し小柄で、幼い顔立ちをしていた。と言っても、中身は私の良く知る彼だ。冗談を言い、感情の赴くままに行動し、その結果誰がどんな思いをしようとも構わないと言わんばかりのその傍若無人さは自由そのもので、私は呆れると同時に羨ましくなった。彼が楓ちゃんと関わった時間はそう長くはなかったけれど、楓ちゃんもすっかり彼のペースに惑わされていたようだ。殺し合いをしなければならないという殺伐とした空気の中、本心がどこにあるのか分からない彼は誰よりも強い存在感を私に残していった。
 睡眠時間を削って、動画を見続けた。ネット上に残された動画はほとんど視聴した。そこに残された考察も、コメントも、出来る限り目を通した。それで何がしたかったのかは分からない。私はあの番組が持つ残酷さを直視できなかったし、楓ちゃんが処刑されるシーンからは目を逸らした。勿論、プレス機の下で潰れた彼のことも。だけど私は、彼がなろうとした「王馬小吉」を理解したかった。
 王馬くんの表情は、画面の中でくるくると変わった。騒いで、喚いて泣いて、怒って、笑った。私は彼が私にくれた写真の数々を思い出していた。彼が食べ残したわたあめが入っていた袋に描かれたアニメキャラ、開けてくれたペットボトルのキャップ、履きつぶされた薄っぺらいサンダル、連絡先を教えてほしいとスマホを見せて首を傾げて微笑んだあの悪戯っぽい表情、彼が私に与え続けた二カ月の日々は、今になって思えば夢のようだった。楓ちゃんのふりをして私が作り続けたメッセージを、彼はどんな思いで受け止めていたのか。
 私は、彼のことばかりに気を取られていたせいで、本来ならば思い至るであろう事実に目を向けることができていなかった。彼からのメッセージを、ただただ待ち続けることしかできなかった。スマホが光る度に心臓が止まる心地がしていた。あんなに避けていた、彼が初めて私に声をかけてくれたスーパーに週に三回は通った。彼が働いていると冗談めかして言った花屋をさがし歩いた。結局私はどんな「王馬小吉」にも振り回されている。夢から覚めても、彼の姿がどこにもなくても。夏が終わろうとしていても。
 どこかで諦めていたのかもしれない。もう彼はどこにもいないと。私の前から消えてしまったのだと。それは本当に、彼が望んだ「王馬小吉」らしいと思った。だから、私は彼が自分の前に立っていたことに気が付いたとき、悲鳴をあげる寸前だったのだ。



「おねがいします」



 「彼」はわざわざ一言そう告げて、私が立つレジに文庫本を一冊差し出した。
 長い前髪から、透ける様に白い肌が覗く。目を伏せて、財布を取り出すその指先に我に返って、私はその本に触れる。彼は私に気が付いているのか、いないのか、いや、気が付いていないわけがない。白々しい瞳で、彼は、王馬くんはもたつく私の動作を見つめている。
 駅中の本屋はいつもそれなりに混みあっているけれど、彼の後ろに他に並んでいるお客様の姿はなかった。小奇麗な黒いシャツに、白いパンツ。小柄で、童顔で、けれど確かに五年前よりは成長した面立ちをした彼は、何も言わない。彼が考えていることが読めなかった。だから、声が出ない。



「――ねえ」



 彼はこんな声をしていただろうか。私の記憶より、と言ってもこれはあの数々の動画に上書きされたものだったのかもしれない。少しだけ低く、大人びて掠れたその声に、私は視線をあげる。財布から千円札を出した王馬くんは、真っ直ぐに私の目を見つめていた。
 果たして彼は誰だったのか。



「商店街の傍にある、滑り台がある公園にいるから」



 私たちは既に、お互いが被っていた着ぐるみを切り裂いている。
 頷くしかできない私に、彼は「おつり」と手を差し出すから、慌ててレシートと小銭をその手のひらに乗せた。袋に入れられた文庫を片手に、彼は私に背中を向ける。がらがらと店内に響く乾いた車輪の音に、私は彼がスーツケースを引いていることに気が付いた。その後ろ姿は、あのお祭りの夜に雑踏に消えていった彼のそれと酷似していた。
 切り裂いた着ぐるみの布や綿の奥から覗いた手首が、誰かに救いを求めることもなく、力なくぶらさがっていた。



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