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 傷の舐めあいは滑稽か。けれど彼女が偽物だと気が付いたのは少なくともあの本屋でもなければ、仕事を終えて帰宅する彼女を尾行していた最中でもなかったのだ。
 白いシャツに黒いパンツという地味な服装で通りを歩く彼女は、安いと評判のスーパーに入っていった。迷ったけれど一定の距離を保ってついていく。気になったのだ。かといって、声をかける勇気がない。夕方の激安スーパーは冷房が効きすぎて寒いくらいで、それなりに混みあっていた。カートを押す女性たちを避けている間に、何度か姿を見失う。彼女は迷う様子もなく慣れた手つきでかごに商品を詰め込んでいた。野菜、肉、特売のカレールウ。やはりこのあたりに住んでいるのだろうか。益々興味が湧いてしまう。
 赤松楓。超高校級のピアニストの彼女はその正義感の強さが災いし、首謀者を明らかにしようとして殺人を犯してしまった。後にあの事件は首謀者によって作為的に仕組まれたものだったことが判明したが、彼女がゲームの序盤で脱落してしまったことは覆りようがない。その事実が判明したとき、オレはもうあの仮想空間にはいなかった。ただ、ぼんやりとした頭で最後の裁判の行く末を見守っていた。死んだ直後のオレは既にロックの解除されたカプセルの中から、部屋の中央に据えられた巨大な液晶の中で世界の真実を追う生き残った彼らの姿を見つめている。あのときの虚無感は、今でもオレに纏わりついて離れない。
 同じ日々を過ごした彼女ならオレの傷に手を当ててくれるのではないかと思ったのだ。



「カレーなの?」



 会計を終えた彼女が商品を袋に詰めているときに、とうとう声をかけた。吐き出したそれは震えていた。言った直後に、今の声のかけ方はどうなんだと後悔した。だけど、他に思いつかなかったのだ。これまでまともにコミュニケーション能力を育んでこなかったことの弊害だ。あの仮想空間でのように彼女に「赤松ちゃん」と気安く声をかけていいものか分からなかったし、そもそも覚えてもらっているかも定かではなかった。
 途端に鼓動を増す心臓の音に何故尾けたりしたのだろうと後悔する。彼女のことなんか忘れて、家に帰って彼女が袋につめた本を読んで、二度とあそこに行かなければいいだけの話だったのに。なのに、自分が声をかけられていることに気が付いていない彼女に、「ねぇ」とダメ押しのような言葉が口からついて出たのは何故なのか。冗談だったのだ、なんて言えば許されるとでも思ったか。振り向いた彼女の伏せられた睫毛が、瞬きと共に揺れる。眼鏡の奥の瞳が、自分の記憶の中にいた赤松楓よりもぼんやりしていたことを、オレはこのときようやく気が付いた。
 彼女は、不思議そうな目でオレを見た。その少女は良く見れば赤松楓よりも少し顔のパーツが崩れていたし野暮ったかった。眉は下がっていて胸は一回り小さかった。近くでじっくり見れば似ているようで全く別の生き物だったのに、あとに引けなかったオレは「赤松ちゃんでしょ?」と口を動かしていた。その瞬間に鳥肌が立ったのだ。あんなに鏡の前で浮かべても上手く作れなかった王馬小吉の笑みを、オレは今浮かべていた。どうしてだろう。この子は赤松楓ではなくて、オレの早とちりで、勘違いで、別人で、なのにオレは今五年前に戻っている。特別に頭がいいわけでもなく、努力が足りず、同級生からは笑われ母親からは過大な期待を押し付けられ父親からは興味を抱かれない平々凡々な王馬小吉を、オレは振り上げた包丁で殺している。



「やっぱり、オレって天才じゃない? こんなダッサイカッコしてても見極められちゃうんだもん」



 口から勝手に出てくる言葉の数々を、否定してくれたって構わなかったのに、そうしたら笑い話で済んだのに。なのに彼女は、オレの投げかけた言葉の全てに、口元だけを薄らと微笑ませた。本物の彼女よりも、少しだけ不細工で、少しだけスタイルが悪くて、圧倒的にオーラがない彼女は、そうやって嘘を吐いた。
 良く見れば小さな虫食いの穴があるTシャツを着た総統は、こうして偽物の赤松楓に出会ったのだった。








 どうにか連絡先を教えて貰うことに成功し、アパートに帰った。何とか鍵を開けると、玄関で靴も脱がずにしゃがみこんでしまった。足が震えてどうにもならなかったのだ。夏の日暮れは遅く、西向きの窓からは容赦なく落ちかけた陽が差し込んで、上手い具合にオレの目に刺さるものだから両手で顔を覆った。久しぶりに使った表情筋はその時すでに疲弊しきっていた。顔が熱いのは、そのせいか。スマホには今朝までなかった「赤松」という連絡先が入っている、そう考えると信じられないような気持ちになった。
 未だに自分がしでかしたことに恐怖にも似た動揺を覚えながら、オレはふと財布からレシートを取り出す。書店名、二冊の文庫本、その合計金額、末尾に記された担当者、赤松



「赤松……」



 呟いたその名前は、不思議な響きを持っていた。血縁者か何かだろうか。赤松楓として接したオレに、彼女は否定の言葉の一つもくれはしなかった。赤松楓と一緒にダンガンロンパに出演していたオレを知らないというならばもっとあからさまな困惑を見せてもいいはずだし、そうでないならば人違いだと切り捨てて然るべきだった。なのに彼女はそれをしなかった。楓ではないと言わず、それどころか薄らと笑いながらオレに向き合った。そのときふと、何度も見返した自分が出演していたダンガンロンパの映像が頭に蘇る。赤松楓には双子の妹がいる。そういった話がなかっただろうか。彼女がそうなのか。
 彼女のかぶった皮に、オレは伸ばしかけた手を引く。
 好きなことが言えて、馬鹿げた嘘を吐けて、周囲を惑わせて怒って泣いて叫んで走って色んな物を切り捨てて、一人で強大な敵に立ち向かって、最期には他人を信用することができた超高校級の総統。握りしめたレシートがぐしゃりと音を立てる。彼女の前でなら、オレはあの王馬小吉に戻れた。それはきっと、彼女がオレのことを何も知らない、いや、「超高校級の王馬小吉」しか知らない人間だからだ。覆った口元から吐き出された呼吸が、僅かに震えていた。



「……にしし」



 自然と口元が緩む。あんなに難しかった癖のある笑い声は、すんなりと口から出た。オレはやっぱりあいつになりたい。冷たくなりつつあった総統が目を覚ます。オレはあいつになりたいんだよ母さん。例え作り物でしかなかったとしても。








 オレたちのやり取りは、二カ月に及んでいた。オレたちは互いに都合の悪いことには目を瞑りあった。彼女は赤松楓になりきっていたし、オレは王馬小吉としてふざけてみせた。初めて「赤松ちゃん」から返事が来た日は神経が昂ぶったのか上手く寝付けなかったし、何ともない彼女からのメッセージを何度も読み返した。くだらない話を振って、少しの虚実を織り交ぜて、話のネタがないときはフォルダから選んだ写真を無作為に送りつけた。彼女はそのどれもに、実に赤松楓らしい反応をしてみせた。
 ああ、滑稽だ。平凡なオレが腹から血を流して笑うのに耳を塞いで、部屋にある全ての鏡に紙を張り付ける。「にしし」という笑い声は今ではずっと付き合ってきたかのように自然と口から漏れるし、王馬小吉らしい発言は勝手にこの指が作ってくれた。だけどたまに、暗転したスマホの液晶がオレの素顔を映し出す。目の下にクマができて、色が白くて、五年前よりも少しだけ大人びた顔付きが、お前は誰だと笑うから、ベッドに蹲って声にならない声を出す。彼女と知り合って二カ月。オレはその間もきちんと外を歩き、陽を浴び、いつか来る社会復帰の日に備えていた。だけど、本当にそれはいつかやってくるのか。彼女が働く本屋に行こうとして、行けなかった。駅中にある美味しいと評判のメロンパンを二つ買って、一つを余らせる。視界に入り込む祭りのポスターに、蝉の死骸に、ひんやりとする朝方に。オレは夏の終わりを知る。
 アパートに戻ってうがいをしていると、スマホがポケットの中で振動していることに気が付いた。鳴り止まないそれに、オレは手を伸ばす。液晶に浮かんだ名前と番号に、呼吸を止める。思考すらも停止していたはずだったのに、どうしてだろう、オレは導かれるようにその電話に出てしまう。終わってしまうと知りながら。



「……はい」



 夢のような日々でした。








 夏祭りに彼女を誘った。来てくれないだろうと思った。オレが彼女だったら断るだろうから。文章だけのやりとりと、実際に会うのとでは、偽物の皮を被る労力は桁違いだ。少しの気の緩みで自分が出るだろうし、そのたびに焦って自滅するのが関の山だろう。事実、オレだって十分やそこらならともかく、数時間ともなると「王馬小吉」になりきっていられる自信がない。それでもオレは彼女に会わなければいけなかった。断られたら、それで終わりにするつもりだった。だから、一晩明けても既読マークのついたメッセージに返事がつかなかったとき、オレはほとんど諦めていた。部屋の掃除をしようとして、少しだけ動いて、スマホが振動したような気がして飛びついて、だけど何もなくて外は今日も晴天で、夏の終わりはすぐそこで。夕方、彼女の仕事が終わっただろう時間帯になっても返事が来ないものだから、これで最後だと、オレはメッセージを作った。



「ねーねー、無視? 夏祭り、どーすんのさ」



 オレは果たして王馬小吉か。
 余命の定められた王馬小吉は誰にも看取られはしないのか。諦めかけた頃、けれど彼女は返事をくれた。



「行く」



 たった一言、まるで赤松楓に相応しくない素っ気ない一言を、オレのスマホに投げて寄越す彼女は、一体誰だ。
 その裂けかけた皮膚を見ないでいようとするオレのほうが残酷だ。








 当日待ち合わせ場所のコンビニに現れた彼女は眼鏡をかけていなかった。白いシャツに黒いパンツはいつもとほとんど変わらなくて、浴衣を着てこないことをからかったら彼女は黙った。緩くアップにされた髪型が可愛かったけど褒め言葉は呑み込んだ。オレはさいごのさいごまで王馬小吉でいたかった。なのに、彼女は違う。
 赤松楓であれば言い返すであろうオレの言葉にも、彼女はほとんど反応しない。この子はもしかしたら「赤松」の方だったのかもしれない。眼鏡がないと余計に気弱に見える茶色がかった瞳は、オレの隣で困ったような色を浮かべている。だから、やめてくれよと思う。最後まで、最後までキミもそのままでいてくれよ。「王馬小吉」の身勝手さに呆れて、怒って、叱ってくれ。赤松楓を見せてくれ。オレがあげたペットボトルのキャップを開けないのは、ピアノを弾かなくてならない「赤松楓」の大切な爪が痛むかもしれないから、だからオレが開けてやる。わたあめが食べたいというオレの我儘をキミはどうか破り捨てて。無理矢理神社に引っ張れよ。そしたらオレが大声で泣くから。わたあめ屋さんに並ぶ彼女の後ろ姿は、赤松楓よりもずっと細く、小柄に見えた。現実を叩きつけられた気になって目を逸らした。
 一度は拒否したくせに参拝の列に並ぶオレに彼女は呆れたような顔をしてみせたものの、それ以上文句を言ったりしなかった、何か言いたげに口を開きかけて、考える様に目線を彷徨わせ、最終的には口を噤んだ彼女は間違いなく赤松だ。彼女がくれたわたあめの袋を両手で抱える。アニメキャラのパッケージのそれは大きさの割に軽くて、中身なんかほとんど空気で、これが五百円なんてとんでもない、見てくれだけが立派なわたあめの袋を開ける。まだ温もりがあった。



「赤松ちゃんはさあ」



 無意識のうちに吐き出した言葉を、オレはもう呑み込めない。そう背丈の変わらない赤松ちゃんがオレの方に視線を投げてよこしたのがわかった。場を持たせるために、緩慢な所作でわたあめを千切る。赤松ちゃんはさ、赤松ちゃんはさあ。
 もう夢から覚めたの? 
 声が出ない。








 参拝の順番が回ってくるまでの間、オレたちはあまり会話らしい会話をしなかった。賑やかな声も音も店の灯りも食べ物の香りも首を流れる汗も間違いなく現実で、オレたちは確かにそこにいた。なのにこの浮遊感はなんだ。隣に立つ彼女がまるで黒くくり抜かれた人間の形をしただけの何かのようにすら思う。サンダルの裏の石畳の感触だけがやけに固く、足元にしゃがみこむ子供が砂利を掬い上げて遊ぶ姿をただ見つめている。夢の終わりはすぐそこで、階段を昇って賽銭を投げて手を叩き、頭を下げる人々の姿を目に焼き付け眩暈を覚える。



「久しぶりね。小吉。元気だった?」



 あの日スマホ越しに五年ぶりに聞いた母の声は少し震えて掠れていた。列が動く。階段を一段昇る。



「あなたが大学に行きたいなら応援するし、就職だって当てがあるわ」



 赤松が手の甲で額を拭う。そのバッグの口から小さくたたまれたわたあめの袋が覗いている。オレの食べ残しを文句も言わずに食べきった彼女は、もう、赤松楓を捨てている。



「許してあげるから、もう帰ってきなさい」



 蝉の抜け殻を抱えて走り回る子供を追いかける若い母親、中学生が飲んでいるソーダのカップは陽の沈んで薄暗くなった境内できらきらと光る、犬を抱きかかえた夫婦、オレンジ色だった空に浮かんだ月、ボロボロになった安いサンダル、がらんがらんと鳴る神社の鐘の音、オレたちがそこに二人で立っているのはまるで何かの奇跡のようだった。前の参拝客が賽銭を投げる。赤松ちゃん。赤松ちゃん。もう声が出ない。
 ただ今は、しんどい。








 赤松楓の皮を被った偽物と過ごした夏は、まるで夢のような日々だった。



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