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 人生の価値とはなんだろう。
 社会的に地位のある裕福な両親の元で産まれれば幸福か。戦争も内紛もない平和な国で娯楽としての殺し合い番組を楽しむ国民は正常か。その中で周囲の期待通りに生きれば、価値がある人生と胸を張れたのだろうか。
 父親と母親の怒鳴り声が聞こえないように部屋に閉じこもって布団を被る。手のひらに収まる液晶を覗き込めば、彼らはいつだって我武者羅に生きていた。死んだ目をした教師もランクを付けて他者を見下す同級生も歪んだ瞳でオレに縋る母も、それらすべてを受容して諦めたオレもそこにはいなかった。そこでは誰もが必死だった。自由に生きることのできるはずのオレよりも、死に直面した彼らの方がよほど輝いていた。少なくともオレの目にはそう見えた。
 ダンガンロンパ。
 閉ざされた空間から脱出するために殺し合う、お世辞にも趣味がいいとは言えないネット上の番組だ。母ならば眉を顰めるだろうことは容易に想像できる。今見ているこれはシリーズの何回目だっただろうか。裁判も佳境だ。オレはネットを漁ればいくらでも出てくる過去の映像や、非公式のファンサイトを見るのが好きだった。特に、扉の向こうで皿が割れる音のする夜は。誰がどういう才能を持っていて、何日目でどういうトリックで殺されてしまったか、誰に恋心を抱いていて、どういった嗜好を持っていて、生きる目的は何で。そういう細かな情報が網羅されたこのサイトの一日のアクセス数から見ても分かる通り、ダンガンロンパはこの国に生きる若者の影の娯楽として浸透していた。
 人生の価値とはなんだろう。仮想空間で飛んだ女の子の首の行方を見守りながらオレは思う。自分の望む優秀な学校に入って将来を約束されることか、心の底から信頼できる友人を作ることか、愛されることか、自分の好きな通りに生きることか。ならばオレの人生に価値などない。
 扉の向こうで母が泣く。








 一体何が気に入らなかったのだと母に肩を掴まれたのは、オレがダンガンロンパから帰ってきた日の夜だった。父は普段通り家にはおらず、オレはぼんやりと、彼女の乱れきった髪の毛の先を見ていた。ポケットに入れたままのスマホはオレがカプセルの中で眠り続けた数日の間に電池が切れていたし、生活臭のするものを極端に嫌う誰かがカレンダーを置かないせいで、今日が一体何日なのかも定かでない。
 夜の十時。壁が厚く、無駄に部屋数の多いマンションのリビングはこんなときでも整然としている。見慣れたはずの白を基調としたインテリアはどこか寒々しかった。間近の母が歪に見えるのは、果たして眠り続けたことの副作用か。



「あんなわけのわからないものに出演するなんて、これであなたに傷がついたわ。どういうつもりなの。あなたの将来を私はちゃんと考えていたのに!」



 廊下を出て右手にあるオレの部屋に積まれた本の数々を思う。あれは母の執着の現れだ。
 都内の進学校に通う王馬小吉は平凡な男だった。周りがどんどん成長期を迎える中ほとんど背が伸びず、進学校の授業にはついていくだけで精一杯。母が望むような成績はおさめられず、父のようになれと与えられた医学書に埋もれる彼が周囲から見下されていると知ったのはいつのことか。信頼できる友人は彼にはいない。自分の言いたいことをいつも飲み込んで周囲を窺っていた自分は自己犠牲の塊だといくら己を褒めてもそれを肯定してくれる存在はどこにもなかった。
 言いたいことが言えるようになりたかった。無理矢理箱に押し込んだせいで変形してしまった母親への反抗心がここにあるのだと証明したかった。自分だって誰かに甘えてみたかったし振り回されるのではなく振り回してみたかった。誰かの思考の真ん中にありたかった。誰の言うとおりにも思い通りにもならず、自分の思うままに振舞ってみたかった。たった一度でいいから。そんなオレを認めてほしかったんだよ母さん、きっとあなたにはわからない。
 それを叶えてくれたダンガンロンパをオレは今でも愛している。








 学校に行かなくなったオレを失敗作だと泣いた母はダンガンロンパがこの世から消え去った一カ月後にオレを家から追い出した。と言っても住んでいたマンションから鈍行列車で二時間とちょっとの小さな街に単身者用のアパートを借りてくれたのは母だし、その後も定期的に口座に送金してくれているのも母だ。オレは抵抗もしなかった。彼女の言う通りに生きてきたオレにとっての現実世界はそういうものだった。燃え尽きてしまったのかもしれない。脳細胞に透明な膜が張られたような居心地の悪さが付きまとうのに、それを手ずから取り払う気概が今のオレにはない。
 引っ越してからずっとアパートの中で過ごしていた。築浅の物件はきれいで、汚れもなければ異臭もない。母が準備しておいてくれた家具家電は家で使っていたものには劣ると言っても充分すぎるくらいに高価なもので、オレは自分の人生がそれなりに恵まれていたことを今更思い知る。勿論、オレにとって価値があったかというとそういうわけではなかったけれど。その部屋に医学書はなかった。オレを見下す同級生も、オレの将来のためだと叫ぶ母も、それらの全てに囲まれて耳を塞ぐオレも、どこにもいなかった。空っぽだった。
 食事は食べたり食べなかったりした。元々そこまで拘りはなかったし、食は細かったから、一日に一食でも生きていけた。ゴミは夜間にこっそり出した。誰にも顔を見られないようにフードをすっぽり被って足早に駆けた。定期的に入金される金で新しいゲームや漫画を買った。途中で飽きてしまうものがほとんどで、たまにテレビを見た。芸能人の顔と名前が覚えられない。退屈に耐えきれなくなるとダンガンロンパと検索した。王馬小吉と打ち込んだ。そこにオレは生きていた。オレの憧れた王馬小吉は確かにそこにいた。オレは彼が好きだった。



「……にしし」



 画面の中の彼を真似して言ってみたけれど、彼のように上手く笑えている気がしない。鏡を見れば同じ顔の男がいた。わずかに血色が悪く、こけた頬をしていた。彼が持つ不可思議な魅力は今のオレにはないように思えた。オレは彼になりたかった。オレは彼に縋っていた。
 あの世界でオレは言いたいことが言えた、好き放題に振舞えた、自信に満ちていた。他人を振り回すことが楽しかった。さいごには誰かを信じてみるのも悪くないと思ったし、他の皆に託す形でリタイアすることになってしまったけれど、オレは王馬小吉をやりきった。
 あの王馬小吉だったらと考える。
 少なくとも彼ならば、他人に与えられた部屋なんかにいつまでも閉じこもってなんかいない。他人に馬鹿にされる前に先手を打つし、言いたいことを呑み込んで他者を思いやるなんて馬鹿じゃないのと笑うだろう。「『今のオレ』はつまんない」と。オレはいつまでこうしているつもりなのか。王馬小吉になりたいのならば、蹲って膝を抱えて過去の栄光に縋っている場合ではない。分かっているのに動けないのだ。なぜなら、王馬小吉は若者を中心に広く顔を知られてしまっている。マスクをしていようが変装していようが、視線というのは付きまとう。指を指され小声で名前を呼ばれる自分を想像してみてぞっとした。もう少し時間が必要だと言い訳をした。一年が経つ頃にはファンサイトは既に更新をやめていたし、二年目になるとSNSでのエゴサも母数が無くなり意味を成さなかった。
 気がつけば十代をこのアパートの部屋で終えた。ダンガンロンパが終了して三年が経って四年が過ぎた。親からの送金は滞った試しがなく、オレは今日も生きていくのに苦などない。けれど、いつまでもこうしているわけにもいかなかった。








 玄関の扉に手をかける寸前、動悸もしたし眩暈もした。季節外れのマスクは蒸れて苦しかったし、久しぶりに着てみた外出用の服は虫に食われて穴があいていた。それでもオレにとっては一張羅だ。足首が少し出て、もしかしたら引きこもっている間に身長が伸びたのかもしれないと気が付いたけれど、それを確認する相手はどこにもいない。目を閉じて扉を開けると、一瞬世界が白んで見えた。けれど目を閉じたままのオレが見ていたのは間違いなく己の瞼の裏でしかなかった。その日は一歩だけ外に出て、部屋に戻った。
 次の日、意を決して外に出たオレはアパートの周囲を歩いてみた。足ががくがくしていたから、人に会わなくて良かった。三日目も同じコースを回る。筋肉痛になる。一度犬の散歩をしている老人とすれ違った。会釈をされたときは心臓が止まった心地がしたけれど、ぎこちなくも頭を下げ返した。四日目は気が大きくなって少し道を変えてみた途端、見事に迷った。死ぬかと思った。五日目に学生の集団と出くわす。習性か、息を潜め小さくなってしまうも誰もオレを気に留めない。六日目に勇気を出してコンビニに入る。好きだったお菓子のパッケージが変わっていて二度見する。七日目、雨が降ってきたので傘を買う。家になかったから丁度いい。アパートの近くの公園を通りかかった時、不意に見た岩の上、大量のなめくじに紛れて一匹だけかたつむりがいた。何となく写真を撮る。てろりんと間抜けな音楽がブランコと滑り台だけの無人の公園に響き渡る。
 商店街に行ってみたのはオレが外を出るようになってから一カ月が経った頃だ。その頃にはオレはダンガンロンパが世の中から完全に風化していることを察していた。漏れ聞こえる会話から察するに、今の学生たちはあのチームダンガンロンパに所属していた数人が新たに製作した恋愛観察バラエティに夢中らしい。平和になったものだ。そう思いながら肉屋でハムカツを買う。揚げたてを食べるのは何年振りか、あまりの美味しさに感動して、明日も買いに来ようと心に誓う。通りかかったパン屋は来月閉店するらしい。その前に一度入ってみるのもいいだろう。
 外の世界は広かったし、自然の風は心地よかった。雨に降られるのも悪くないし、美味しいものはたくさんある。子供の笑い声は案外嫌なものでもなかった。園児が車輪のついた小さな箱に押し込められて散歩をしている姿は微笑ましい。犬の散歩をしている老人とは顔見知りになった。犬の名前はゴン太といった。そんな名前の男がいたなとオレは笑いたいのにうまく笑えなかった。
 オレの脳内の王馬小吉は平凡なオレの影で冷たくなりつつある。








 まだ梅雨も明けきらない初夏だった。少しずつ行動範囲を広げていたオレが駅へと足を向けたのは必然だったのか。遠出をしたいわけではなかったけれど、いつか電車に乗ってどこかに行くのもいいと思った。だってオレは自由だ。母もいない。同級生もいない。ダンガンロンパも王馬小吉も世間から忘れさられ、死んでいるも同然で、ならばオレはいつかオレのなりたい王馬小吉になれるはずだと信じていた。ダンガンロンパが作り上げた王馬小吉か、それ以外の何者か。それはオレにも分からない。駅の中に本屋があるなんて知らなかった。気になった文庫本を二冊取ってレジに向かう。本屋の紙のにおいにすら郷愁を覚える。誰もオレを知る人間がいない街で、オレはもうすぐ二十二になろうとしていた。
 だけどそこにキミはいた。
 偽物のキミが。



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