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 神社に近づくと人の数は桁違いに増えた。商店街の通りの一部を潰して並ぶ屋台はそのまま神社の敷地内まで続いていて賑々しい。陽が暮れるには早い時間帯であるせいか、そこかしこにぶら下がった提灯にまだ灯りはなかったけれど、それでも夏の熱気はまだ濃い密度を保ったままシャツから出た皮膚にべたりと張り付いて、私は無意識にペットボトルを首筋に押し当てる。結露が首を濡らして、ともすれば冷たすぎるくらいだった。
 都会とは決して言えない小さな街のどこにこんなに人が隠れていたというのだろう。王馬くんはすっかり先ほどまでの早歩きをやめていた。暑さのせいかその顔は白く、手首で額の汗を拭うその姿を見ていたら目が合ってしまった。王馬くんは私に気が付くと、力ずくでペットボトルを奪い取り、驚いて言葉を失う私の眼前でそのキャップを緩めた。



「炭酸だったらここで振ってやるとこなんだけど」

「それはすごく困る」

「でしょ? ラッキーだったね赤松ちゃん!」



 私にペットボトルを差し出しながら「さっさと飲めば?」とほとんど変わらない目線で微笑んだ彼は、どうやら他意はないらしい。



「……ありがとう」



 言いながら、緩めてもらったキャップを外してお茶を飲む。自分で開けられなかったわけではないけれど、思った以上に水分が失われていたらしい。喉を通った液体は僅かに温くはなっていたものの、生き返った心地がした。思わず喉から出た小さな息に、王馬くんは曖昧な笑みを浮かべる。



「にしし、お礼はわたあめでいいよ」



 前言撤回だ。他意があった。



「最近食べてないから食べたいなー食べたくて食べたくて仕方ないなー、あっ見て赤松ちゃん。わたあめ屋さんだよほら行ってきて」



 嘘でしょ。そう吐き出しそうになるのをどうにか堪え、私はお茶のキャップをきつく閉める。神社の敷地と道路の丁度境目に陣取られたわたあめ屋さんには、小さな女の子を連れた家族連れが足を止めていた。わたあめを入れてもらう袋の柄を選んでいるのか、華やかな色合いのアニメキャラを、女の子は真剣に眺めている。その後ろ姿が見知った誰かのそれに見えるのだから救えない。



「でもほら王馬くん。お店でお買い物する前に、お参りしてこよう」

「は? なんで」



 私の言葉に王馬くんの表情は一瞬で曇ってしまった。いや、曇ると言うよりはもっと攻撃的だ。は? という短い言葉の中に含まれた苛立ちに、前を歩いていた浴衣姿の女子高生が目線をよこす。だけど私は少しでも時間を稼ぎたい。馬鹿みたいだ。親子連れに怯んでいたら、今日はもう一歩も進めやしないのに。



「なんでって、普通しない? 神様に御挨拶」

「赤松ちゃんってそういうタイプ? 申し訳ないんだけどこう見えてオレって無神論者なんだよね、行くなら一人で行って来て。ほらきっとこの列だよ。うわーすっげー並んでるね! 神社の敷地の半分は列になってるね! どんくらい時間かかるかな! 行ってらっしゃい!」

「……わたあめ買ってくる。」

「最初からそうすればいいんだよ!」



 ころころと表情を変える王馬くんを置いて私はため息交じりに屋台へと足を向けた。先ほどの親子連れが会計を終えて去って行ったのが幸いだった。王馬くんには気づかれなかったようだけど、私はあの親子に近づきたくなかったのだ。財布を取り出してわたあめを一つ買う。どの袋がいいかといかついおじさんに訪ねられたので、目についたアニメキャラを指差した。一つ五百円、私の時給の約半分と思うと胃も胸も痛くなったけれど仕方がない。王馬くんはわたあめを持って帰ってきた私に「にしし、お帰り~」と微笑んだ。まだあどけなさの残るその笑顔にすっかり絆されてしまうのだから、私も大概単純だ。
 王馬くんは私からわたあめを受け取ると、食べるでもなく袋を抱えて歩き出した。神社の敷地内には、射的、輪投げ、金魚すくいと様々な屋台が並んでいる。王馬くんはこういったものが好きそうだし、何かやりたいのかもしれない、と考えながら後ろをついていくけれど、彼はそのどれにも目をくれず真っ直ぐに人ごみを突っ切って行った。その迷いのない足取りに何かあるのかと思ってついていくと、あろうことか彼は神社の中で一番長い列を成すその最後尾についた。最長蛇の列だ。さすがに突っ込まずにはいられない。



「王馬くん」

「なに赤松ちゃん」

「……お参りするの?」

「え? まさかしないの? びっくりだよ赤松ちゃん! 日本人たるもの、きちんとお賽銭を投げて神様に挨拶すべきでしょ!」



 もうわけわかんない、という言葉が口の中から出てきそうになって、どうにか呑み込んだ。彼の言う「赤松ちゃん」は、そんなことは言わない。ならば「赤松ちゃん」だったらどうするだろう。今日の私は、何だか上手く彼女になりきれない。王馬くんは私から反応が得られないことを知ると、黙って列の後ろに並んだ。あのコロシアイの中でも、痛いほどの正論で周囲を元気づけようとしていた正真正銘の赤松楓は、彼の中でどんな存在だったのだろう。私は王馬くんの隣で、五年前、世界中を熱狂させた番組の始まりを思う。
 記憶を失くした出演者たちは、人格すらも番組サイドに植えつけられてしまうらしい。
 「赤松楓」に与えられた設定は、明朗快活とした優等生だった。面接のときに合格することを考えて私が演じたキャラクターとはかけ離れていたけれど、だからこそだったのかもしれない。それは運が良かったのか悪かったのか、まるで普段の楓ちゃんだった。おかげで私は今も、彼の前で「赤松楓」を演じることが出来る。「赤松楓」が持つイメージは、私も彼も同じなのだから。



「赤松ちゃんはさあ」



 ふと、隣に立つ王馬くんが私を呼んだ。呼んでおきながら、緩慢な動作でわたあめの袋の口を開ける。白い手首に浮かんだ血管を、私はどこか既視感を持って眺めている。緩やかに流れる列の最後尾はもはや私たちではなく、潜り抜けた鳥居はいつの間にか遠い。王馬くんが着ている白いTシャツから鎖骨が覗く。何の変哲もないパンツに、薄っぺらいサンダル、彼はここが人ごみでなかったとしても、簡単に埋没する。だけど、彼から見た私だってそうだ。白いシャツに、細身のパンツ、一昨年買ったサンダルは傷んで、壊れかけているのをだましだまし履いている。黒い髪を緩くアップにして、百円均一のゴムでまとめただけの、草臥れた成人女性は、縁もゆかりもない土地で一人生きている。人ごみの中でしゃがみこみ、自分の罪を両手で砂をかけて埋めている。私は逃げなくてはいけない。世界中が私を忘れてくれるその日まで。
 私と同じような服を着ている彼もまた、そうなのだろうか。



「――これ、甘」



 結局彼が、言葉の続きを吐き出すことはなかった。甘い甘いと文句を言って、残りの三分の二を私に押し付けると、あとは無言でお茶を飲み続けていた。口数が少ないから具合が悪くなったのかと思ったけれど、列に並んでいるうちに太陽は沈みかけ、残っていた熱気も失せた。
 私は黙々ともらったわたあめを食べ続ける。そうしているとこの甘さが蘇らせる、楓ちゃんと二人で一つのわたあめを分け合って食べた思い出に殺されてしまいそうだった。前に立つ少女の白いうなじに、私によく似た顔の少女を思い起こしてしまいそうだった。残りのわたあめを口の中に詰め込んで、空になった袋を小さく畳んでバッグにいれる。目を閉じて私はすべてを咀嚼する。溶けていく綿の感触に、どうかこの恐怖も消えてくれと願う。ともすれば肌寒いくらいの温度になった頃、「オレさあ」と王馬くんが不意に口を開いた。参拝の順番は、目前だ。



「今日、来てもらえないかと思ったよ」



 俯いてサンダルのつま先を見つめながら小さく笑う彼は、私を見ない。








 神様への御挨拶なのか、願い事をする場か、それとも懺悔なのか。私はお賽銭を投げいれたあと、手順に従って頭を下げながら、五年前のことを思い出していた。楓ちゃんが拉致されて、ダンガンロンパから帰ってくるまでの数日間のことだ。
 五年前、楓ちゃんが何者かに拉致された日、ダンガンロンパの製作者を名乗る男性から連絡が来た。番組に出演してもらうため楓ちゃんを拘束することになること。とは言っても時間の流れが現実とは異なるため、はっきり断定することはできないけれど一日から数日で収録を終えることができること。困惑する両親を前にして、一番驚いていたのは私の方だった。私は失敗した。私はゲームの中ですら、赤松楓になれなかった。
 償いきれない罪を犯したのに、どんなに泣いても悔やんでも、私の罪を許してくれる人はどこにもいない。



「王馬くん」



 顔をあげた私は、王馬くんがまだ手を合わせて目を閉じていることに気が付いた。随分と長いこと手を合わせているために、後ろの男性が困ったように私に目線を送る。私は男性に目礼をしながら、王馬くんの服の裾を引っ張った。顔をあげた王馬くんは何も言わず、後ろ髪をひかれる様子もなく、ただ私に促されるまま階段を降りるために振り向いた。
 薄暗くなりつつある境内のあちこちに張り巡らされた線に小さな提灯が揺れている。ほんの一瞬、オレンジ色の淡い光の中、大勢の参拝客を見下ろす形になった。一歩階段を降りる。あとはたこ焼きを食べるんだったか、あれ、お好み焼きだっただろうか。尋ねようと思って半開きになった唇は、けれど何も言葉を吐き出せなかった。私は手首を掴まれた。後ろから、痛いというには限りなく頼りない力で、彼は私の手首を掴んでいた。
 振り向いた私は、彼が頭を垂れていることを知る。王馬くんは私に触れたまま、目線をあげようとしなかった。階段を降りることもしなかった。先ほど後ろに並んでいた男性が参拝を終えて、今度はあからさまな舌打ちをよこしたため、私は慌てて王馬くんを引っ張って階段を下りた。



「どうしたの王馬くん。具合悪い? 気持ち悪くなった? お茶は? 全部飲んじゃった? 私のでよかったら」



 人ごみから離れるために屋台の裏側の方へ回る。肩から下げたバッグから片手でペットボトルを取り出して差し出すも、王馬くんはぐったりと項垂れたままだ。何か、微かな音が聞こえた気がして、私は耳を彼の口元に寄せる。若い女の子たちの笑い声、転んでしまったのか、泣きじゃくる子供に向けられた、いたいのいたいのとんでいけ、悲鳴のようなクラクションは神社の外から、乾いた射的の銃の音、長い前髪の隙間から見える彼の皮膚は青白かった。ああ、しんどい。彼の唇がそう動いたような気がした。
 人ごみから離れた屋台の裏にも喧騒は届く。漏れた店の灯り、オレンジ色の提灯、誰かの足の裏で死んでいたのは私だけではない。王馬くんが顔をあげる。私が二十年もの間見続けた夢の終わりがここだというのなら、なんて現実的で、美しくも優しくもないのだろう。王馬くんは口角をあげた。額に汗が浮かんでいた。「にしし」とは言わなかった。私は知っていた。私の手首を掴む彼の腕が震えていたことを。ああ、しんどい。確かに聞こえたその音を。しんどい。しんどいな。しんどかったな。ダンガンロンパから戻ってきた楓ちゃんはまるで抜け殻のようだった。彼女はピアノを見ると泣き叫んだ。吐いて蹲って、頭を掻き毟った。ダンガンロンパは呆気なく一人の少女の心を壊してしまった。いや違う。
 楓ちゃんを壊したのは私だ。








 赤松さんの、そう、ねえ、あの子が、本当にびっくりしたわ。ね、それでどうも、やられちゃったらしいのよ、頭、ねえだって、そうよね、バーチャル? とはいっても、死んじゃったわけだもん。にしたってさあ、参加者同士で殺しあうんでしょ? あんな趣味の悪い番組に出るなんて、若い子ってわかんないわね。これでもうあの子も終わりじゃないの。折角あんなにピアノが上手だったのに。








 父はこの一件が関係したのか定かではないが転勤を言い渡され出世街道から外れた。母は楓ちゃんを入院させるために奔走した。その間も楓ちゃんはずっと部屋から出てこなかった。罪の意識に耐えられず事の真相を語った私の言葉は、十分の一でも両親に届いたのだろうか。父は私を責めず、母は二晩泣き明かしたあと私を無視することに徹したけれど、お酒に酔うと、必ず物を投げつけた。あんたのせいで何もかも台無しだと酩酊した顔で叫ばれ、私は部屋に鍵をかけて閉じこもる。責められたほうがよほど私は楽で、ベッドの上で膝を抱えて声を殺して笑った。笑いながら、もうだめだと思った。外も歩けない。高校にも勿論行けるはずがなく、私はその年通っていた学校を自主退学した。父の勧めで家で勉強し、高卒認定試験だけを受け、僅かな援助を受けて家を出たのが本来高校を卒業する予定だった年の三月の終わりだ。私の住所を知っているのは父だけで、けれど私はもう家族の誰とも連絡を取り合ってはいない。








 ああ、しんどい。しんどいね。王馬くん。思っただけの声は漏れてしまっていたのだろうか。王馬くんは私の顔を、目を見開いて見つめていた。どれほどの時間そうしていたのだろう。彼は眉を下げる。



「ごめん赤松ちゃん、今日は帰るね」



 私の腕を離した王馬くんは、片手で両目を覆うと、私の視線から逃げるように踵を返した。私は王馬くんの小柄な体が雑踏に紛れこんでいくのを、ただただ、見送っている。








 ダンガンロンパに出演した学生たちが性格すらも植えつけられるというのなら、それは王馬くんだって例外ではない。私がそれに気が付いた時には、彼からの連絡が途絶えて五日が経っていた。



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