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私は彼から来たメッセージになかなか返事をすることができずにいた。既読のマークを付けたまま、次の朝を迎え、何食わぬ顔でバイトに行き、休憩中に一度返事を打とうとスマホを取り出したけれど、結局画面とにらめっこしたまま、私の指は微動だにしなかった。
駅中にある本屋は週末に控えた夏祭りのポスターがそこかしこに貼られていて、昨日までは気にならなかったそれらの一枚一枚に描かれた獅子舞に、私は睨みつけられているような気すらしている。運が良いのか悪いのかちょうどお祭りのある日はバイトも休みになっていて、私は彼への断り方に頭を悩ませていた。私は、王馬くんに会う気はない。
どれだけ時間をかけてもタイムリミットのないメッセージの返信であるならば、私は上手く楓ちゃんを演じられている自信があった。十年と半分以上を一緒に過ごした双子なのだ。いくら才能のあるなしで線を入れられたとはいえ、姉になりきることは容易い。けれど彼に会ってしまえば、きっと私が塗りたくった土壁は呆気なく落ちる。私は王馬くんの前で上手く取り繕える気がしないし、彼の方だって私が着た着ぐるみの不自然さに気付くだろう。顔を見ずにやりとりしている今は良いとしても、直接会ってしまえば彼は私に不信感を持つかもしれない。私はこのままでいたかった。私は楓ちゃんになりたい。神の子でありたい。高校生のときの願いは五年を経た今も尚削がれる気配がない。
バイトを終えて帰宅する道中、私は小さな公園に寄って、ベンチに座った。ブランコと滑り台があるだけの味気ない公園に子供の姿はなく、私は気を抜いて足を伸ばす。きちんと手入れがされていないのか、伸びきった雑草が私の脛を刺していく。近くの商店街から油のにおいが漂う。ざわめきが遠い、まだ日が沈む気配のない夏の夕暮れに、私の影だけが地面をくり抜く穴のように濃かった。スマホを手にしたまま、突発的に私は細長く伸びたそれを蹴り上げた、私のつま先は空を蹴るだけだった。そこには誰もいなかった。ただ私から離れない影だけが鮮明だった。私は何をしているのだろう。自分自身は、家族のようには切り離せない。
私は彼の誘いを断る気だった。バイトがある。友達ともう約束をしている。もしくは今から熱を出す。私はいくらでも嘘をつくことができるし、それらにいちいち罪悪感を覚え、心を痛めるような子供ではなかった。文字を打とうとした瞬間、けれど視界の隅の無人のブランコに誰かが座った気がした。顔をあげても誰もいないのに、私はそこに十五年前の二人の少女を見る。お揃いのワンピース、長い髪はあの頃はまだ、母が編み込んでくれていた。いつからだった、自分で髪を結ぶようになったのは、部屋の外から楓ちゃんの髪を梳く母の後ろ姿を見つめていたのは。
「ほんとうに楓は不器用ね。は自分できれいにできるのに、あなたはいつまでママに結んでもらうつもり? 」
口ではそう言いながら、母の声音は酷く柔らかい。ツインテールもおさげもお団子も、私は中学に入るころには自分でできた、ピアノを間違えずに一曲弾くよりもずっと簡単だった。楓ちゃんは「無理だよぉ、ボサボサになっちゃうんだもん」と甘えた声を出す、私はそれを見ている。母は愛おしそうに楓ちゃんの髪を束ねていく。お揃いで買ってもらったシュシュを私は一度もつけていない。だって私も本当はピンクが好きなのおかあさん。私はいつも蚊帳の外。
スマホが光った。私はぼんやりとその点滅を見つめている。二十歳を過ぎた私は何もかもを一人で出来る。料理も掃除も洗濯も、買い出しもバイトも、古いアパートでの一人暮らしも、あの子とは違う、全てを親に任せる甘えん坊のあの子とはちがう。今だってそうだ。あの子は今も一人では何もできない。守られ、愛され、手をつながれている。ちがうのに、馬鹿にしているのに狡いと思っているのに恨んでいるのに、私はこんなにも楓ちゃんが羨ましい。自分の望むままに他人を動かすことのできる価値を持った一国の女王、私は楓ちゃんにはなりたかった、愛されたかった。
ブランコに座る幻の少女の一人が私をじっと見つめている。丸い澄んだ瞳がやがて細められる。「ほんとうにあなたは不器用ね」同じ格好をした良く似た顔の少女を、私は間違いなく見分けることができた。違うと、その時鮮烈に思った。私は楓ちゃんになりたかったのではなかった。十五年前の私が笑う。
「行く」
返事を催促する彼へのメッセージが届いた直後、私はそう返信していた。
仕事着にしている白いシャツと黒いパンツ、私が持っている服はこれしかなく、他に選択肢なんてなかった。このために服を買いに行くのも馬鹿馬鹿しいし、浴衣なんてもっての他だ。私は約束をした時間に間に合うように着替え、化粧をした。僅かに残っていた使い捨てのコンタクトレンズを入れて、普段は束ねているだけの黒い髪をまとめる。鏡の中に映る自分を見つめる。私は楓ちゃんになれているだろうか。勝気な目は眼鏡がないとどこか腑抜けて見えた。
バッグに必要なものを詰めて、履き潰したスニーカーに足を突っ込む。玄関を開ける直前に振り向いて、部屋を眺める。かつては白だったと思われる変色したカーテン、へこんだ壁を隠すために置かれた小さな白いチェスト。この街で買った布団は畳まれて、今は押入れの中にある。もう慣れた独特のにおいは湿気によるもので、除湿機を買いたいけれどお金がない。私はかつてと比べれば惨めな生活を続けているけれど、でも、私はこのアパートが好きだ。薄い壁の、コンロが一つしかない、足も伸ばせない浴槽の、しみついたヤニの、傷んだ畳の、私はこのアパートが好きだ。
「行ってきます」
例え返事をしてくれる人がいなくても、私はそう呟く。
待ち合わせ場所にしていたコンビニで、彼は飲み物を選んでいた。王馬くんはスーパーで会ったときのように、平凡なシャツにパンツを履いていて、そうと知らなければ彼がかつて日本中の若者を熱狂させていたダンガンロンパの出演者だとはわからないだろう。芽生え始めた緊張感を自覚するよりも早く私が声をかけると、しかし彼は頭のてっぺんからつま先まで私を無遠慮に眺めて「嘘でしょ……浴衣じゃないとか信じられないんだけど……」とわざとらしいため息を吐いた。
楓ちゃんだったら、と、脳が勝手に限りなく正解に近い答えを弾きだす。「もう、別に私服だっていいでしょ。王馬くんだって浴衣じゃないんだから!」と言い返すと、私は知っている。しかしコンビニのガラスに映る私は、私をそうだと信じている彼の前に立つ私はそれでも果たして赤松楓か。私は彼に会ってどうしたかったのか。声が出ない。
「まあ浴衣とか男に媚売ってるみたいで腹立つから別にいいんだけどね! 」
王馬くんはそんな私の内情を知ってか知らずか、私の横をすり抜けてレジへと向かっていく。清算を済ませ店を出ると、彼は追いかけて店を出た私に購入したばかりのペットボトルを一本放り投げてよこした。緩く放物線を描いて宙を舞うそれを、私は慌てて受け止める。結露で濡れたペットボトルが、シャツを僅かに湿らせる。
「あげる」
「え、あ、ありがと」
「にしし、お礼はたこ焼きでいいよ!」
「それ私が損するやつ……」
自然と口からついて出た言葉に私は咄嗟に口を噤む。今の言葉は私の中で生きる楓ちゃんからは遠くかけ離れていた。王馬くんの反応を窺うと、彼は「そうだよ! 今日は待ち合わせに遅刻した赤松ちゃんの奢りだから!」と目を細めていたのでほっとした。いや、ある意味ではほっとしていないけれど。
家族連れや中学生のグループが一定の方向に歩く列に入りながら、私は自分の財布の中身を思い出す。大して入ってないことに間違いはなく、私は自分の手の中で徐々に温くなっていくペットボトルを握りしめる。
「あ、あの、私今日あんまりお金……」
「まずはかき氷だよねー、オレ、グレープね! しっかしああいうところの焼きそばってめちゃくちゃ高いよね、いや焼きそばに限らないけどさー。そういえば赤松ちゃんは型抜きとか得意……なわけないかー」
前も思ったけれど、王馬くんは人の話をあまり聞いていない。いや、聞いているのかもしれないけれどわざとこういう態度を取るせいで不真面目な印象しか与えない。私よりやや前を歩く彼の、僅かにはねた髪の先を見つめる。それがダンガンロンパの彼より大人びているのかどうかも分からない。彼は私に振り向く。「赤松ちゃん」目が合って、息が止まった。
「今日はオレに、ちゃんと付き合ってもらうからね」
目を細め、穏やかに口角をあげて笑う王馬くんは、ともすれば泣き出す寸前にも見えたのだった。
私の返事を待たずに、王馬くんは再び前を向いて歩きだす。商店街の先にある神社に近付くにつれて、賑わいが増していく。浴衣姿の若い女の子たちの華やかな装いに目を奪われるのは私だけで、王馬くんは迷うことなく人ごみを進むので、私は彼を見失わないように、ただただ、その後ろ姿を必死に追いかけた。