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鍋の中に入っていた分のカレーがなくなってしまってから、二日が経っていた。
いつものようにバイトを終えて帰路につき、アパートに着くとすぐに浴槽に湯をはる。私が高校を卒業する年齢まで住んでいた実家と違い、一定量が入ったら自動で止まるような仕組みではない昔ながらの浴槽で、うっかりお湯を溢れさせてしまったことは一度や二度では済まない。蛇口を捻って十分後にタイマーをセットすることを学習した私は今日もパンツのポケットからスマホを取り出した。そして通知が来ていることにすっかり息を止めてしまう。
「あ」
画面の上部に現れたメッセージの一部に、「王馬小吉」の名前があったのだ。
忘れていたわけではない。彼の存在はそれくらいに色濃く、私の平淡な日常に影を落としていた。いつか連絡が来るだろうことも察してはいたし、二回は夢に見た。目が覚めて慌ててスマホを見る私はそうして自分の生活に彼が侵食してきていることを感じていたからこそ、こうして実際に連絡が来て、実を言うと少し安堵したのだ。彼と出会って実に五日目の、土曜の夕方、浴室の中に申し訳程度にはめ込まれた小さな窓から西日が差しこんで、私の皮膚を通り抜け、内臓にまで染み込んでいく。
「赤松ちゃん、どうして連絡してくれないのさー! オレ、ずっと待ってたんだけど」
蛇口から落ちるどぼどぼという水の音を聞きながら、眼球を限界まで見開いて、一文字一文字を脳に直接刻み付けるように見つめる。いくら丁寧に掃除しても取れない湿ったかび臭さは、二十年以上を生きてきた私がここに来るまで縁のなかった臭いだった。こびりついた赤かびに、蛇口の錆、足も伸ばせない浴槽に、換気だって充分できないそこを私は好きになれなかったのに、今は一歩も動けない。
私の脳裏には楓ちゃんがいた。明朗快活、すべてのものを手に入れた神の子、愛されることが当然で、彼女はいつだって世界の中心だった。その足の裏に踏みつぶされていた、顔が同じだけの凡夫の呼吸を彼女は知っていたか。私はいつだって彼女になりたかった。今ではもう顔もぼやけてしまった初恋の人は、もはや彼女を見つめていた後頭部だけを鮮明にして私を置いていく。
震える指が、彼への返事を作っていく。赤松ちゃん。彼がそう呼ぶあの子ならと、私は考える。そうだ、そうだ、そもそも私は彼に声をかけられたとき、どうして否定しなかった。私は楓ではないと、なぜすぐに告げなかった。そうすれば彼のことをいくらでも簡単に振り払えたはずなのに。
赤松ちゃん、彼が親しみを込めてそう呼んだ瞬間、私は足の裏の底から這い上がる熱に抗う気すらなかった。
惨めな日々でした。彼女の影に隠れ、息を潜め、無価値なピアノに縋りつき、いい子と言われ、頭を撫でられるたびにすり減る頭蓋の骨に誰も気付いてはくれなかった。もしも、もしも私が楓ちゃんだったらと思わなかった日はなく、私ならば、才能のない妹に気を遣ってやったはずだと無神経な本物を責める。私が彼女なら川上くんの気持ちを踏みにじったりしない。「川上くんって人に告白されたんだけど断ったんだあ。ちゃん、同じクラスだったよね?」なんて言葉は絶対に吐き出さない。私の方が絶対に、絶対に美しい赤松楓になれるのに。そう思っていた。ずっと、ずっと。
だけど、王馬くんの前では私は、私が赤松楓だ。
「もー。どうせまた嘘なんでしょ? その手には乗らないんだから!」
じめじめとした浴室に座り込んで、既に存在しない姉になりきる私はなんと滑稽か、西日が目に刺さる。あまりの眩しさに視界が白む。この街のどこかで、彼は今頃口角をあげて笑っているのだろうか。赤松楓と再会できた奇跡を喜んでいるのだろうか。
私がそうであるように。
王馬くんはそれから一日に一回は必ず、どうでもいいようなメッセージを私のスマホに残していった。地面に落ちた空き缶の写真、雨の日のカタツムリ、この街にはない海岸線、時折送られてくる写真はお世辞にも上手ではなく、私の心を惹きつけるには至らなかった。私はその度に楓ちゃんのふりをして「写真ばっかり送られても困るよ!」と返事をしておいた。彼は猫が斜め上を見ているだけの、とぼけたスタンプを送ってくる。
私にとっての王馬小吉のイメージは、大衆にとってのそれと同じで、掴みどころのない気分屋だ。勿論あの番組の中での彼しか私は知らないけれど、それでも王馬くんの存在感はひょっとしたらあの中にいた十六人の誰よりも鮮明だったのかもしれない。
彼は何度目かの事件で派手なトリックを使って犯人に自分を殺させたらしい。らしい、というのは、私がそのときには既に五十三回目のシリーズとなるあの番組を見ていなかったためだ。あの頃は、それどころではなかった。私の家族は崩壊していた。おしまいのスイッチを押したのは私だった。
もしもあの番組の話になったらどうすべきか、と、前もって私は返事を考えていたのだけれど、彼は一切そのことに触れようとはしなかったため、それは杞憂に終わった。
「ねぇドラマ見てる? 火曜日のあれ、ドロドロの不倫モノ!」「オレ実は今花屋でバイトしてるんだけどさ、今度赤松ちゃん買いに来てよ、売れないんだよねー。なんてウソウソ」「これは本当に本当の話なんだけど、あそこのパン屋近々夜逃げするって噂だよ」
彼の話はいつだって突拍子もなく、虚実に塗れて掴みどころがない。
私はそれを話半分で聞いていたけれど、実際二週間後に彼の言うパン屋は潰れた。花屋は避けて歩いているから、本当に彼がそこにいるのかは分からないけれど、私はややもするとスリルがある彼とのやりとりを楽しんでいる。私はこの手の中におさまるスマホの中では、簡単に赤松楓になれた。彼は私を赤松楓にしてくれた。
過去を話さない私たちは、同時に互いの核心にまるで触れようとしない。彼がスーパーで私に声をかけたあのときだけ、畳み掛けるように質問を投げてきたけれど、以来王馬くんは私に何も尋ねない。夕暮れの商店街、ブランコと滑り台だけがある小さな公園、薄くなりはじめた道路の白線の上を歩く小さな子供の後ろ姿、紙のにおい、並んだ本の表紙の光沢、空き店舗、彼が見た景色に、歩いた道に、彼が住んでいるこの街に、私は染みこんでいく。
スマホの中で彼は今日も生きている。
初めて王馬くんと出会ったスーパーは、あれから行っていなかった。この辺では一番安く食料品を買える店だったから重宝していたけれど、二番目に安いお店で日々の買い物をすませることにしてから、もはや二カ月が経とうとしている。蝉の死骸が道路に転がり、神社で行われる夏祭りのポスターが店に貼られる。季節の変遷に関わらず、私と王馬くんは今日もどうだっていいメッセージを送りあう。
腹の探り合いなどなかった。私はとても楽だった。赤松ちゃんと彼は呼んだ。分かりやすい嘘を本当だと言い張り、分かりにくい嘘をついた。画面の向こうで彼はきっと笑っていたし、私も笑っていた、それでよかった。彼と出会った初夏の日は今もなお鮮明で、私はあの日に全ての記憶を埋めていく。二カ月の間私が浸り続けたぬるま湯は既に濁りきっていた。分かっていたけれど私はそこにいたかった。
スマホが手の平の中で鳴る。
「ねえ、一緒にお祭り行こうよ」
きれいに整頓された部屋の中、汚れた畳の上で正座をする私の手の中で、彼はしかし夢から覚めようとしていた。