2



 かつてネット上を大いに賑わせたダンガンロンパシリーズが終了して、五年が経った。
 突然の幕切れに嘆いていた視聴者も、今では似たような、けれどもっと平和的な番組に夢中になっていて、ダンガンロンパという単語それ自体が人々から忘れ去られ始めている。今更になって「趣味の悪い番組だったよね」と、当時のめりにのめりこんでいた若者たちが我が物顔で批判するダンガンロンパシリーズは、仮想世界で高校生に限定された出演者たちの記憶を奪い、殺し合わせるという残酷な番組だった。仮想空間であるといえど放送コードに引っかかるため、ネット配信という形で様々な規制をぎりぎりのところで潜り抜けていたものの、五十三回目のシリーズでダンガンロンパというブランドに終止符は打たれる。生き残った生徒たちに舞台の真実を暴かれてしまい、視聴者やスポンサーが一斉に離れてしまったというのが製作者側には痛手だったらしい。



「ダンガンロンパは一時お休みさせていただくことになりました!」



 公式サイトに浮かぶその文句はフォントも文字色もいやにポップだったけれど、あれから五年経った今もそのページが更新されることはない。当時は爆発的に売れた白黒のクマのマスコットはもはや店頭では見かけず、中古ショップに山積みされたまま埃をかぶっている。
 ダンガンロンパは忘れられる。全ての人々の記憶から少しずつ剥ぎ取られていく。
 あれが終わってから五年が経った。五年で私はようやく外を歩けるようになった。ダンガンロンパV3、最後のシリーズに出演していた赤松楓は、私の双子の姉だ。








 一人暮らしのアパートは必要最低限のものしかなく、殺風景だ。小さなカセットコンロに中古の百四十リットルの大きさしかない冷蔵庫、前の入居者が使っていた、煙草のヤニでうっすら黄色くなったカーテンは気に入らないけれど買い替えるには窓二つ分必要で、結構な出費になってしまう。元々実家で使っていたミニテーブルに、白いチェストは六畳しかない畳の部屋で酷く浮いていた。築十八年の古びたアパートはけれど格安で、自分のバイト代だけでどうにか、本当にどうにか払えそうな額だったから、文句を言える身分ではない。
 実家のある高級住宅街と呼ばれる地域からは、電車で二時間。通う大学があるわけでもない、職場が近いわけでもない。そもそも私は大学には通っていないし、バイトを掛け持ちしているだけで、きちんとした職についているわけでもなかった。今は駅にある本屋のレジ打ちと、時折入る単発の仕事でどうにか生きている。スマホ代は馬鹿馬鹿しいくらい高いけれど、ないと働けないから格安会社のものを使っている。仕事着にしている白いシャツと黒いパンツ、その替えがあれば下着以外に必要な衣類はそうそうなく、私は二十一歳というにはあまりにも地味な風貌で地味な生活を送っていた。
 コンタクトレンズは高いから黒縁の眼鏡。これは顔の印象を変えるのにも便利だから昔から愛用している。ありがたいことに肌はそこそこきれいなほうだったから、日焼け止めと安い化粧品だけで何とかなっている。髪の毛は染めない。お金がかかるし、そもそも私の働く本屋は保守的な店長の好みにより茶髪厳禁だ。朝起きて、安売りで買っておいたお米を炊いて、貴重な卵を割ってご飯にかけて食べる。顔を洗って歯を磨いて、黒縁の眼鏡をかけて髪の毛なんて適当にひっつめているだけ、なのに時折私は鏡に映った自分にぞっとする。どんなに眼鏡で隠しても、勝気そうな目が、愛された少女が、そこにいる。
 かつて外を歩けば必ず指を差された。行き交う人々の口から漏れる言葉はすべて「ダンガンロンパ」とそう聞こえた。私は金髪でもないのに。彼女が持っていた自信も希望も余裕も微塵もなかったのに。私は「赤松楓」と叫ばれる。
 だけどそれに耳を塞いで被害者ぶる権利なんて私にはなかった。姉の名を騙ってオーディションに書類を送ったのは妹である私だ。私は姉になりたかった。誰からも愛される希望の子、現実の世界に私の居場所はなく、両親も姉も好きな人も私を見てくれず、ピアノの神も私を愛してはくれなかった。だから私は楓になりたかった。ゲームの中だけでも。
 けれどオーディションを終えて、番組に出演するために製作者に拉致されたのは姉の方だった。あれは私の無知が招いた不幸だった。連絡が来るものだと勝手に思っていた。あんな訳の分からない番組が、正攻法で出演者を集めるわけがなかった。オーディションを終えて、染めた髪を戻し、姉の服を脱いだ私は最早赤松楓ではなく、彼らが勘違いしたのも無理はない。かくしてダンガンロンパV3は始まった。十六人の男女が体育館に集められる。私は五年前、それをパソコンの前で、ただ、呆然と見つめていた。








「いらっしゃいませ」



 お客様から商品を受け取ってレジに通し袋につめる。お金の数え間違えだけに気を付けていればそうそう難しい仕事ではなく、有り難いことに、店長からも働きぶりを評価してもらっていた。
 駅の地下にある本屋はそれなりに忙しく、週刊誌や文庫が比較的多く売れる。文庫本を二冊袋に入れて、おつりを差し出すと、向かいに立つお客様がじっとこちらを見ていることに気が付いた。こういうことは一度や二度ではなく、最初はその度に脂汗がじわりと滲んだものだったけれど、実際にその後何か声をかけられるということは経験がない。そもそもその視線も私の自意識過剰からくる思い過ごしなのではないか、そう考えるようにしたら、あまり気にならなくなった。そのお客様も、結局「どうも」とだけ言って店を出て行った。その後ろ姿は、どことなく見覚えがあるような気がしたけれど、その日はいつも以上に店が混んでいて、すっかり脳の外に弾きだしてしまっていたのだった。
 朝から働いて、夕方に仕事をあがることが多い私は、たまにそのまま近所のスーパーで買い物をして家に帰る。卵とお米さえ切らさなければ生きていけるけれど、夕方になると値下げされている肉や魚はやっぱり魅力的だ。料理は小学生の頃から手伝っていたから、一人暮らしをすることになってもそれは決して苦ではなかった。家事は好きだ。忙しなく動いていれば、雑念が消えていく。父は転勤先で上手くやっているか。母は今も私を恨んでいるか。姉は元気になっただろうか。そういったことの一切を私は考えたくない。私が壊した家庭を、私は思いやることが出来ずにいる。私を愛してくれなかったのはあなたたちだと、認められなかった自己が悲劇の主人公を気取るから、厄介なのだ。
 赤い値下げシールの貼られた肉を1パックだけかごにいれる。特売のカレールウも手に取り、必要な野菜も必要な分だけいれて、レジに持っていく。サッカー台で鞄からレジ袋代わりのマイバッグを出すと、重たいものから順々に買った品物を詰め込む。



「カレーなの?」



 だから、その声を耳にしたとき、私はそれが自分に向けられているものだとは思いもしなかった。私は一人で店に来ていたし、そうでなくても偶然出会って声をかけてくるような友達なんていない。唯一の知人である店長やバイト仲間は今頃働いている。「ねえ」少年のような、青年のような、そのあわいにいるような声は、けれどはっきりと私に向けられていた。ぱ、と顔をあげたとき、私はそれが、最初、誰なのか分からずにいた。



「こんなところで会うなんて偶然だね!」



 にしし、と口角をあげるその小柄な男の子は、目を見開いて固まる私の耳に内緒話をするかのように、顔を近づける。



「赤松ちゃんでしょ?」



 何の変哲もないシャツにパンツという街の中では簡単に埋没する無個性な服装のせいで、一瞬彼がそうとは思わなかった。けれど黒い髪に、丸くて大きな目、悪戯っぽく笑いながら小首を傾げて私を見つめているその男の子を、私は知っていた。



「やっぱり。オレって天才じゃない? こんなダッサイカッコしてても見極められちゃうんだもん。この辺に住んでんの? 何やってんの? 大学どこ? 彼氏できた? 今日はカレー?」



 王馬小吉くん。彼は楓ちゃんと一緒にダンガンロンパに出演していた、超高校級の総統と呼ばれた人だった。








 王馬くんはスーパーから出ても私のあとを着いてきた。その口ぶりからも、彼が私を楓ちゃんだと思っていることは間違いない。



「ねえねえねえねえ、カレー作んの? オレ、カレー好きなんだよね! 一人暮らし? 食いに行ってもいい? 運命的な再会じゃん? 折角なんだしカレーパーティしようよー!」



 ほとんど返事らしい返事をできないまま苦笑いを続ける私の頭の中はすっかり混乱していた。実家から電車で二時間。野暮ったい眼鏡をかけ髪をひっつめ息を潜めるようにしてアパートとバイト先の書店の往復だけを繰り返す私が望んでいたことはつまり平穏で、彼の存在はそこからはまるで真逆のところに位置していた。こんな風に声をかけられては困る。家を知られるわけにもいかないし、ましてやカレーなんて彼のために作るわけがない。



「袋持ってあげようか」



 にししと笑いながら私に手を差し出す王馬くんに、私は危機感を強める。ここでちゃんと断らないと、彼は本気で家にあがるつもりだ。



「あの、王馬くん。えっと、……実は部屋が散らかってるの」



 私の決死の嘘に、彼は一度目を瞬かせたあと首を傾げた。



「えー? オレ、気にしないよー」

「わっ、私が気にするんだよ。人をあげられる状態じゃないっていうか……そう! 汚部屋! 汚部屋なの!」

「えっ? 赤松ちゃんが汚部屋?」

「そう、足の踏み場もないしゴミは捨ててないしとてもじゃないけど人なんてあげられないの!」

「へー意外だなー。あーでもオレも部屋はそこそこ汚いし平気だけど」

「もー! だから私が嫌なんだってば!」



 王馬くんは私のことをじっと見つめると、差し出していた手をぱっと引いてそのまま顔の横で万歳をした。「そこまで言うなら今日はやめとこうかな」今日は、じゃなくて永遠にやめておいてほしい。



「そのかわり、連絡先教えてよ」



 連絡先。私は眉を寄せて考えるが、このときはとにかく彼から解放されたい一心で、悩んだ末、とうとう鞄からスマホを取り出した。



「やった!」



 満面の笑みを浮かべる王馬くんを後目に、私はこっそりため息を吐く。連絡先を交換し終えると、彼は本当に「んじゃね!」と私に手を振って来た道を戻っていった。小さくなる後ろ姿にほっとする。私はそのままアパートに戻ると、雑念を払うために黙々とカレーを作った。それらを小分けにして冷凍庫にいれながら、私は網膜に貼りついて離れない彼の笑顔に頭を抱えた。
 私はこの一連のやり取りがドア・イン・ザ・フェイスと呼ばれる心理テクだということを知らずに、まんまと彼の罠にはまってしまったのだった。



PREV BACK NEXT