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 三歳の頃からピアノを始めた私と楓ちゃんは、双子だというのにその腕に明らかな実力差があった。
 だけどそもそも私たちの間に「実力差」なんて言葉を使うこと自体、烏滸がましかったのかもしれない。小学生にあがる頃には、楓ちゃんは私よりも明らかに難度の高い曲を弾きこなしていたし、私はその年の頃の平均的な子供が弾く大きな音符の曲しか弾けなかったから。
 楓ちゃんはいつもピアノの前から離れなかった。私は楓ちゃんの弾く曲を隣で聴いているだけだった。楓ちゃんはピアノで世界を作れた。私と同じ日にピアノを始めた双子の姉は、先生からも両親からも多大な期待を受け、しかしその期待に潰されることなく、煌々と輝いていた。



「楓ちゃんすごい、がんばってね。楓ちゃんなら絶対に一番になれるよ!」



 彼女が初めてコンクールに出ることが決まった日、私は興奮してそう言った。



「ありがとうちゃん。よーし、私、練習がんばるからね!」



 楓ちゃんの後ろ姿を見て育った。私は楓ちゃんが食事を摂るときや、お風呂に入っている間だけ、グランドピアノに触れた。私もまだピアノを習ってはいたけれど、楓ちゃんは今や、私とは別の有名な先生に指導を受けている。私は自転車で十分の音大を出たお姉さんのおうちで、子供向けの可愛いイラストの描かれた、コンクールとは無縁の曲を弾く。
 楓ちゃんが弾いている楽譜を見る。音符はずっと小さくて、勿論私の楽譜のようにカラーではなくて、見たこともない指示記号が連なる。最近存在を知ったシャープがいくつもト音記号の横に記されていて、私は最初の音が、ファであること以外わからない。すごいな、楓ちゃんは、すごい。ピアノの天才だ。私は楓ちゃんが誇らしい。お父さんやお母さんが言うように、楓ちゃんは、我が家の希望だ。
 私は楓ちゃんの妹でいられて、とても嬉しい。








 中学生になると、楓ちゃんのピアノの腕は益々あがった。コンクールに出るたび賞を掻っ攫う。たまに公演会もする。そのために学校を休むこともある。お父さんは楓ちゃんを音大に行かせるためにと言いながら仕事に励み、専業主婦のお母さんは楓ちゃんの練習やスケジュールの調整をする。その姿はまるで楓ちゃん専属のマネージャーだ。



「お母さん、今日学校の給食ない日だって言ったよね? お弁当がいるんだけど……」

「えっ、そうだった? ちょ、ちょっと待ってね、今お姉ちゃんの荷物をまとめてから」

「自分で作るから大丈夫。楓ちゃん、今日から泊まりで兵庫だっけ? お土産期待してる」

「あ、そう? 助かるわ。いい子ね」



 フライパンを出して、バターを流し入れる。卵を割って、牛乳と砂糖を混ぜて、焼く。ウインナーを切って、野菜と炒めて、あとは冷凍食品でいいかな。ついでにお父さんの分も作ってあげよう。そうやって制服姿でキッチンにいると、今起きてきたばかりの楓ちゃんが目を擦りながら階段をおりてきた。



「ふぁあ、おはよう、ちゃん」

「おはよう楓ちゃん」

「あ、お弁当自分で作ってる」

「うん、お母さん、忙しそうだったから」

「すごい、偉いねえちゃんは。私、中学生にもなって料理できないもん」

「あはは、何言ってんの。楓ちゃんは万が一指を切ったら大変なんだから。こういうのは私に任せてよ」

「ほんと、ちゃんっていい子!」



 ぎゅう、と後ろから抱きつかれて、バランスを崩しかけた。「もー! 危ないって!」と言うと、楓ちゃんは笑って逃げていく。楓ちゃんはピアノを弾く以外のことをしない。料理も掃除も洗濯もゴミ出しもお風呂掃除も。基本はお母さんがやってくれるから、私が威張れることではないけれど、お母さんが疲れているときは率先して代わりにやれるくらいには、私は家事ができる。
 お弁当を包み終えると、戸口にまとめてあったゴミを持つ。「これ捨ててくるよ?」と一応声をかけると、トイレから出てきたお父さんと目が合った。



「おっ、はいい子だなあ! お母さんが忙しそうだから、代わりにやるのか!」

「ゴミ捨て場すぐそこだし、別に手間じゃないよ」



 靴を履いて外に出る。ゴミ捨て場は家から目と鼻の先だ。水分を含んだ生ごみの入った二つのゴミ袋は、けれど大した重さでもないくせに、どうしてこんなにずしりと私の指に食い込むのだろう。さっさと手放してしまいたくて、足を速めた。既にいくつかゴミ袋が投げてある一角まで行って、私は愕然とする。前の人が置いていったゴミ袋の口が開いて、少しだけ、中からゴミが出ていたのだ。見て見ぬふりをすることもできなくて、私はそのゴミを指先でつまんで戻してやった。幸運なことに、プリントか何かの類だったから、そんなに拒否感はなかった。



「いて」



 一瞬、ひやりとして手を引っ込める。指先を見ると、僅かに血が滲んでいた。紙でうっかり切ってしまったらしい。楓ちゃんじゃなくてよかった。やっぱり、ゴミ捨てすらも危険が伴うんだ。血の滲む指を口に含みながら、そういう思考に陥る自分にため息を吐く。開いていた袋の口を閉じてあげて、家に戻るために踵を返した。
 私の家は、割とおおきな一軒家だ。といってもこの辺の界隈は高級住宅地と呼ばれているから、家だけが特別大きくて目立つわけではない。見上げると、白い土壁の、洋風な我が家が視界に映る。防音を施されたピアノ部屋からは、ピアノの音が漏れることなんてあるはずがないのに、こうして自分の家を見ていると、私は幻聴が聞こえる。楓ちゃんがコンクールで弾くための曲が、今も耳にこびりつく。



「ら、らー……そー、ふぁー」



 かき消すように呟いた。ベートーヴェンの、さらばピアノよ。楓ちゃんが小さなころに苦も無く弾きこなしていた簡単な曲を、中学生の私は必死で弾いている。もう誰も私には期待していないのに、私はまだあの椅子にしがみついている。
 楓ちゃんは我が家の希望だ。じゃあ私は一体なんだろうな。
 ふと浮かんだ思いを、私は慌てて、両手を使って体の奥に押し戻す。








 中学三年のとき、好きな人ができた。同じクラスの、陸上部の川上くんだ。
 真面目な男の子で、特別成績が良かった。だけど周囲の子たちを馬鹿にしたりすることはなく、屈託なく笑っていた、眉を下げるその横顔が好きだった。将来の夢はスイスで暮らすことなんだって。私はアルプスの山々を背景に山羊と暮らす自分を想像する。
 合唱コンクールで、私は伴奏に選ばれた。他にピアノを習っている子がいなかったから、自然とそうなったのだ。クラスの違う楓ちゃんは、そういうのは弾かない。その代わり、全てのクラスの合唱が終わった後、一曲だけ皆の前でピアノを弾いてほしいと頼まれたらしい。一年生のときも二年生のときも楓ちゃんはコンクールやコンサートがあって、合唱コンクール自体を休んでいたから、こうやって楓ちゃんが生徒の前できちんとピアノを弾くことは初めてだった。
 私はどきどきしていた。私と一緒に選ばれた指揮者が、川上くんだったからだ。中学くらいの合唱コンクールだと、伴奏者と指揮者はあまり目が合わない。指揮者は歌うみんなのことにばかり集中して、伴奏者がそれに合わせるのが常だ。他のクラスのそれは息が合わないことが多く、緊張した指揮者の速いテンポに伴奏が付いていけず崩れてしまうこともあった。そんなことにならないように、私は練習をたくさんした。どんな指揮にも合わせられるように、放課後の第二音楽室を借りて、陽が暮れるまで練習した。
 家ではほとんど楓ちゃんが使っているから、私が学校以外でピアノに触る時間はない。ある日、私が練習していると、音楽室の扉が開いた。遠慮がちな、静かな音だった。



「赤松さん」

「!」



 名前を呼ばれたことに驚いて手を止める。そして、その人物を見て心臓が止まるかと思った。夢だとおもった。部活が終わって制服に着替えた川上くんが、そこにいた。思いもよらない人物に声をかけられたことに、私の心拍数は一気に上昇する。そんな私の動揺を知らない川上くんは、グランドピアノの横までくると、「いつも弾いてるよね」と、眉を下げて微笑んだ。誰に対してもする、困ったような笑顔だった。今、この笑顔は私のためだけのものだ。その事実に眩暈がする。返事ができない私に、川上くんは続ける。



「グラウンドまで聞こえてくるんだ、ピアノの音が。だから、赤松さんが練習してるのかなって思ってさ」

「え、あ、そ、そうだったんだ……」

「赤松さんは努力家だね。偉いと思うよ」



 顔をあげる。川上くんが笑っている。夕焼けが私たちを照らしている。オレンジ色だ。
 きれいな影をピアノの上に落とす。黒く塗りつぶす。川上くんの穏やかな笑顔すらも。骨ばった手の甲すらも。黒が呑み込む。



「がんばろうね、合唱コンクール」



 偉い。偉い。偉いね。
 私は耳の中で渦を巻いて私を呑み込もうとするその言葉を、ひとつひとつ、重りをつけて殺していく。








 合唱コンクールの当日、私はミスをすることなく演奏できた。勿論川上くんがおかしなテンポで指揮をすることもなく、クラスのみんなも練習通り上手く歌えた。五つのクラスがある学年で、私たちは一番良い賞を貰えた。その発表に歓声をあげるクラスのみんなの中で、私は川上くんの姿をさがす。隣の男子と手を叩いて喜んでいる。こっち、向かないかな。そう念じたけれど、川上くんが私を見てくれることはなかった。仲のいい沙織ちゃんが後ろから私の頭を撫でた。「のピアノ最高だったよお!」ありがとう、でも、でもさ。あの人は私を見てはくれなかったし、もっとすごい人がいるの。
 全ての発表が終わると、体育館の照明が落とされた。コンクール中はステージの隅に追いやられていたグランドピアノが、中央に置かれている。ステージ上のライトだけ、煌々と光っていた。しんと静まり返った体育館、すべての生徒から視線を浴びる中、いつものドレスではなく制服をまとった私の血のつながった姉がいる。私はスポットライトを浴びる姉を、誇りに思っていたはずで。椅子に座るその姿さえも美しいと、ずっと思っていて。
 完璧だった。世界の中心は彼女だった。間違いなく彼女は神に愛された子だった。
 ああだけど、だけどだけどどうして私じゃなかったんだ。どうして神様は私を選んでくれなかったんだろう。どうしてお父さんもお母さんも私を見てくれないんだろう。いい子、いい子、いい子の。私はいくらがんばっても、希望にはなれない。家事をがんばった。褒めてもらいたかったわけじゃない。料理ができるようになった。楓ちゃんは自分の荷物の準備もできないのに。私はなんでもできる。ひとりでできる。お母さんの手伝いをしたのは、その負担を減らそうと思ったからじゃない、私はいい子じゃないし偉くもない。私がしたいことをしているだけ、見てほしかっただけ、私に光をあててほしかっただけ。
 本当はお弁当を作ってほしかった。楓ちゃんと一緒に料理がしてみたかった。ゴミ捨てなんて行かないで、いつまでもお布団に入っていたかった。嘘でもいいから、恩着せがましくてもなんだっていいから、楓ちゃんのためだけでなく私の将来のためにも働いてるんだよって言ってほしかった。そのどれもが叶わないことを中学生の私はもう心得ていたから、私は今日も、いい子のでいる。そういう風にしたのは、私だ。
 楓ちゃんの指が鍵盤の上に置かれる。深く、強く、沈む。いつも彼女が好んで弾いている曲を、私はこんなにも広く、反響する場所で、初めて聴いた。川上くんの後頭部をさがす。癖のないきれいな黒い髪に覆われたその頭は、微動だにせず神様を見つめている。
 川上くんは楓ちゃんが好きだった。いつも彼を見ていた私は、それを知っていた。








 ダンガンロンパという言葉を耳にしたことはあるだろうか。
 全国から選ばれた高校生が、ある場所に閉じ込められてコロシアイを強いられるというネットの番組だ。本来なら倫理規定を大幅に超えてしまっているその番組が、シリーズとして五十回以上続いているその理由は、仮想空間で行われるというそのゲーム性が評価されているためだろう。一度それまでの記憶を消去された高校生たちは、自分が望んでダンガンロンパの世界に入ったことも忘れて、コロシアイを強いられる。スリルと心理戦が醍醐味のご長寿番組なのだ。あの世界で死んでも、殺されても、高校生たちはきちんと無傷のまま目が覚める。そういう気楽さが、現代の高校生にはうけている。
 ダンガンロンパは、楓ちゃんも好んで見ているみたいだった。私は、あまり好きではないけれど。好きな子が殺されたらしい次の日は楓ちゃんが少し目を腫らしているから、よっぽど気に入っているのだろう。
 ダンガンロンパに出たがる高校生は多い。毎回かなりの数の応募者が殺到すると言う。まずは抽選、そして厳しい書類審査を終えた数名の者だけが面接に臨めると、ネットに書いてあった。本当かどうかは分からないけれど、私は運が良かったのか、書類を送った数カ月後、面接の連絡が入った。



「ええと、赤松……楓さん?」

「はい。そうです」



 躊躇いもなく、そう答えた。胸がすうとした。私の中で詰まっていた血栓が溶けたような心地よさがあった。
 面接の前に髪を染めた。頭皮がひりひりと痛んだ。楓ちゃんも、染めたばかりの頃そう言っていたっけ。楓ちゃんが公演会で留守にしている日と面接の日が重なって幸運だった。彼女のクローゼットから、丈の短いピンク色のスカートとリュックを借りる。鏡の中の私は、きちんとあの子になれているだろうか。
 彼女になれるなら仮想空間でも構わない。私はここから離れたい。誰も私のことを知る人がいない世界で、私は楓ちゃんのようになりたい。ピアノが弾けて、愛されて、他に何もできなくて良くて、神様に選ばれて強くて優しくて、偉いともいい子とも言われなくても価値のある女の子に、希望の子に。
 だから私はを殺す。


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