あなたに棲みつくすべてのはい虫たちへ




 妹から手紙が届いた。
 あれから何年が経ったのかをすぐに計算することができないのは、私自身自分が今一体いくつになるのかをきちんと把握できていないからだ。二十歳を過ぎてから、時の流れと言うのは驚くほどに早かった。中身のない薄っぺらな日々を送っているせいだからかもしれない。この大きいだけの古い家にはピアノはないし、そもそも、あったとしてももう私は昔のように弾くことは多分できない。ラヴェル、ショパン、リスト、目を閉じれば私の愛した音楽たちはいつでも寄り添ってくれていたけれど、私は彼らからもう愛されていないことを知っている。ぼんぼんと、居間にある時計が鳴る、一回、二回、三回、夜明けはまだ来ない。
 妹から手紙が届いたとき、母は良い顔をしなかった。それでも勝手に封を開けて中を見たり、捨てたり破いたり、そういったことをしなかったのは、母にとってあの子もまた自分の娘だったからだろう。母はあの子を恨んでいるけれど、憎んではいないのだ。私はそう解釈している。
 拝啓赤松楓さま。いくつになっても子供っぽい丸い字は、あの子の近況を綴っている。駅の中の本屋で働いていて、給料はあまり高くはないけれどなんとか生活していること。近くのスーパーが安くて助かってること。そして、私にしたことを申し訳なく思っていること。住所を見ると私たちにとって全く縁のない土地で、私はそこで妹が大人になった姿を想像する。いつも、申し訳なさそうに笑っている子だった。私や母の代わりに家事をして、文句の一つも言わずにいた。演奏会から帰ってきた私を出迎えるあの子は、あの大きな家の中、たった一人でそこにいた。当たり前の光景、あの家の中で私たちは、私を中心とした一つの制度に縛られた。あの子がその陰で一人擦り切れていたのを、誰も見ようとしなかった。
 あの子は上手くやっているらしい。私はその手紙を枕元に置いたり、窓枠の日の当たるところに置いたりした。そうしてみたところでそれが変色するわけでも芽が生えるわけでも私の心が凪いだままであるわけでもなかった。手紙が届いて一カ月が経って、私は母にレターセットを一つ買ってきてほしいと頼んだ。母は何も言わずに、花柄の便箋を買ってきた。
 拝啓赤松さま。私はそこに、当たり障りのない近況を記す。








 楓ちゃんから手紙が届いた。一カ月経っても返事が来なかったから、諦めかけていたところだった。逸る心臓を抑えて封を切る。花柄の便箋に書かれた私の名前は、あまり癖がない。楓ちゃんの字だ。震える手で中身を取り出した。便箋は一枚だけで、半分も文字が埋まってなかった。いま、お母さんの実家にいること。お母さんも自分もそれなりに元気だということ。
 たったそれだけだったけれど、私は胸を押さえつけられたような心地になった。嬉しくなって、給料日でもないのにいいお肉を買ってすきやきにした。同居人の王馬くんは「何ニヤニヤしてんの、気持ち悪」とお肉をつつきながら呆れたように呟いた。その日の夜、王馬くんが寝静まったのを確認してから私は再びペンを取る。
 長野にある祖母の家を思い出す。古くて広い、ひっそりとした冷たい家。私はそこで、楓ちゃんが過ごしている姿を想像するけれど、なんだか上手くいかなかった。あの家にはピアノはない。








 返事はすぐに届いた。前と同じピンク色のレターセットで、だけど枚数が前回より一枚多かった。拝啓赤松楓さま。返事をくれてありがとう。嬉しかったです。寒くなってきたけれど、そちらはどうですか。どこか余所余所しい敬語交じりの文章を目で追いながら、私は小さい頃を思い出す。
 双子だった私たちは、小学校にあがるくらいまではお揃いの服を着ることが多かった。自分で言うのもなんだけど、私たちは母譲りで愛らしい顔立ちをしていたから、まるでお人形みたいだなんていう陳腐な褒め言葉をどこに行っても聞かされて大きくなったのだった。同じ柄、同じサイズのピンクと水色のワンピース、取り合いになんてならなかった。私がピンクを手に取って、ちゃんが水色を手に取るのが当たり前だった。薄い桃色の便箋に浮かぶ女の子らしい字をベッドに寝そべりながら眺めて、私はお腹の底から湧き上がるぐるぐるの渦から目を逸らす。








 楓ちゃんからの返事は、やっぱり一カ月経ってから届いた。その頃には王馬くんは同居人から私の恋人へと肩書きを変えていて、私の毎日はすっかり彩りに満ちていた。バイトも決まった王馬くんは数年ぶりの外の世界での不条理に愚痴を漏らすことはあるけれど、それでも頑張っている。



「だって、ちゃんともっといい物件で暮らしたいもんね!」

「悪かったねボロアパートで」

「いやーラップ音がモロに聞こえたときはこの部屋まずいなって思ったよ」

「嘘でしょ知らないよ私そんなの」

「嘘だったらどんなにいいだろうね……」

「嘘じゃないの?」

「世の中には知らない方がいいこともあるよねー」

「やだやだなんで? 嘘なんだよね?」



 王馬くんはころころと表情を変えて笑う。私の枯れかけた感情を掬い上げてくれる人だ。私の日々は鮮やかで、だけど、今でもあなたの影に追われる夢を見ることを、私だけしか知らない。








 ちゃんの部屋にはお化けが出るらしい。「ラップ音がするらしいので引っ越しを急ぐ予定です」そう書かれた手紙に、私は彼女の傍から他者の匂いを感じ取ったけれど、自ら尋ねるような無粋な真似はしなかった。だって私たちはもう二十歳を越えている。恋人がいたって何も不思議なことではないし、そもそも私たちは崩壊した家族の元一員であって、それはもはや他人と同義と言っても過言ではないのだ。
 拝啓赤松さま。こっちにはお化けとかそういった類のものはいないみたいです。お化けといえば昔、二人で心霊番組を見ていたら、ちゃんはすごく怖がってたね。小学生にもなってたのに、夜トイレにも行けないっていうから、一週間くらい一緒の部屋で寝たことがあったっけ。そう書き記した私は次の瞬間、無意識に「そういえば」以下三行を三十線で潰す。
 水色のパジャマを着た私と同じ顔をした亡霊が今もこの部屋にいることを、私は手紙の封を閉じてから思い出す。








 楓ちゃんからは二カ月を置いて手紙が届いた。引っ越しの後だったから心配していたけれど、きちんと転送されたので安心した。こっちにはお化けはいません。たった一言記されていた一枚の便箋を私は丁寧に封筒に戻した。引っ越しました。そう記した手紙を、私は鞄の中にしまっておく。








 はがきが届いた。いつも便箋にいっぱいの近況報告をしてくれるちゃんだったけれど、今回はたった一言「引っ越しました」という簡潔な報告だけだった。趣味の悪いことだと知りながらも住所を検索欄に打ち込んだ。私は一人暮らしの経験がないからこの考えが正しいかどうか自信がないのだけど、彼女が引っ越したアパートは一人で暮らすには少し広い気がした。



「あー……もう」



 呟いた声は誰がどう聞いたって自嘲気味で、私は両目を手のひらで覆う。部屋の天井から釣り下がった電灯の光が遮断される。細くて長くて、何の価値もなくなった今ですら傷一つないきれいな指。ピアノを弾くためだけに作られた繊細な十本のそれは私にとっても、母にとっても宝物だった。包丁なんか勿論握らせてもらえないし、体育だって球技はなるべく見学するように言われていた。クラスメイトたちと笑いながらバスケをしているちゃんを体育館の端で見つめていた中学時代が不意によみがえる。
 ちゃんは私の視線に気が付くといつも控えめに手を振ってくれた。彼女の指は、忙しい母に代わって水仕事をするためにささくれが多かった。スポーツをする彼女は突き指だって何度もしていた。突き指ってほんとに曲がらないんだよね、そう言ってテーピングだらけの指を見せるちゃんの声は、いつも静かだった。私の知らない痛みを彼女は知っていた。私は引っ越しを知らせる絵葉書を、ぶらさがった電灯と自身を遮断するように両手で掲げる。そうしてみて、私は『し』の字に初めて目を留める。








 才能ある姉に、凡人以下の妹だったと恋人は言う。
 ピアニストの夢を諦めた双子の母親が、神に愛された姉を溺愛するのは仕方がないことだったと笑いながら言う彼女は、いつも喪に服したような姿で居た。モノトーンのパッとしない服、化粧気のほとんどない顔に、翳りのある目。彼女と遺伝子を同じくした、けれど太陽のような存在を知っているオレは、彼女を作り上げた環境を残酷だと思う。
 母の期待に応えられずにいたかつての自身が重なって、本当は、痛々しくて見ていられなかった。



「……あれ?」

「どうしたのちゃん」

「入れておいたと思ったんだけどなあ、手紙」



 ポストの前で立ち止まったちゃんは、鞄を漁って首を傾げる。



「忘れちゃったならしょうがないじゃん。また今度にしときなよ! どーせ懸賞とかでしょ」

「懸賞って」

「でもちゃん、ああいうのは幸運な人にしか当たらないんだよ、残念だけどキミには一生……」

「一生? そんなに長いスパンで無理なの?」

「オレの名前を貸してあげる。オレ、結構当たるんだよね。で、なんか当たったらオレにちょーだい」

「絶対やだ」



 頬を膨らませて歩き出したちゃんの背中を笑いながら追いかける。彼女の穿いている深いグリーンのスカートの、アシンメトリーな形をした裾が、オレは彼女と同じくらいに愛しい。
 ちゃんは手紙を書く。オレが眠ったのを確認してから、ペンを取る。引っ越す前は暗くなった部屋の隅で、小さな卓上ライトをつけて。引っ越した後は、隣の部屋に移って、誤魔化すように音量のしぼったテレビをつけて。彼女はそうして清算できるはずのない過去を、神に愛されなかったその指でなぞる。姉に手紙を書いていることをオレが知らないとでも思っているのだろうか。それとも知っていると分かっていながらあえてそうしているのだろうか。彼女は月末になると必ずそわそわしだして、日に何度も郵便受けを確認しに行く。








 彼女が書き終えた手紙を鞄から盗んだのはオレだ。悪戯というよりも、もう少し相手のことを考えてもいいんじゃないかという苦言のつもりでもあった。手紙が来ると慌てて返事を書きだすちゃんはオレの知る彼女よりもずっと幼く見える。そんな彼女がどんなことを書いているのかは想像することもできないが、双子とはいえこれまで疎遠になっていたのだ、もう少し徐々に距離を詰めていったって良いはずだ。
 ぱんぱんに便箋の詰まった封筒を苦々しく思いながら、オレはちゃんの働く書店で絵葉書を一枚買った。レジを打っていたちゃんは訝しげに「お母さんにでも送るの?」と尋ねてきたので、オレは「そんな感じかな」と適当に返事をする。「引っ越しました」とだけ書いたはがきにちゃんの書いた封筒にあった住所を書きうつして、ポストに投函した。
 ちゃんが手紙を探すことを諦めて、新しく書きなおし始めたら、もう少し分量を考えて手紙を書くべきでないかという話をするつもりでいたのだけれど、不運なちゃんはそれから手紙を書く時間をすっかり奪われてしまうことになる。ちゃんの勤める駅中の本屋で、酔っ払い同士の傷害事件が起きてしまったのだ。偶々その時間帯に店内にいたちゃんは事件の目撃者として警察から詳しい話を聞かせてほしいと頼まれ、仕事が終わった後もなかなか帰ってくることができなくなってしまった。いつもより遅い時間にアパートに戻っては、必要最低限のことだけを何とかこなす。時折手紙を書こうと便箋を取り出すも、うつらうつらとして少しだけ文章をしたためると、限界を迎えてしまうらしい。オレはベッドの中で眠りにつく彼女の額を指でなぞる。普段眠りが浅いちゃんは僅かに唸るだけで、目を開ける素振りも見せはしない。








 日常の変化のせいで、オレは自分がちゃんを装って投函した絵葉書のことなんてすっかり忘れていたのだ。
 だから、バイトを終えて帰路についた冬の夕暮れの中、キャメル色のコートを着た女の子が部屋の前で立っているのを見た瞬間、心臓が止まった心地がした。向こうもそうだったのかもしれない。外付けの階段を昇ってきたオレに目線を向けたその女の子は、その瞳を丸くした。どれくらい待ちぼうけていたのか、チェックのマフラーに埋めた顔の、鼻の頭が赤い。



「…………王馬くん……?」



 彼女が持っていたものに目をやる。見覚えのある絵葉書をお守りのように抱きしめた彼女は、彼女の妹そっくりの声を上ずらせて、オレの名前を呼んだ。








 引っ越してから何度か訪れた近所の喫茶店は、いつも静かだ。薄暗い店内に流れるクラシック、アンティーク感のある丸テーブルに冬でもあたたかい布張りのソファ。だけどいつもよりも居心地が悪く感じるのは、向かいに座る相手が違うからだろうか。コートを脱いだ赤松楓は、目の覚めるような赤いセーターを着ていた。記憶にある金色の髪は、今は黒く、けれど一目見ただけで引き込まれるような強い瞳をしていた。コーヒーをテーブルに置いた店主は何かを察してくれたのか、「ごゆっくり」と声をかけると奥の厨房の方へと姿を消す。軽食とコーヒーを提供するだけの小さな喫茶店、夕飯時のこの時間帯に、他に客はいない。



「タイミングが悪かったね。最近のちゃんが帰ってくるのは深夜なんだよ」

「そうなの……」

「……一人で来たの?」

「ううん。母が自分も行くって聞かなくて。駅前のホテルにいる」

「へえ、そうなんだ」

「うん。でもびっくりした。ちゃんの恋人って、キミだったんだね」



 赤松楓の言葉にオレは何も言わずにコーヒーを口にする。ちゃんは手紙に一体何を書いていたのだろう。背筋を伸ばした赤松楓はオレに合わせる様にコーヒーカップを手に取った。その繊細な指先は、今も健在だ。



「で、赤松ちゃんは何しに来たわけ?」



 彼女を家にあげなかった時点で、オレの内心なんて読まれているだろう。探るように言った言葉に、赤松楓は絵葉書をテーブルの上に置いた。「これ、書いたの王馬くん?」オルゴール音で奏でられるクラシックを縫うように響いた静かな声音に、少しだけ口角をあげる。



「……さあ。ちゃんじゃないの?」

「ちがうよ。あの子はね、『し』の字のはらいにすごく癖があるの。こんな風にきれいに下がらない」

「うわっ気持ち悪、赤松ちゃんってそんなとこまで見てんの?」

「……姉妹だからね」

「姉妹なのにね」



 言い直したオレに、赤松ちゃんがふと視線をあげた。
 ちゃんに良く似たアーモンド形の目は、だけど彼女よりもずっと睫毛が長い。



「姉妹なのに、赤松ちゃんはちゃんがどんなことを思って生きてたかを知らなかったんだ」



 そんなつもりはなかったのに、責めるような口調になってしまった。けれど撤回することはしない。赤松ちゃんが、カップから手を放して膝の上に両手を重ねる。その背筋はこちらが怯んでしまうほどに、美しく伸びていた。向かい合っていると自分の恋人と彼女が双子であるという事実が何だか嘘くさく思えてしまうくらいに、赤松楓は堂々としている。それは彼女が生きていた世界が、根本的にオレたちとは違うせいだ。
 オレは、彼女を気の毒に思っていた。ピアニストとして将来を約束され、順風満帆な人生を送っていたはずの赤松楓は、例え本人にその気がなかったとしても、背後から妹によって刺されたも同然だ。彼女は名声を失い、精神を病んだ。ちゃんが悪くなかったとは言わない。あの子が取り返しのつかないことをしてしまったのは事実だし、それによって崩れた家族は並大抵のことでは元の姿に戻り得ない。だけど思うのだ。もしも、誰かがあの子の抱えた泥に気づいてあげていたらと。



「ねえ、ほんとに何しに来たの?」



 答えて貰えなかった質問をもう一度繰り返すオレに、赤松楓は微動だにしない。



「自分の人生を奪ったちゃんに恨み言でも言いに来た? 幸せになった彼女に腹が立つって? 責めにきたんだ?」



 赤松楓から届いた手紙の封をそうっと切るちゃんの後ろ姿を思い出す。給料日でもないのに、良いお肉を買ってすきやきをしたこと、すぐに返事を書いて次の日にはそれをポストにいれてしまったこと。そういうことが、まざまざと目の奥に浮かぶのだ。赤松楓は静かに息を吐く。重ねられた指先の爪は、今もきれいに切りそろえられている。



「そんなわけないよ」



 赤松楓が視線をあげた。傷ついたとき、オレの良く知る恋人のそれと似たような形で歪むのだなと、ぼんやりと思った。








 また王馬くんと会うことになるなんて思ってもみなかった。ダンガンロンパの世界で共に過ごした彼は、あの頃よりも少しだけ大人びていた。ころころと変わる表情は相変わらずどこか嘘くさくて、私に真意を探らせてはくれない。だけど、彼がちゃんのために怒っているのは明らかだった。「ちゃんを責めに来たのではない」と言った私に、王馬くんは一瞬表情を変えた。



「本当は会って直接言いたかったんだけど」



 バッグから手紙を取り出す。引っ越しを知らせる手紙を受け取ってから、少しずつ書き溜めたそれは、通常料金では送れそうもないほどに重い。王馬くんは黙ってそれを見つめているけれど、丸テーブルの真ん中に置かれたそれに手を触れようともしない。



「渡しておいてもらえないかな」

「なにこれ」

「手紙」

「馬鹿にしてるの? 見ればわかるよ」



 組まれた足の先が、苛立ったように揺れている。喫茶店の窓枠に置かれた小さな雪だるまのオブジェにそっと目線を移しながら、私は店内を流れるブラームスを心の中で口ずさむ。



「さっき、王馬くんはさ、はがきの『し』の字がちがうって言った私に、そんなところまで見てるのって言ったよね」

「それが?」

「まで、じゃない。今の私には、ちゃんの書く字くらいしかわからないの」



 王馬くんが口を噤む。私の自嘲気味の声だけが、掠れて空気に溶ける。



「私はずっと一緒に暮らしていたあの子とまともに話をしたことなんて、ほとんどなかった」



 あの子が呑み込み続けた不平不満、笑顔の裏で何を考えていたのか、それを知らずに私はピアノに没頭した。ちゃんの好きな色、好きな食べ物、好きな人。「おかえりなさい楓ちゃん」広い家で出迎えてくれるちゃんが作っていたカレーライス。私の話を黙って聞いてくれたたったひとりの妹。



「本屋で働いていること、近くに安いスーパーがあること、住んでいるアパートにお化けが出るらしいこと。新しいスカートを買ったこと。毎日が楽しいんだなって思った。一目でいいから見たかった。ちゃんが元気にやっているところ」



 王馬くんは何も言わない。だから、私は言うはずのなかった言葉まで、吐き出してしまう。「私のせいだって知ってたよ」本当はあの子に言うはずだった告白を。



「恨んでなんかない。私はあの子を追いつめたのが私だって分かってる。だから、どうか幸せになってほしかった。勝手に恋人の姉にはがきを出しちゃう男がどんな人なのか、会って確かめたかった」

「……オレは、お眼鏡にはかなった?」

「全然! って言いたいけど……及第点ってとこかな。あんまり意地悪しないであげてね」



 王馬くんは私の言葉に目を伏せて、それからようやく手紙に手を伸ばした。「だから、私は安心してちゃんにお別れが言える」王馬くんのため息が、確かに耳に届く。
 私が自分で選んで買ったシンプルな封筒は、次の瞬間、盛大に真ん中から破られた。私がちゃんのために綴った文字が、王馬くんの手ずから細かく千切られていく。どうかお元気で。私が書いた別れの言葉。呆気にとられてそれを見ていると、王馬くんは両手を開いてテーブルの上にそれを落とした。「あのさぁ」小首を傾げた王馬くんが、私の目をじっと見つめる。



「オレに面倒事押し付けないでくれる?」

「……王馬くん」



 手のひらからぱらぱらと落ちていく紙の屑。「ていうかさあ」私が綴り続けた二十余年の後悔を、彼は笑って踏みにじる。



「一方的に別れを告げないであげてよ。あの子は、多分オレなんかよりよっぽど赤松ちゃんのことが好きなんだから」



 赤松ちゃんから手紙が届くたびに、まるで恋をしているみたいな顔で笑うんだ。
 そう言った王馬くんに、私は小さく首を振る。何だか喉が痛くて、私はこみあげてくるものを感じながら、口角をあげようとして、なのに上手くいかなかった。



「ほんとそっくり」



 私は溢れ出た涙を手の甲で拭いながら、彼が破いた手紙の破片を引き寄せる。



「どうして赤松ちゃんもちゃんも、無理にいい子ぶろうとするんだろうね」



 拝啓赤松さま。最大の愛をこめて、私はそれを千切る。
 店内に流れていたブラームス、これくらいなら今の私でも弾けるだろうか、私はもう、連なる鍵盤を前にしても恐怖の縁に立たされないだろうか、だけど、私はもう一度あの椅子に座りたい。そのとき隣にいてくれる人は、あの子であってほしい。たくさんの話をしたい。顔をつきあわせて、お菓子を食べてテレビを見て、一緒に買い物に行きたい。今までできなかったことを一つずつなぞりたい。泣きじゃくる私の指先に、鋭い痛みが走った。便箋で切れてしまった指の腹を撫でて、私は初めての痛みを知る。
 王馬くんが私に何かを差し出した。ハンカチではなく、一通の手紙だった。
 引っ越しました。その一文から始まるそれは、ちゃんが出しそびれていたものだろう。「実は恋人がいます。いつか楓ちゃんにも紹介したいけど、反対されるかも」その文章を見て、私は声を出して笑った。








 今日もすっかり遅くなってしまった。真っ暗になった夜道を小走りで駆け抜けていくと、キャメル色のコートを着た女性とすれ違うけれど、暗くて顔が見えなかった。あまりの寒さで鼻が痛い。アパートの階段を昇った先で、ちょうど玄関の扉を開けようとしていた王馬くんと出くわした。コンビニでも行っていたのだろうか。



「あれ? 珍しいね」



 そう声をかけると、王馬くんは目を見開いて私を見つめ返す。それが何だかいつもと違う表情に見えて、私は首を傾げる。



「どこ行ってたの? バイトは夕方までだったよね」

「え? あー」



 王馬くんはマフラーに顔を埋めながら、ほとんど目線の高さが変わらない私に目を細めてみせた。「浮気?」と明らかな嘘をつくので、私は眉を寄せる。そういう嘘は面白くないし感心しない。私の表情に「嘘だよ嘘嘘」と言う王馬くんを追いかけて、部屋に入る。薄暗い室内は寒くてひっそりとしている。



「本当は、きみのお姉さんに会ってきたんだ」

「え?」

「なーんて、嘘だよ!」

「ねえ、なんなの? 酔っぱらってるの?」



 もー、と口を尖らせる私に、王馬くんが声をあげて笑った。その姿を見ていると、寒さも疲れもゆるゆると溶けていくような気がした。








 数日後、楓ちゃんから手紙が届いた。
 いつもの彼女からは考えられないほどの文章の最後に綴られた、「ちゃんって男の子の趣味がよくないんだね」の言葉に、後ろから覗き込んできた王馬くんがぶは、って声に出して笑った。



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