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 ボクの周囲では生き物の死が絶えない。
 母の胎内で妹が死んだ。飼っていた犬や金魚をどれだけ埋めたか。小学校の友人の葬式は悲惨だった。ボクはその度に命の重さに見合うだけの対価を得たけど、幾ら自分たちと血が繋がっているとは言え、さすがにそう言う子どもと言うのは気色悪いよね。十数年も共に居れば尚更。両親から注がれるのは愛ではなく、それに見せかけた異形の何かだった。仕事で忙しい二人は滅多にボクの傍にいなかったけれど、それはきっと自分の身を守っていたんじゃないかな。ボクに食われないために。ボクはそれを敏感に察していたし、両親もそれに気が付いていただろう。だけど、よくもまあ正常で居たものだ。彼らは本心では怯えていたはずだ。だから、安堵してくれたと思うよ。ボクの腕の中で飛行機の残骸に埋もれた母は笑った。やっと解放されたってその口が動いた。ボクは死神だ。きっとね。おかげで分不相応の大金が手に入って、とうとうボクは一人になった。本音を言えば寂しかったけれど、ボクは愛を知らないまま健やかに成長したのだった。
 ボクの周りは常に何らかの物で溢れていた。お金も不動産も服も食べ物も。体温の伴わないありあまるほどの無機物だけがボクの周囲を埋め尽くしてくれた。ボクはそれを幸運だと思った。
 ボクはきっとそのうち自分の運に飲み込まれ、自分でも気が付かないうちに死ぬだろう。そういう覚悟はとっくの昔にしておいた。いいのだ別に、明日死んだって。だってそれなら諦めがつくし。ボクには、自分の運を凌駕するほどの力がなかったってことになる、それだけだ。家族もいなくなったボクが消えても、誰かが悲しんでくれるわけではない。だからもう、それで良い。
 だけど、もしもまわりに不幸をまき散らしながら生き続けるこんなボクの願いが叶うなら、どうか、どうかひとつだけ。
 ひとつだけ、なんて、そのひとつが大それた願いだということを、ボクは知っている。








 ボクが希望ヶ峰学園にスカウトされたのは、幸運でも運命でもこの際何でもいい。あそこで過ごした一年は実に刺激的な日々だったけれど、何かが足りなかった。そこにキミが現れた。奇跡と呼ばず、何と言うのだろう。
 希望ヶ峰学園に入学して二度目の春、ボクはキミの声に足を止めた。叫ぶような声だった。馬鹿みたいなことを言うんだねと笑われそうだから、絶対に口にはしないけれど。
 東地区にある芸術棟の傍を歩いていた。ああ、鐘だ、と思ったのだ。ボクでも知っているくらい有名な曲だ。そういえば今年はピアニストが入ったって言ってたっけ。ならばこれは、恐らくその生徒によるものだろう。そう冷静に考えていたボクは、二階の窓が開いていることに気が付いた。ああ、あそこから漏れているのか、随分とうっかりした人だな。だけど、次の瞬間だった。本来ならばアジタートから入るはずのその譜面を、その人はまるで無視した。それまでのテンポの半分以下に落として、一つ一つの音を深く弾く。孤独の音だった。雑踏に紛れたその音はやけに痛々しくボクの肩を殴った。やがてそれは徐々に本来の速度を取り戻していく、いや、違う、本来のなんて生易しいものではない。急きこむように。その指示を超えていた。
 直後その研究室でキミを見た瞬間、ボクは息ができなくなった、ボクはあんなに楽しそうな顔で、しめつけられるほどに悲しい音を奏でる人を知らない。ボクと同じ匂いがしたのだ。孤独の只中にいるのにそれを受け入れている、そういう匂いが。
 例えその左手が正常に機能していなかったとしても、それでも、その指から生まれる音はボクを叩き起こした。矛盾した人だった。死にたくないとその音はもがいているのに、弾いている本人は全てを受け入れ、諦め、許しているのだから。
 さん。彼女は、不思議だ。才能が全てのこの学園でもがくことなく立っている。彼女がピアノに執着をしていないことは薄々勘付いていた。だけど、ボクは彼女に惹かれた。彼女の作る曲が好きだった、しなやかな指が好きだった、日に日に悪化する指を庇いながらも、楽しげに鍵盤を叩くその横顔を美しいと思った。諦めてほしくなかった。例え彼女がそれを望んでいなかったとしても。ボクの幸運の全てを使ってでも。ボクの才能が彼女を飲み込んで、殺してしまう前に。
 さんはボクに遠慮したように笑う。彼女は隠し事に向かない人だった。








 いつまでこのぬるま湯に浸かるような生活は続けられるのだろう。
 ボクの才能はボクの幸福のために人を殺す。さんとて例外ではないだろう。ボクはその恐怖に怯えながら彼女の傍にいた。彼女のことを思うなら離れるべきだったのに。でも、ボクはどうしても諦められなかった。彼女の左手が治ること、昔のようにピアノが弾けるようになること、奇跡が起きることを願っていた、なのに、彼女の治療を行っていた松田くんは匙を投げた。超高校級の神経学者の投了は、ボクを絶望させるには十分すぎた。
 彼女は治らないのだろうか。
 ボクの前で張り付けたような笑みを浮かべる女の子。頬を染めてボクを見上げて、ピアノを弾く。きれいな曲だと言うと、嬉しそうに微笑む。触れると顔を赤くする、一緒にいるとドキドキする。この子がいるだけで世界は少しだけ優しくなる。この先生きて、必ず幸せにならなければいけない女の子だ。
 彼女から離れるべきだ。一刻も早くこの場所を誰かに明け渡すべきだ。分かっていたのだ、そんなの初めから。だけどどうしても離れがたかった。彼女の指が治ったら、一度でも彼女の本当の演奏が聞けたら、ボクは姿を消すつもりだったのに。それすらも叶わない。
 治らないなんて嘘だ。本当のキミを見ることのないまま終わるなんて嘘だ。本当は、ずっと一緒に居たかった。キミの隣でキミのピアノを聞いて、一緒にパンを食べてくだらない話もして、本当は好きだって言いたかったしもっと触れたかった。いつかキミの隣から去らなければいけないと、ボクは初めから決めていたから、そのどれも、できるはずはなかったけれど。








 キミを突き放したのは、本意ではなかった。苦しくてたまらなかった。だけど、そうでもしなくちゃ、キミはきっとボクの運に飲まれて死んでいただろう。キミの骨なんて欲しくない。遺品もいらない、それに見合う幸運なんていらない。だってキミの隣にいる以上の幸福なんてないのだ。だから生きて。お願いだ。生きて。ボクが隣にいなくても。
 キミがこれから先も生きていられるのなら、全て、キミのことを諦めてしまうから。



「本当に治せないの? どうにか、ならないの? キミは、ピアノを二度と弾けないの?」



 ボクの問いかけに言葉を詰まらせるさんは、それでも、奇跡のように美しかった。大好きだった。今も。抱きしめたくてたまらない。孤独を知っている人。それを埋める術もきちんと知っている人。強かで、泣き虫で、優しくて、出会わなければきっと彼女は強いままだった。きっとボクがいなくても彼女を好きになる人はいるし、彼女はきちんと誰かを愛せる。取るに足らないボクは彼女を諦める。なのに、震えが止まらない。傷つけていることを知って、自分が傷ついている。



「だったら」



 彼女と出会ってからの毎日は、楽しかった。朝起きて、同じように彼女がこの世界にいること、たったそれだけのことがこんなに素晴らしいものだなんて、それまでのボクは知らなかった。ピアノを弾くキミも弾いていないキミも同じくらい好きだった。感情が表に出やすいキミが好きだった。家庭科で作ったのだと見せてくれた、拙いイルカのマスコットが好きだった。誰にでも優しいキミが好きだった。からかうと眉が八の字になるところも、たまに笑い声が裏返るところも、本当はそんなにピアノに執着していなかったくせに、ボクのためにしがみついてくれていたところも。



「だったらキミなんて、いらない」



 自分で吐き出した嘘に自分が傷ついて、撤回したくてたまらなくて、こんなことが言いたいんじゃないって今更喉元まで出かかった。けれどもう遅い。
 さんの顔を見ることができなくて背中を向けた。何度もこの手で開けた彼女の研究室の扉を閉める。追いかけて来なくてほっとした。泣かれなくて良かった。ボクは酷い顔をしていたから。少しでも後ろ髪を引かれるようなことがあれば、ボクはキミを抱きしめて、嘘だって言ってしまっていたから。そしてボクの才能はキミを奪っただろうから。
 深く深呼吸をする。そうしないと、立っていられなかった。初めて明日が憎かった。キミの居ない未来を、ボクはどうやって生きていくべきだったのだろう。
 どの道キミとはずっと一緒にいられるわけじゃなかった。キミをこの世界から失うくらいなら、ボクが消えた方がずっと良い。キミはきっと幸せになる。幸せになるよ。超高校級の幸運であるボクが言うんだから、間違いない。ボクを救ったその手をぶら下げて、これから先も生きてくれ。ボクを忘れて。ボクらの過ごした日々を、なかったことにしよう。ボクの願いなんて叶うわけがなかった。夢だった。あれはこんなボクが見てはいい夢ではなかった。だから、これが正しかった。
 これで良かった。








「ねーえ、ねえ。ねえねえ、狛枝センパイ?」



 ボクの目の奥で、ツインテールをぶら下げた少女が下卑た笑みを浮かべる。「良いこと教えてあげようか」にいと歪められた唇は、血のように赤い。



「センパイの才能に飲まれたせいでの手は死んじゃったって、あんた気付いていた?」



 媚びるような甘い声に息が止まった。ずっと聞こえていたはずの彼女のピアノの音も、そうして一緒に死んでしまった。ボクの才能は、出会う前から彼女を食っていたらしい。


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