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 私は優しくなんかない。
 気が付かないふりをしていれば楽だから、他人からの羨望も嫉妬も期待も愛情も、そういう清濁の一切関係ないままに、私は私を脅かす感情を切り捨てて生きていた。何食わぬ顔でピアノを弾いた。心の底から、他人をどうとも思わなかった。それのどこが優しい人間だと言うのだろう。
 ピアノは好きだった。ピアノを弾いている間は何も考えなくて済んだから。視線なんか届かなかった。私は私の世界で生きていられた。でも、本当はピアノじゃなくたって良かったのだ。なんだって構わなかった。たまたまそこにあったから、弾いただけで。
 だから私はそんなに美しいものではない。








「こんばんは」



 腰を下ろしてから、立てた膝を両腕で包み込む。部屋の中央にあるマザーコンピュータを見上げた。取り囲むように張り付けられたいくつもの液晶は、もう機能していない。闇のような、黒だ。淡く光り続けるカプセルの緑がかった光だけが足元を照らしている。彼らは今もあの島にいるのだろうか。それとも希望ヶ峰学園か。或いは、絶望のさなかか。私にはそれがわからない。



「今日は、ソニアさんが私のことを一生懸命だって言ってくれたよ」



 言いながら履いていた靴を脱ぐ。ストッキングの下の爪の先が痛くて、指の腹で撫でた。ヒールは苦手だ。霧切さんは慣れるようにと言うけれど、今度はこっそり、もう少し踵の低い靴を用意しよう。あちこち動きまわることが多い以上、格好なんて気にしていられない。本当ならスーツだって脱ぎたいくらいだ。プログラム内で制服を着ているときは感じなかった窮屈さに、辟易する。



「九頭龍くんにはムリしすぎだって言われたんだよね。……そんなつもりはないんだけどな」



 疲れているのは、事実だけど。やらなくてはいけないことが多すぎて、睡眠時間は削られる一方だ。苗木くんたちのおかげで本部の仕事が回されることは滅多にないものの、その代わりに向こうに報告すべきことが多すぎる。目を覚まさない皆のことだけでなく、かつては絶望に堕ちていた日向くんたちについても定期的に報告書にまとめなくてはならないのだ。どちらかと言えば、比重は後者の方が大きい。欠伸を噛み殺しながら、立てた膝に顎を乗せた。勿論、日向くんと左右田くんが作ってくれているサイコダイブ用のアルターエゴ作成の進捗状況も報告対象だ。ありがたいことに苗木くんたちは私たちの試みを支持してくれている、本部の考えは知らないけれど。恐らくその辺は、苗木くんが防波堤になってくれているのだろう。彼には頭が上がらない。
 だから、大変だなんて言っていられない。私よりもずっと大変な人がいるのだから。



「あ、そう言えば終里さんに頭が良いって言ってもらえたの。お世辞かもしれないけど。でも私もね、最近処理能力が上がっている気がするんだ。最近はやっと十神くんに貶されなくなったし」



 最初の頃は提出するための報告書に何度も苦言を呈された。悔しさと不甲斐なさに泣きながら使い慣れないパソコンで文章を打ち続けた頃が懐かしい。



「ブラインドタッチとやらもできるようになったんだよ。左右田くんが褒めてくれた。左手は、やっぱりちょっと動かしにくいけど」



 千尋ちゃんが見たらびっくりするだろうな。昔はやっとシャットダウンの方法を覚えたくらいだったのに。私は成長している。結果が伴わない以上胸を張るにはまだ早いのかもしれないけれど。
 左右田くんの「あいつらは、あのまんま起きない気がすんだよな」が不意に脳裏に蘇る。そういう可能性もあるのだろう。だけど私は、諦めない。脇目をふらない。我武者羅に走る。それでどんな怪我をしても、ヒールが折れてもストッキングが破けてもこの指が溶けても。そう決めた。



「さて、じゃあ日向くんたちのところに行ってこようかな」



 目を覚ました日向くんは予備学科の学生時代に受けた、全ての才能をその身体に取り込むためのロボトミー手術の結果手に入れた才能をまだ持っていた。カムクライズルだった頃の才能の残りカス、と揶揄するように日向くんは言うけれど、その彼の中に残された才能の一部を使って、アルターエゴを組み立てる。それは一見簡単そうに見えて、その実時間がかかるものだった。
 彼の才能には制限がある。使いすぎると脳に負荷がかかって酷い頭痛に襲われるのだ。だから、彼に無理はさせられない。少しでも手伝えることがあるなら、私もその重荷を背負うべきだ。
 息を止めて立ち上がった。私たちが目を覚ましてから、二カ月が過ぎようとしている。髪も少しだけ伸びた。左手は相変わらず動かない。プログラムの中に居た頃よりも明らかに。
 私は皆が眠るカプセルを、身を乗り出して覗き込むことができなかった。目を凝らせば皆の顔を見ることだってできるのに、私は頑なにそれをしようとしない。
 私は扉を閉める直前、振り向いて室内を大きく見回す。



「みんな、またね」



 耳の奥で海が鳴く。








 一つ一つ音を鍵盤で確認しながら手書きの五線譜に音符を書いていく。完全にその作業に没頭し始めた頃、ライブハウスの扉が突然開けられたものだから思わず悲鳴をあげてしまった。書き記していた八分音符が無残に飛び出る。考える余裕もなく「あああ」と声を漏らせば、「わ、悪い」と謝罪を受けた。咄嗟に声のした方を見ると、日向くんが心底申し訳なさそうに立っていた。



「ひ、日向くん、どうしたの?」

「いや、息抜きの散歩だよ。こっちは、久しぶりに来たけど」



 言いながら、まじまじと私とアップライトピアノを視界に入れる日向くんに、私は少しだけ困ってしまった。誰も来ないだろうと思って気を抜いていた。無意識に、動きの鈍い左手を撫でる。



「……この島にもピアノがあったんだな」



 大人びた顔で薄く微笑む日向くんは、逆光も相まって、泣き出す寸前にすら見えた。



「……プログラムの中には、なかったのにね」



 言いながら、書きかけの楽譜をそっと片づける。
 何だか途端に気恥ずかしいような気持ちになった。何か言われるだろうかと心の中で構えたけれど、日向くんは、何も言わなかった。彼はどこまで知っているんだろうか。私の指が、上手く動かないことを彼には伝えていたっけ、そういうこともよくわからない。



「さて、そろそろ行かないと」



 ピアノの蓋を閉じて、誤魔化すように立ち上がる。どの道そろそろ定期通信の時間だ。「え」と慌てたように吐き出す日向くんの横を通り過ぎて、ライブハウスを出ていく。名前を呼ばれた気がしたけれど、振り向かなかった。あそこは空気がこもって、いつまでもいると気分が悪くなる。外に出た私は息を吸う。変だな、今日はまた随分と、呼吸がしにくい。早足で歩きながら、中途半端な楽譜を持ち上げ太陽に透かした。「あーあ」もやもやした感情を紛らわすように、呟く。



「やっぱりこの曲は、ここまでしか作れないな」



 何度採譜をしても、上手くいかない。








 才能がなくなるとしても、恐ろしくはなかった。執着がなかった。ずっと前に覚悟をしていたから。「私ね」吐き出した声が、静まった室内に響く。



「ピアノがなかったらどうなっていたんだろうって、ある日思ったの。そうしたら私は普通の学校に通って、普通の友達を作って普通に受験して、普通に大人になって普通に結婚するのかなあって」



 返事はないから、私は饒舌に語ることができた。



「でも私は普通を知らないから、ピアノを弾かなくていい学校も、私がピアノを弾くことを知らない友達も音楽の絡まない進学も知らない。だから普通の大人も普通の結婚も想像できなかった」



 私の人生にはピアノが絡まってそう簡単には解けなかった。きっと人生をやり直したって一緒だ。私はピアノに呪われている。吸い寄せられるようにできている。私がである限り、をやめない限り。



「偶然に過ぎないんだろうけれど、左手が動かなくなったのはそういうことを考え始めてからだった。原因が分からないから、精神的なものだと診断されたの。そのときになってようやく私は、私の周囲にいる人間は、両親も先生も友達も顔も知らない誰かも、本当はピアノを弾けるしか必要としていなかったって、気が付いた」



ピアノという付加価値の消え去った私を誰が必要とするだろう。



「前に凪斗くんが、私の手がこうなったのは自分の才能のせいだって言ってたね。真実は私には分からないけど、でも、私は別に、恨んでなんかないよ」



 指が動かなくなっていく私を最初に見放したのは、私にとって何の価値もない他人だった。単独コンサートが中止になっていくのを私は鍵盤の前で、動かない指をじっと見つめていた。下がっていく評価も手の平返しの酷評も予想していた。次に友達が消えた。私の開けた穴を埋めて、踏み台にしようとする子たちもいた。あれは私が失った熱意だ。左手が凝り固まる。小指が死ぬ。



「こんなことを言ったら、凪斗くんは怒るかもしれないけどね」



 やがて師と仰いでいた先生が私を諦めた。両親は傍にいてくれたけれど、怖いくらいに優しかった。順調に私はを失っていった。そんな時に、希望ヶ峰学園から声をかけられたのだ。私の指は動かなかった。もう元には戻れなかった。だから私は先を見た。私の墓になってくれるのか。本当は両親だって私を諦めているのを知っている。そしてこの世界の全てが私を諦めたはずだった。だけど、違ったのだ。「あのね」声が震える。目の奥が痛い。泣きたくないって言ったくせに。



「私が唯一あなたに固執したのは、あなたが、全能だったころの私ではなくて、皆に諦められた、もうだめになっていた私を、奇跡みたいだなんて言ってくれたから」



 私の弾いためちゃくちゃな鐘をあなたは愛してくれた。あんなの、本当は全然駄目なんだよ、凪斗くん。コンクールだったら審査員に笑われて終わりだ。なのに凪斗くんはあんなピアノを好きだと言った。アレンジしてあったのが良かったよと。それだけで凪斗くんは私にとって特別だった。
 凪斗くんの眠るカプセルに、寄り添うように体重をかける。スーツの裾が太腿に痕を残す。吸った息は乾いて、喉にべたりとはりついて、痛い。痛いから、私はとうとう泣く。



「あんな私を見つけてくれて、ありがとう」



 それだけで良かったのだ。
 本当はあなたのためにこの左手が治ったら良いのにと思わなかったわけではない。全能だった私のピアノを聴いてほしかったと考えたことが一度としてなかったなんてそんなことは言えない。あなたが望む私になりたかった、本当はずっと。でも私がどんなに望んでも、戻りたくても後悔しても、正体不明の病にかかったこの指は治らない。足掻いても泣いても苦しんでもどうにもならない。だから私は誤魔化した。何もかもを飲み込むことで彼が気づかなければいいと思った。
 伝えられなかった。松田先輩に匙を投げられたことも、事実上の退学勧告を受けたことも。会えなくなるのが怖かった。一緒に居たかった。もう価値のない私のピアノを隣で聴いていてほしかった。この曲も好きだなって、笑ってほしかった。たまにピアノ以外の話をして、ご飯を食べて一緒に帰って、だけどそんなの、この指じゃもう出来ないから、夢にしかならないから、私の我儘で一方的な望みでそこにあなたの意思は存在しなくて、なのにそれを知っていても尚、私はピアノの弾けない私を愛してほしかった。自分勝手だと知っていた。それが決して叶うことがないことも。
 水の音が絶え間なく続いていく。手を握りたかったけれど、このカプセルを開けることはできなかった。凪斗くんは眠っていた。私ではない人の手首をぶらさげて、動かないんだと、私とお揃いだと笑って。膝に付けた眼球が、熱を帯びる。
 狡くても強かでも、二度と声が聞けなくても自分勝手だって罵られても、あなたがどんなに絶望しても、このまま老いても懺悔を続けなくてはならなくても償えなくても。百年経っても。私は半透明の膜の先で眠り続けるあなたが目を覚ますのを待つだろう。これが私の罰だから。
 凪斗くんが死んだ日、私の部屋から書きかけの楽譜が消えた。私は今でも続きが書けない。


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