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 綺麗ごとを重ねて塗りたくった皮膚を剥いだ私は、軽蔑されて然るべきだ。この心の中が駄々漏れになって罪木さんに聞かれたら、ほらやっぱりそうだったって、きっと笑われてしまう。
 それでも、私は今になって思い知ったのだ。私が未来機関の一員としてではなく、として誰よりも救いたかったのは彼だったと。自分の身も顧みずに、苗木くんや十神くん、たくさんの人に迷惑をかけてまで新世界プログラムに飛び込んだ理由は、全てあなたにあったのだ、凪斗くん。私の世界の真ん中で、いつも薄っぺらな笑顔を張り付けていた人。ずっとずっと、子供が親にするように私の腕に縋っていた人。それを知っていたくせに、私は離れたその手を掴まなかった。
 裏切ったのは私だ。だけど、置いて行ったのは凪斗くんだ。私たちはお互いの背中を見送った。私は彼を救えなかったし、彼は私を見限って捨てた。それが私たちの過ごした一年にも満たない期間の結末だった。だから、コロシアイ学園生活を経て凪斗くんが再び私の前に現れた時、これが最後だと思ったのだ。盾子ちゃんの影響を受けて絶望に沈んだ彼を救うのは、私だ。やり直すなら、ここだと。そのために、私はこの記憶を捨てることを選んだ。
 例えそれが褒められない行為であったとしても、あなた以外の誰かに、どんなに恨まれても。
 なのに、違ったのかもしれない。私は間違えていたのかもしれない。根本の部分から。
 凪斗くんが私を見つめている。パソコンの中で、噛みしめるように一つ一つ言葉を選んでいる。私のために。私のためだけに。私は瞬きも、呼吸をすることも忘れて、冷たい左手の指の先を噛んだ。吐けない息が、喉の奥で燻って私の身を焦がす。薄暗い工場内で、淡く光る液晶が、私を嘲笑うように微かな点滅を繰り返した。
 それは、ほんの数分の映像だった。生き残った人物にあてたメッセージの後に、私にだけ残された彼の言葉を、聞いては巻き戻し、何度も何度も繰り返し、それはまるで呪いで、世界に取り残された私を、足を掴まれた私を彼は無遠慮に撫でるから、擦り切れるくらいに焼けるほどに繰り返したって私は、上手く彼の言葉を飲みこめなくて、いや、単純に、認めたくなくて、目を閉じてしまいたかった。こんなのってない。だけど、でも、それとは反対の感情が、じわじわと私を食べていく。頭のてっぺんから舐めていく。きらきらした粉が、私の手の上に落ちていく。
 マウスを動かす指が震える。パソコンの画面に浮かぶ凪斗くんが揺らぐ。間違えていたって言うなら、本当はもうずっと前に私の願いが叶っていたって言うなら、私は、いや私たちは、なんて馬鹿馬鹿しい遠回りをしていたのだろう。吐き出した息が、震える。画面の中で、凪斗くんが今まで一度も浮かべたことのないような笑顔を見せる。ずっと見たかった。あなたの、そういう顔が見たかったのだ。画面越しではなくこの手の届く先でそうやって笑ってほしかった。だけど、そんなのこっちの台詞だよって、耳元で、もういないはずの彼が笑う。



【ボクはきっと、キミの左手に救われたことがあったんだ。】



 私はあなたを救うためにこの世界に来た。それが私の存在意義だった。また駄目だった。また助けられなかった。私はそう思っていた、今でも。でも、だけど、なんだよ、それ、と思うのだ。私の左手に救われたと、彼が言うその意味が。思いだせない。私はあなたを救えていたの、だったら、なんでこんなにすれ違うの。教えてよ、お願いだ、もう一回目を覚まして。夢でも幻でもなんだって構わないから、どうか、目の前で不甲斐ない私のことを笑って。大丈夫だよって、言ってどうか。
 どうか。








 やがて、ジャバウォック公園のカウントダウンがゼロになる頃、世界を構築するデータが崩れ出す。かつてあのコロシアイ学園生活の中でさやかちゃんが残した最期のメッセージを入力し終えた私には、もう居場所はない。
 あらゆる場で発生するバグを食い止める術はもうなく、私は膝を抱えて、私たちの世界の終わりを見つめている。ウイルスに飲み込まれていく。凪斗くんのメッセージの中から遺跡に入るパスワードを手に入れた日向くんたちも、間もなく私のいるこの最後の裁判場にやってくるだろう。
 学級裁判上の真ん中にある大きなモニターの中で、遺跡を見つめる五人の後ろ姿が細切れになって地面に落ちていく。言葉もなく見上げる私の背後に、モノクマが立った。



「日向クンたちより先にこっちに来ちゃうなんて、キミはずるいね」

「うん」

「というか、狡猾だね。意外と強かだしね」

「うん」

「おまけに救いようのないほど馬鹿だ、つまり、その強かさは計算じゃなくて天然なんだ」

「そう、なのかもしれないね」

「逃げたり立ち向かったりベソかいたり、かと思えば、そういう鬱陶しい顔するし」

「……前にも盾子ちゃんに似たようなこと、言われた」

「だから、もういい加減そんな自分自身に絶望してもいいんだよ?」



 私の正面に回り込んだモノクマは小首を傾げる。その黒い瞳を見据えて、私はやがて小さく首を振った。凪斗くんの言葉が胸の内側で存在感を持って、輝いていた。それは確かに私の中に芽生えた希望だった。彼が遺した奇跡のようだった。千秋ちゃんが隣にいて、手を握っていてくれる気がした。何も言わずに微笑む私に、モノクマはつまらなそうに背を向ける。



「だからオマエは嫌いなんだ」









『では、未だに誰一人として目を覚ます気配はないのだな?』

「うん。……だから、今回も特に新しく報告することもないんだ」

『それは仕方あるまい。だが万が一脳波に微細な変化があるようなら直ぐに報告しろ。……考えたくはないが、やつらが絶望として目覚める場合も充分に考えられる』

「……そうだね、その時は、この島の中で対処できるように準備はしているけど……」

『そんな事態に陥るようなら俺も向かおう。貴様らだけでは心許ない』

「あはは、十神くんに言われると、心強いな」

『笑いごとじゃない……いいか、お前がジャバウォック島に残ると決めたことを、俺はまだ認めてはいないのだからな』

「うん、そうだったね。ごめんね」

『まあ、無理はするな。何かあったらすぐに連絡しろ。いくらでも協力するさ。……仲間として』

「……うん、ありがとう」



 苗木くんたちの協力で、私たちは盾子ちゃんのアバターを倒して、新世界プログラムから脱出することができた。
 だけど、日向くんたちにはプログラムの強制シャットダウンという、辛い選択をさせてしまったのかもしれない。盾子ちゃんという絶望を消滅させるために強制シャットダウンを選ぶということは、ゲーム内で起きた全ての記憶を捨て去ることを意味していた。正規のプロセスを通らずにプログラムを終了することで、彼らの記憶はゲームに入る前と同じ状態、つまり超高校級の絶望に戻ってしまうことになるだろうと考えられていたのだ。過去のことを覚えていない彼らにとって、それは想像以上の恐怖だったに違いない。けれど、それでも日向くんたちは最後には納得してその道を選んでくれた。
 結果論としてではあるけれど、最終的に彼らはゲーム内での記憶を完全に失うことなく現実世界に戻ってくることができた。勿論私も含めて。目覚めた当初は覚醒しきらなかったせいか意識が混在していたけれど、私が比較的すんなり現状を呑みこめたのは、苗木くんたちがいたからだ。カプセルから起き上がった私を、苗木くんと霧切さん、十神くんの三人は待っていてくれた。



「……心配をかけるなと、いくら言えば貴様に通じるんだ」



 絞り出すような声で言った十神くんの背中が僅かに丸くなっているのを見て、私は、私が彼をどんなに苦しめていたのかを知った。
 間を置かずに、日向くんや左右田くん、九頭龍くん、ソニアさん、終里さんの五人が目を覚ました。彼らを警戒して、数日は各々を監視せざるを得なかったのは心苦しかった。それでも日を重ねるごとに回復していく彼らの顔に以前の、超高校級の絶望の面影はなかった。彼らはあの島での日々を、きちんと覚えていた。



「信じていいのか? 俺たちを欺くための演技かもしれないぞ」



 十神くんの言葉に首を振る。「私は、この島に残るって言ってくれた皆を信用するよ」未来機関を信用してくれた、日向くんたちを信じたかった。十神くんが、呆れたようなため息を吐く。



「相変わらず、甘いんだな」



 すれ違いざまに肩を叩かれた。振り向いたら、彼は小さく笑っていた。








 けれどプログラム内で死んだ皆は目を覚まさなかった。
 カプセルの中で眠り続ける、それはまるで死人のようだった。


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