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この島はどこにいても波の音がする。それが、機械の規則的な稼働音に潰されるくらいにやわな音なら良かった。
中央の巨大なコンピュータから伸びるコードの先にある十六のカプセルを上の階から見下ろした。丁度体育館のギャラリーのようになっているそこに立てば、部屋の全体を眺めることができるのだ。自分が眠っていた、他の十五の規格とは違う突貫で作られたカプセルを目印にすれば、どこに居たって彼が眠るそれが分かる。学級裁判での立ち位置のように彼は私の対角線上に居た。
薄ぼんやりとした淡い光を放ついくつかのカプセルから、金魚の泳ぐ水槽から発せられるような、細かな気泡の弾ける音が耳に届く。あの中で、皆は眠っている。
「……?」
背後の扉が開けられた音がした瞬間、声をかけられて目をやると、日向くんが私を見つめていた。「お疲れ様」そう言いながら微笑むと、彼は困ったように息を吐いて私の隣に立ち、かつては彼自身も眠りについていたカプセルを見下ろす。
「……相変わらず、暇があるとここに来るんだな」
「落ち着くから」
「そうは言ってもさ……休めるときは、休んでくれよ。皆も心配してる」
「うん。ありがとう」
手すりに体を預けてそこから動こうとしない私に、日向くんは諦めたように眉を寄せると、言葉もなく出ていった。どうやら最初から私に声をかけることを目的にここに来たらしい。純粋に私を心配してくれていることが嬉しいはずなのに、喉の奥が痛む。無数の監視カメラは今も私を捉えていたから、俯いたまま、私は唇を噛みしめる。噛みしめて、ともすれば蹲りそうになる自分の背中を勢いよく蹴り飛ばす、そういう想像を働かせる。
まだ終わってはいなかった。生き残った私たちが苗木くんたちに助けられてあのゲームを脱出した今も、目を覚ました私たちはこの島に留まり続けている。彼らを生かす水音に目を閉じる。膨大な維持費がかかっているのだと本部に嫌味を言われても、当初の目的通り洗脳から覚めた例が五件も実績として表れた以上、彼らもそこまで強く出ることはできない。希望ヶ峰学園と言うブランドは、荒廃した世界だからこそ価値がある。それを思い知らされたのは事実だけど、そうでなかったとしても私はあの世界で命を落とした皆が目を覚ますまで諦めることはできない。
私はあの日、あなたに救われたのだ。
島での、私にとっての最後の日、私は絶望に引きずり込まれる寸前だった。
そう認識していたのに抗う気力も起きなかった。私は未来機関の一員という立場であったはずなのに、誰も救えなかった。曲げようのない事実に追い詰められて、逃げ場を失った。生き残った皆に、とりわけこのコロシアイを引き起こすためのウイルスを持ちこんだ張本人であろう日向くんに全てを話す覚悟もなく、誰かに会う勇気もなく、自分の無力さに打ちひしがれて、一人で勝手に落ち込んで全ての音から耳を塞いだ。なのに、指の隙間からモノクマの息がかかるのだ。
「今度こそ絶望してよ。あの時言ったでしょ? 最後に絶望するのは、オマエのほうだって」
ねえ。歌うような盾子ちゃんの声に目を開く。真っ赤な爪が私の足首を食べる幻を見る。
何のために私はここにいるのだろう。足が重いから、本当は蹲って諦めてしまいたかった。こんな時に背中を撫でてくれた人たちはもういない。千秋ちゃんも凪斗くんもどこにもいない。そういうふうにできているんだよと、かつて千秋ちゃんは口にした。本当だね、千秋ちゃん、そういうふうにできているから、私はまた彼を失った。
私の隙間に入り込む泥が、やがて誰も救うことのできなかった私を黒く深く染めていく。人に頼ってばかりで、自分の力じゃ何もできなくて、やり直したって無駄で後ろ姿ばかり追いかけて、どうしてどうしてって、どんなに思ったって無駄で、なんでこんな私が生き残ったんだろうって、そう考えずにはいられなかった。私を守って庇っていった人たちが生き残るべきだった、あの時も、今も。モノクマが笑う。私の首を絞める。泥水に飲み込まれる。
「ああ、良かった。これでやっとエンディングが迎えられるよ」
受け入れれば、終わったはずだったのに。なのに、私は気が付いてしまった。
冷え切っていたはずの足が何かに浸っていたことを。皮膚に食い込んでいた赤い爪はなくなっていたのに、左手だけは変わらずそこにあった。その左手が凪斗くんの声で笑うから、だから私は、息を吐いて、ずっと捜していたんだよと、口にする。その瞬間、内臓の奥底から溢れる何かがあった。空中に投げ出されていた手を引かれた気がした。背中を撫でられた気がした。
「ここにいたの?」
訳も分からず吐き出した瞬間、私を追いつめた絶望の手が、凪斗くんの熱をもって、大丈夫って、今まで彼が私に捧げてくれただけの柔らかさで告げるから。だから。私は。
【さん。】
全ての島を歩いた後に辿り着いた、五番目の島の、工場の隅にあったノートパソコンの中だった。彼は私の名前を、すべての感情をこめて口にした。
キミはボクの希望だってあなたは口癖のように言うけれど、知っていたかな。同じように、あなたこそが私の希望だった。