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これが最後の告白だ。
「ボクを殺してくれないか」
目を覚ましたさんは、ボクの言葉に目を瞬かせた。乱れた髪が頬に張り付いて、だけど、それすらも美しかった。何もかもを、目に焼き付けておきたかったのだ。
「……なんで……?」
理由なんて、本当はもうキミだって分かっているのではないか。だけどそれを言ったらきっとキミは傷つくから、だからボクは笑って首を振った。キミは、この後汚れる必要があったから。ボクを殺すのが他の誰でもない、キミでなくてはならない以上。
「……わからない?」
本当は会いにくるべきじゃなかったのかもしれない。あのまま別れていたほうが良かった。さんの訴えるような視線から逃げて、彼女を視界に入れることも、これ以上会話をすることもなく、キミが傷ついていることにすら知らないふりをしたまま死ぬべきだった。だからこれは、ボクのエゴだ。
ごめん、さん。引き結んだ唇の奥から、嗚咽が漏れそうになる。
無視し続ける形になってごめん。本当はちゃんと話しておきたかったけれど、それもできなかった。傷つけたくはなかったのに。キミの顔を見ようとしなくてごめん。見たらボクはさんのことを諦められなくなりそうだった。本当は、今でもそうだ。
「だったら、キミは理由なんか知らないままでいたほうがいいよ」
さんが、息を呑んだ音がする。
安心させてあげたかった。笑ってあげたかった。だけどできないのだ。感情が後から後から湧きあがって、どうしようもできない。
何かあったらいつでも頼ってほしいなんて言ったくせに、こんな結果になってしまった。一人で生き残るなんて辛い選択をさせてしまってごめん。でも、だけどさ、それもちょっとの辛抱だ。キミには仲間がいる、だから大丈夫。
「キミの顔が見たいって思ってごめん」だけど最後にもう一度会いたかった。「殺してくれなんて甘えてごめん」キミだけは助けてあげたかった。「キミを苦しめることになってごめん」傷つけたまま死ねなかった。「ごめん、ごめんごめん、ごめん、さん、ごめん」
キミを教室で見た時、ボクは春を思ったのだ。そこは窓も扉も締め切られた空間だったのに、仄かな風が頬を切った気がした。こんなボクの手伝いをしたいと申し出てくれた旧館の前、花村クンににじり寄られたキミを見て、何だか面白くない気持ちになった。監禁されたボクにキミがパンを持ってきてくれた時、脳裏を過ぎった景色があったような気がした。ボクはそれを未だに思い出せないままだ。衝動に任せて指を舐めたら、キミに避けられてしまった。罪木さんの裁判の後、倒れたキミは信じられないくらいに軽かった。キミはボクを「凪斗くん」とそう呼んだ。罠だったけれど、あの列車でキミの隣に座れて良かった。キミに会えた、それだけで。
言葉を吐き出そうとした喉が引き攣る。
「キミを好きになって、ごめん」
やり直したのにボクたちは同じ道を辿っていく。ボクはいつもキミの横顔を見ている。真っ直ぐ伸びていたその背骨に、ボクはこの手で触れたかった。欲しかったのはキミだ。
「さん。キミだけが、今も昔も、ボクの希望だ」
目を見開いた彼女に微笑みかけた。準備しておいたハンカチに、手を伸ばす。
【さん。ボクは過去のことを思い出せないなりに、キミのことを知ろうとしたつもりだった。キミのことばかりを追いかけていた。ボクはキミを好きだったんだと思う。思い出せない過去の中でも、ずっと。】
薬品を染み込ませたハンカチをその口元から外す。彼女が完璧に眠りについたのを確認してから、ボクは自分の視界が霞んでいることに気が付いた。泣いたのがキミの方でなくて良かったと考える。最後に見たのが泣き顔だなんて笑えないし。
「どうか、元気で」
口の中で呟いて、少しだけ躊躇ったけれど、その唇に口づけを一つ落とした。
さんが確実に外の世界に出られるように、彼女の手で直接殺してもらいたかったけれど、これで当初の予定通りボクは自分の才能を使わざるを得なくなってしまった。自信がないわけではない。さんは生き残る。ボクに残された幸運を全て使い切ると考えれば、それくらいの結果を引き起こせないわけがない。
壊されたドアノブに手をかけて、もう一度、彼女が横たわるベッドを振り返る。こうして見ると、さんは華奢な女の子だった。だけどその細い手首が、最後に、ボクの首を掴んだような気がした。ボクは息が出来なくて、締められたそれが苦しくて、仕方ないから笑った。ボクは何も手に入れられない。何度やり直しても。何度キミと出会っても。
【結局最後まで、キミがこの世界にやってきた理由だけは分からなかったけれど、でもきっとキミのことだから、自分のためじゃなくて、誰かのためだったんじゃないかな。ボク達の中の誰かを救いたかったとか、やり直したかったとか謝りたいことがあったとか、そういう理由かな。なんて、違ったら恥ずかしいけど。】
ボクは自分のコテージに戻ると、準備を整えてから五番目の島に向かった。
その前に、ネズミー城に寄って今回の犯行に必要不可欠な槍を持って行くのも忘れない。以前来たときに消して置いた、パスワードのあった床を見下ろす。多分、未来機関の誰かが残したのだろう。全てを思い出した彼女なら、こんなものを見なくたって遺跡に入ることはできるはずだ。それを見届けることができないのは、ちょっと勿体ないかもな。そこまで考えて、自分に残った僅かな執着を消し去るように頭を振る。
グッズ倉庫に着いたボクはセットしたパソコンを使って最後の仕掛け作りに取り掛かる。明日、いや、もう今日か。昼になってもなお爆弾騒ぎに振り回されているだろう日向クンたちへ向けて、捜査を攪乱するためにビデオメッセージとしてボクの姿を残しておくのだ。この倉庫には時計も窓も無いから、残された時間も逐一確認しておかなければならない。正午まであと、八時間だ。
【でも、もしそれが正解だって言うなら、その誰かが、ボクだったらいいのにって思う。】
爆弾や裏切り者に関係するメッセージを録画し終えると、ボクは間もおかずに新しいビデオを撮り始める。裁判が無事に終わってから時限式で再生を始めるように設定したその映像を、彼女は一人で見ることになるだろう。ボクはそう信じている。
【ボクはさんの左手が好きだった。以前、きれいに見えるのは、右手よりも少しだけ指が長いからだってキミは言ったけれど、そういうんじゃないんだよ。】
喋りすぎたせいか、口の中が随分と乾いてきた。だけどもう一つだけ、ボクにはやりたいことが残っている。
全てのメッセージを再生し終えた後、これが始まる。上手く伝えなくちゃいけないのだ。これが最後の告白だから。
キーボードをクリックする。生き残ったキミが画面の向こうにいる。ボクはそれを信じている。
「さん。ボクは過去のことを思い出せないなりに、キミのことを知ろうとしたつもりだった。キミのことばかりを追いかけていた。ボクはキミを好きだったんだと思う。思い出せない過去のなかでも、ずっと。結局最後まで、キミがこの世界にやってきた理由だけは分からなかったけれど、でもきっとキミのことだから、自分のためじゃなくて、誰かのためだったんじゃないかな。ボク達の中の誰かを救いたかったとか、やり直したかったとか謝りたいことがあったとか、そういう理由かな。なんて、違ったら恥ずかしいけど。でも、もしそれが正解だって言うなら、その誰かが、ボクだったらいいのにって思う。ボクはさんの左手が好きだった。きれいに見えるのは、右手よりも少しだけ指が長いからだってキミは言ったけれど、そういうんじゃないんだよ。ボクは、ボクはきっとさ」
外が騒がしくなってきた。きっと日向クンたちがボクのビデオメッセージに気が付いたのだろう。目を覚ましたさんもそこにいるはずだ。彼女は今、何を考えているだろう。口にガムテープを貼って手足を縛ってから、自由な右手で太腿にナイフを刺していく。さんのことを考えると、ちっとも痛くなかった。脳内麻薬でも出ているのだろうか。
ぬいぐるみに突き立てたサバイバルナイフに右手を振り下ろす。さすがに手の平を貫通されれば痛みも強い。思わず吸った空気が、ガムテープごと口内にへばりつくから、吐き気まで催した。
準備したMP3から陳腐な讃美歌が流れている。譜面通りの、機械が奏でる何の面白味もない音楽だ。ボクは、脂汗が額から流れ落ちていくのを鬱陶しく思いながら、鼻で呼吸を整えた。段々と痛いのを通り越して痺れていく手の平を感じながら、もっと、最後くらい、好きな音楽を聴きたかったなと目を閉じる。
大きく開いた窓の向こうから聴こえてきたピアノの音。嵐のような音。泥の中にいたボクの手を引いた。顔をあげた。そこにキミはいた。酷く美しい横顔で、壊れた左手をぶらさげたその人に、あの日ボクは何もかもを奪われた。そうしてキミはボクを救った。
好きな曲を聴きたかったんだよ、さいごくらい。
さんの、鐘とか。
「ボクはきっと、キミの左手に救われたことがあったんだ」
倉庫の扉が開いた、その反動で、並べておいたモノクマパネルが部屋の中央に向かって倒れていく。その先にあるのは火のついたライターと、部屋を仕切るカーテンだ。火は一気に燃え広がる。じりじりと火元に近い右半身が熱を持つ。悲鳴が聞こえて、次にソニアさんの「工場に消火弾があったはずです!」という声が耳に届いたことに少しだけ安心した。やっぱりボクは運が良い。企てた計画通りに事が進んでいる。
やがて一斉に投げられるその消火弾の中には、一つだけ、ボクが混ぜておいた毒があった。オクタゴンから持ってきた、空気に触れるとすぐに気化する猛毒だ。吸い込めば死に至るのは間違いない。左手で支えている槍が、梁からぶら下がってボクを見下ろしている。毒の入った消火弾を投げるのは、未来機関の人間である、裏切り者だ。
そしてボクを殺して生き残ってくれ。ボクは、そればかりを考えているんだよ。
だってボクはキミに救われた。きっと、過去にボクを救い出してくれた。がしゃ、がしゃ、と、容器の割れる音がする。火はそう簡単に消えないから、全ての消火弾を消費するのにそう時間はかからない。目を閉じる。心臓がうるさい。だけど、ボクにはずっと脳裏にこびりついているイメージがあって、その中でボクは死体に埋もれていた。いつ死んでも良いと思っていた。早くその時が来てほしかった。胸が苦しいのだ。これは今までの対価だ。いつ死んでも良かったはずだろ。ねえ。
それが今だ、わかっているのだ。さんを生かすためにボクは死ぬ、死ななくちゃ、生きていちゃだめだ、だってボクこそが絶望だった、希望に焦がれた泥だった。さん、だから、キミはボクたちを捨てて生きなくちゃ。キミはもう良いんだよ、ボクのことなんか忘れたって。キミの踏み台にボクがなるんだよ。嬉しいよ、幸せだ、本当に、心から。
吸い込んだ僅かな空気にそれは紛れ込む。視界が揺れる。ポケットの中に入れっぱなしになっていた楽譜が煙になってボクを見下ろす。グランドピアノ。そこにキミは座っている。ボクはそれを眺めている。毒が見せる幻だと思った。だけど、キミはそこにいる。
その指が鍵盤を滑った。そこに鐘があった。
めちゃくちゃなスピードのラフマニノフがボクの手を取った。加減のない強弱が嵐みたいで、ボクは、キミを砂漠みたいな人だと思っている。感情の揺れを伴って、砂嵐になってボクに襲いかかるキミは、酷く輝いていた。
二人で並んで食べたサンドイッチは美味しかった。ずっとそのピアノを聴いていたかった。ボクの誕生日だからと作ってくれた曲があったね。「狛枝くんおめでとうの曲」だ。ボクはあの日、初めて血の繋がらない誰かにこの世に生を受けたことを祝ってもらえたんだ。キミの音を聞いていると、誰かに抱きしめられているような心地よさがあった。白木のベンチで眠るキミはあどけなかった。キミが困った顔をするのが嫌で、いつも少し距離を取って座った。キミの作った曲はどこか影があった。キミは気が付いていたのかな。ボクは、見ないふりをしていたのだ、キミが隠すから。ああそうだ、ボクはずっと、キミに惹かれていたんだよ、キミが隠し事をしていても、それに気が付いても、気が付かないでいたボクが自分自身を許せなくても、あの女が現れてボクを笑ってもずっと、ずっとさあ。
さん。キミこそがボクのすべてだ。キミはボクを照らす朝陽のようだった。
「ねぇセンパイ? あんたひょっとして、これで幸せになれるって思ってない?」
いつ死んでもいいと思っていた。それが今日だってことも分かっていた。でも、だけどだめだね。思い出してしまったんだ。ボクとキミが出会った春を。二人、暑さに溶けそうになっていた夏を。キミが笑顔を失くした秋を。山茶花梅雨の強くなる頃、ボクは君に別れを告げた。
死にたくないなあ。
だってボクは、あの日のことをキミに謝っていないだろ。
力の抜けた指先から鞭が離れる。ボクの体の真上で、槍が口を開けた。