84



 枝分かれて分岐した未来の中にキミの姿を探した。ボクたちからすれば裏切り者に違いないキミが生き残り、腐ったボクらが犠牲になる世界を手繰った。そのために、ボクはさんから離れた。彼女が浮かべる、傷ついたような表情が視界の隅の辺りでボクの眼球を刺していくから、本当はいつ限界が来てもおかしくなかったけれど。
 田中クンが処刑され、裁判が終わった。ドッキリハウスを出ることになった彼らは一様に決意を新たにしたような強い瞳をしていた。大方田中クンや弐大クンの遺志に感化されたのだろう。単純な人たちだ。それでも今までのボクだったらそれを美しい光景だと感じたはずだ。仲間の死を乗り越えて彼らの遺志を継ぎ前に進むキミたちこそ希望だ、なんて賞賛の言葉を口にして。だけどもう、日向クンたちが餌に群がる蟻にしか見えないのだ。無意味だ。彼らはどう足掻いたって希望にはなりえない。だけど、そういうボクもまたさんという光につられる蟻に違いない。
 翌朝、さんたちが五番目の島を探索している最中、ボクはコテージで自分の考えたシナリオをなぞり続けた。最後の殺人事件が上手くいくよう、いくらでも手は尽くすべきだった。昨夜のことだ。ボクはジャバウォック公園に呼び出したモノクマに裏切り者の正体が分かったと伝えた。それがさんであることも、自分の目論みも。ボクがファイルを受け取った時点でこうなることを予測していたのだろう。モノクマは両手を口元にあてて、いつもの笑い声を漏らした。



「期待してるよ狛枝クン。キミが面白くしてくれるってね!」



 ボクには、モノクマの正体も発言の真意も分からない。どうでもいい。モノクマは、一応ルールだけはきっちり守ってくれるやつだから、そういう点では不正をすることはないだろうと信じている。それに、さんさえ救えるのならボクはもう、何もいらないのだ。
 だから、キミはボクを殺さなくてはいけない。
 彼女が横になったベッドに腰かけ、タオルケットを抱きしめた。最早何の匂いもしないそれを肺に吸い込んで、立ち上がる。皆がいる五番目の島に向かって、ボクは歩き出す。








 さんが倒れたらしい。
 日中五番目の島を探索し終えた日向クンたちのところに行った時、視界の端で捉えた彼女は屋台の椅子に座って酷く青白い顔をしていた。内心その体調を案じたけれど、まさかボクが去った後で再び倒れることになるとは。最近のさんは、どうも体調が優れないようだ。それが一体何に端を発するものなのかは、この世界の真実を知ってしまった今のボクにとって想像に難くない。
 さんの容体は気にかかるものの、ボクにあまり時間が残されてはいないのもまた事実だ。七海さんにホテルのロビーに呼び出されたボクは、ボクを捕えるために集まった皆に向かって、島のどこかに爆弾を仕掛けたことを伝えた。この島のすべてを吹き飛ばすほどの威力を持った爆弾で、時限式のそれは二日後の正午くらいに爆発すると言うボクの言葉を愚かな彼らは丸ごと受け入れた。目の前でホテルの一階部分を爆破させたことも、彼らの思考を鈍らせたのだろうけど。
 勿論、裏切り者の正体を知らない風を装って、止めて欲しければ自発的に名乗り出るようにと付け加えるのも忘れなかった。彼らはこんな状況でも現れようとしない裏切り者に対して思うところがあるようだ。それでいい。疑心暗鬼に陥ったままでいてくれ。ボクはそう念じる。
 しかし、彼らは一体ボクなんかを拘束してどうにかなると本気で思っていたのだろうか。だとしたらその思考回路が残念でならない。彼らは各々酷い顔をしていた。ボクと共に消えるに相応しい人間たちだった。だから準備をしなくてはいけない。キミたちとボクが死ぬための準備を。



「爆弾は今までキミたちが行ったことのない場所に隠してあるよ」



 この嘘で、素直な日向クンたちが二番目の島にある遺跡の中か、四番目の島のネズミー城に向かうのは間違いない。ある程度の時間は稼げるということだ。
 夜が明けると、ボクは一人で五番目の島に向かった。モノクマの形をした趣味の悪い製造工場の中に入ると、予め自分の部屋で中身を移し替えておいた消火弾の容器を給湯室に戻す。それから一旦外に出て、隣のグッズ倉庫へ向かった。薄暗いけれど、わざわざ電気をつけるほどではない。
 ボクはまず目障りな等身大のモノクマパネルを並べやすいように整理しておいた。これは今やるべきことではないけれど、本番でスムーズに並べられなかったら困るから、せめて下準備だけは丁寧にやっておかなければならない。あとで万が一にも日向クンたちに見つけられないように、MP3プレイヤーは目立たないところに隠しておいた。
 倉庫内を仕切るカーテンを捲ると、ボクが仰向けになっても余裕があるくらいには広いスペースがある。寝そべりながら天井を見上げて、スプリンクラーの横に丁度いい梁があるのを確認する。



「……うん、問題ないね」



 これで終わりだ。ボクの描いたシナリオの完璧な結末に向かうための準備は整った。あとは、でもそうだな、もう一つだけ仕事が残っているか。ボクは目を閉じて、彼女の顔を思い浮かべる。だけどおかしいのだ。こんなときに限ってあの子の泣き顔しか浮かばない。



「……はは、参ったな」



 乾いた笑い声が唇の端から漏れる。せめて最後くらい、笑った顔が見たかった。ボクはあの子の顔を、もうずっとまともに見ていない。
 ボクは明日、死ぬ。
 それでいい。いいはずなのに、さんの後ろ姿が眼球に焼き付いたまま剥がれてくれないのだ。生き残った彼女は、ボクを恨むだろうか。なんだか内臓が痛むけど、それでいい。そのつもりだった。憎まれても泣かれても嫌われても、そのためにボクは生まれんだと、胸を張って言えるから。
 だけど、さんの睫毛が、下がった眉が、黒目がちの瞳が、柔らかい頬が髪が細い手足が瞬きの度にボクを食らう。全部手に入れたかった。この腕の中に欲しかった。矛盾しているのだ。助けることができるなら、彼女を守れるならそれでいいと聖人ぶったくせに、ボクは今更足掻いている。
 ボクは彼女とさよならをしなくてはいけない。彼女のためにボクはこの世界から消えなくてはいけない。彼女を救うにはそれしか方法がないと分かっている。なのに、どうしてボクはこんなにそれを受け入れがたく思っているのだろう。こんなにさんが欲しいと思うのだ。ボクはあの背中ばかりを追いかける。 何もいらなかったくせに。あの泥の中で、もういいと呟いたのはボクだったはずなのに、さんだけが消えてくれない。ボクの隣にいる。笑っている。ボクは彼女に手を伸ばして、それが実体のない幻だと知るのに、それでも彼女を捜している。
 いつ死んだってよかった。ずっとそう思って生きてきた。希望のために死にたいって。今のボクはその望み通りの道を歩いている。キミを置いていく。殺されるんだったらキミがいい。いつか呟いた言葉は現実となる。それの何が気に入らないって言うんだよ。あんなに切望していたくせに。
 ねえだから頼むよ、もう諦めさせてくれ。








 皆が必死にあるはずのない爆弾を探し続けたその夜、ボクはさんの部屋を訪れた。
 日向クンたちがそれぞれコテージに戻って部屋の電気を消した頃を見計らって、ボクは彼女のコテージに向かう。扉に手を触れてみると、鍵が壊されていることに気が付いた。随分と不用心だと眉を顰めたけれど、倒れた彼女を運んだのは終里さんだったらしいから、仕方ない。日向クンとかに運ばれるよりは、余程マシか。ため息を吐くと、薄暗い部屋の中に静かに足を踏み入れた。
 さんの部屋に入るのはこれが初めてだ。空気が他より甘ったるい気がするのは気のせいか。ベッドの中で穏やかに寝息をたてている彼女を確認して、短く息を吐く。眉尻が下がっているのを自覚する。ボクは彼女の前だと、随分と腑抜けた顔をするようになった。そのままずっと寝顔を眺めていたいくらいだったけれど、この部屋に来た目的を思い出して、ボクは首を振る。
 ボクの部屋と違って冷蔵庫が見当たらなかったので、お見舞いに持ってきたゼリーはテーブルの上に置いておくことにする。その時そこに数枚の紙とペンが置かれているのに気が付いて、ボクは少しだけ迷った結果、灯りを点けることにした。さんは深い眠りについているのか、明るくなった室内に何の反応も示さない。
 あまり片付いているとは言えない部屋だった。ゴミ箱は溢れかえり、その付近には丸められた紙が散乱している。ノートの切れ端か何かかと思って、テーブルにあったそれを手にしてみた。だけど違った。罫線だと思ったのは、どう見たって手書きの五線譜だった。



「……楽譜?」



 まじまじと眺める。五線譜に殴り書きの音符が並んだそれは、どれも中途半端に終わっているように思えた。床に落ちているものの中には、紙全体がぐちゃぐちゃに塗りつぶされたものもある。楽譜なんて普段見ることはないから、これが曲の終わりなのか書き途中のものなのか、ボクには分からない。数枚のそれを手にしたまま、さんの眠るベッドの横にある椅子に座った。腰を据えて眺めてみても、さっぱり分からない。知らない言語を読まされているような、妙な気分だった。
 ボクはさんのことを深く知らない。実際、そのピアノを聴いたこともないのだ。この島には鍵盤のある楽器が不自然なくらいに見当たらなかったから、仕方がないのかもしれないけれど。でも例えばこの楽譜だって、どんな曲なのか尋ねることもできたし、読み方を教わることもできた。そういうことはピアノがなくても、いくらでもできたのに。



「……う」



 その時ベッドの中からさんのうめき声が聞こえて、ボクは咄嗟にその楽譜をコートのポケットに入れた。盗むつもりなんてなかったのだ。それでも結果的に、ボクは彼女が作ったのであろうそれを返すことができなかったから、言い訳にしかならないのだけど。さんは苦しそうに眉を寄せている。その額には熱を下げるためのシートが貼ってあった。彼女の頬に手を寄せた瞬間、乾燥したその唇から息が漏れた。かすかな声だった。



「いかないで」



 前にもあったなこんなこと。だけどあの時よりずっと胸が苦しくて、呼吸もままならなくて目の奥から熱がこみあげてくるのは、さん、キミがボクの心臓を鷲掴みにしているからだ。



「……行かないで凪斗くん」



 諦めるために来たのに、キミはボクに未練を持たせるようなことを平気で口にする。
 ボクはキミのことを思い出せない。キミが無警戒にベンチで寝息を立てていたこと、キミがいつも何かを隠すような寂しげな笑みを浮かべていたこと、互いを名前で呼び合っていたこと、これ以上は、ボクにはどうやら思い出せないようなのだ。だけどキミは違う。未来機関に所属するキミには外の世界に仲間がいる。キミが何度も倒れたり、ボクの名前を昔のように呼び、贖罪の言葉を吐き出すのは、その仲間たちがキミに何らかのアクションを起こしているからではないだろうか。キミは、だから本当は、もう何もかも思い出しているのではないか。
 だとしたらボクはキミが羨ましい。ボクの知り得ない過去を手に入れることのできるキミが羨ましくてたまらない。知りたかった。キミとボクが話したことや、過ごした月日や育んだ何らかの感情を、思い出せなかったとしても、それでも、ボクは知りたかったのだ。
 記憶をなくす前のボクは、きっとさんのピアノを聴いたことがあっただろう。ボクは、そこで何を考えていたのだろう。当然のようにキミの横にいたボクは、キミの傍でキミに他の虫が寄り付かないように、平然と立っていたのかな。何だか想像できない。でも、だけどさ、やっぱりボクは、どんなに悔しくても羨ましくても、明日死ななくてはいけない人間だ。だからさんが、ボクの代わりにその思い出を抱えて生きてくれたらいいと思うよ。
 身じろぎしたさんは、そして目を覚ます。ボクは希望になりたかった。ボクはキミになりたかった。何者にも抗える、強い光になりたかったのだ。
 ぶらさがった左手が、鉛のように重く、ボクの覚悟を嘲笑う。


PREV BACK NEXT