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 ベッドの中で寝息を立てるさんの、仄かな温度を放つ額を撫でる。ボクの手の平に眉の一つも動かさない彼女は、つい先ほど眠りについたばかりだ。
 ボクがこうして今彼女の寝顔を眺めているのは、すぐ部屋を出ていこうとしたボクに、さんが躊躇いがちに眠るまでで良いから傍にいてほしいと呟いたためだった。余程不安だったのだろうか、少しの間髪を撫でていたら、さんは安心したように眠りについた。まるであどけない子供のようですらあった。
 さんの伏せられた睫毛に視線を落とす。いくら弱っているとは言え、こんなに無防備にされたのでは無理をしてでも彼女の信頼に応えなければと思ってしまう。生存本能なのか、本当は彼女をベッドに下ろしたあたりからずっとドキドキしていた。さらに言うなら、あんな風に潤んだ瞳で見つめられた時点でそのままどうにかしてしまいたかったけれど、ボクはどうにか踏みとどまった。微笑み返してくれたさんはボクとは違って、あまりにも純真無垢な女の子だった。
 穏やかな寝息を立てるさんの額から頬を撫でていく。顎から首筋を指でなぞる。首元が苦しそうだったから、きっちり結んであったネクタイを解いて、ボタンを一つ外してあげた。そこまで彼女に触れてからようやく我に返ったボクは、気を紛らわすために彼女の水色のネクタイを自分が座っていたソファの背もたれにかけてしまう。
 彼女が眠りについた今、約束通りボクはもうこの部屋を出るべきなのだ。それくらい頭では理解している。だけどやっぱりさんが心配なのだ。あまりにも生の気配が希薄であった彼女を見てしまった後では、そう思うのも仕方がないのかもしれない。毛布の下で規則的に上下する胸や、その穏やかな寝顔を見ても、どうも脳のあたりがざわついて落ち着かなかった。彼女が消えてしまいそうな、そんな不安がボクを頭のてっぺんを押し潰す。
 部屋にあったメモ帳から紙を一枚破ると、そこにペンを走らせた。相変わらず字が汚い。さんに笑われたら、嫌だな。そういえば、さんはどんな字を書くのだろう。女の子らしい丸字、と思いきや、意外と達筆だったりして。ボクは彼女のことを、こんなにも知らないままだ。



「……変じゃないよね」



 首を傾げながら、自分の書いた文章を読み返す。「さんへ。眠ってしまったようなので部屋に戻ります。何かあったら、いつでも頼ってください。狛枝凪斗」うん、問題ないはずだ。ボクはそれをベッドサイドのテーブルの上に置くと、もう一度だけさんの寝顔を覗き込もうとした。そしたら本当に、部屋を出ていくつもりだったのだ。今度こそ、本当に。
 さんの唇が、静かに動く。
 正確に言うと、ボクは何も覚えていないんだよ。
 はっきりと思い出せたことと言ったら、眠るキミをベンチで見た、あの瞬間だけだ。キミはボクを「凪斗くん」と呼んだ。ボクだってキミを名前で呼んだ。ボクたちはそれでも今よりずっと分厚い膜を張っていた。あんなに傍にいたのに。キミはボクのつま先の前で線を引いた。ボクはその線を踏まないように、離れたところからキミを見ていた。
 キミの傍にいて、キミに特別な感情を抱いていた。だけどキミはどうだったかわからない。拒絶されていた気もするし、大切に思われていた気もする。浮かべる表情が今のキミとは似ても似つかなかったことをボクは認めてしまっても良いのだろうか。キミの目には、いつもどこか遠慮があった。
 さんはどうだったのだろう。ボクの脳の中で掠れてしまった過去を、彼女はどれくらい知っていたのか。ベッドの中のさんが乾いた唇を微かに動かす。



「……凪斗くん」



 思い出せないのだ。わからないのだ、悔しいのだ、息ができなくなるほどに。なんで、だからさあ。



「……ごめん」



 なんでキミが謝るんだよ。
 ボクはキミが譫言のように呟いた「ごめん」の意味を、知りたい。








 次の日、朝のモノクマ太極拳に向かおうとストロベリーハウスの一階に降りると、左右田クンと九頭龍クン、それに田中クンが連結エレベーターの前で立ち往生しているところに遭遇した。



「あれ、おはよう。どうしたの?」

「おお狛枝か、どうしたもこうしたもねえよ、見てみろよこれ」



 九頭龍クンに促されるままに壁のパネルに目をやる。左右田クンが制御パネルの中を開けて確認しているところを見ると、どうやら何か不具合があるらしい。



「あークソ、やっぱり制御パネルがいじられてやがる」

「いじられてる?」

「おー、そのせいで安全装置が誤作動して、エレベーターが動かなくなっちまってるんだよ」



 どうやら何者かによって壊されてしまったらしい。代わりにイチゴ回廊からタワーに向かうことを提案したけれど、そちらの扉もスイッチが破壊されていたらしい。左右田クン曰く、部品の関係上直せるとしたらエレベーターのタッチパネルの方だと言うが、どう考えてもこれじゃあ七時からの太極拳には間に合わないだろう。



「何者かの邪悪な思念が渦巻いているようだな……」

「思念かどうかは分からないけれど、何らかの思惑は働いているだろうね」

「思惑? なんだよそれ」

「いや、ボクなんかが発言してさしでがましいとは思うんだけど、だってさ、これってつまり、ストロベリーハウスとマスカットハウスが分断されたってことでしょ? ということは、考えられることって、自ずと限られてくるんじゃないかな?」



 九頭龍クンが、僅かに顔色を変えた。だからボクは、困ったなと、自分にしか届かないくらいの小さな声で呟く。こんなことになるなら、さんの傍から離れるんじゃなかった。あのまま眠りに落ちたさんの手をずっと握っていたら良かった。そして、目を覚ました彼女に寄り添って、頭を撫でてあげたかった。謝らないでと。ボクはキミを嫌ったりしないと、言ってあげられたら。



「……おい、ところで弐大のヤローは、どこに行ったんだよ……」



 九頭龍クンの声にボクは目を閉じる。さんが今頃、ボクのいないところで何らかの悪意に潰されていませんように。その願いを嘲笑うように、それは響く。



「死体が発見されました! 一定の捜査時間の後、学級裁判を開きます!」 



 ボクはよろけたキミの体重を支える、木とか、そういう無機物でいいから、キミの隣にいたかった。


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