79
例えボクの脳が何かの拍子に記憶を取り戻したとしても、過去の全容の解明には程遠い。ボクは自分の瞼の裏に唐突に浮かんだあの映像すら、実のところ信用しきっているわけではないのだ。ベンチでうたた寝をしていた、希望ヶ峰学園の制服を着たさんの姿は確かに鮮烈だった。だけど、ただの白昼夢とも言い切れない。ただそれでも何となく、ボクが彼女の、さんの傍にいたという事実だけは揺るがないのではないか。どういう形であったかは想像ができないけれど、ボクにとって彼女はきっと特別だった。ボクは彼女の手を求めていた。その指を愛していた。
それは何も確信めいたものではなかった。こうであったらと言う、ボクの願望だ。
やがて目を覚ましたさんはここがボクの部屋であることに気が付くと殊更に動揺していた。ボクの名前を譫言のように呼んでいたことなんて、ちっとも覚えていないらしい。目を見開いてタオルケットを引き寄せる彼女の指は僅かに震えていて、ボクはそれに自分の手を重ねたくてたまらなかった。大丈夫だと言いたかった。もうキミを傷つけるものも、脅かすものもどこにもいない。キミを陥れようとした罪木さんだって処刑された。希望が絶望に打ち勝ったのだ。
胸のすく思いだった。キミもそうだと思った。なのに、どうしてそんな悲しそうな目をしてみせるのか。希望が、キミが勝ったのに。自分の力でさんは絶望に打ち勝った。喜びこそすれ、さんが落ち込む必要なんてどこにもない。
「彼女は希望に相応しくなかったんだよ。そんな人間に価値はない。そうは思わない?」
元気づけるために口にした。あんな人のためにキミが傷つくことはないと伝えたかっただけだった。さんは優しすぎる。だけどその優しさを向けるべき相手は、絶望に堕ちた彼女じゃない。さんはもっと自分自身を労わるべきだ。自分の体を心配するべきだ。
「希望に相応しくない人間に価値はない」
俯いていた顔をあげたさんは、ボクの言葉を口の中で繰り返すと、真っ直ぐにボクの目を見つめた。美しい瞳だった。濁りのない、晴天のような強い光を持っていたのに、どこか痛々しくすらあった。ボクなんかのために向けられて良いものではないように思えたのだ。
「価値がなければ、いらない?」
さんは、たまに訳の分からないことを尋ねる。
さんを彼女のコテージまで送り届けた後、ボクはさっきまで彼女が眠っていたベッドに腰を下ろした。皺のついたシーツを指の腹で慈しむように撫でながら、ふと、さんの左手は大丈夫だったかなと考える。あの後さんは唐突に自分の左腕を押さえて丸くなってしまった。その前髪の隙間から見えた瞳が痛みに歪んでいるのを見て咄嗟に彼女の体に触れたボクに、彼女は首を振った。大丈夫だとか細い声で呟くさんがまるで今にも消えてしまいそうに思えて、触れる手に力を込めた。結局数分後には痛みは治まったらしく、さんは泣きそうな顔で、「ごめんね」と呟いた。けれど、やっぱり心配だ。ピアノを弾かなくてはならない大事な指だ。何事もなければ良いのだけど。
ベッドに転がって天井を見上げる。まださんの温度や香りが残っているようだった。ボクは彼女が抱きしめていたタオルケットに包まって、深く息を吸う。さんの匂い、かな。よくわからないけど、そうであったらいいな。さんのことを考えると、胸がいっぱいになる。一緒にいると、酸素をいくら吸っても苦しい。
この島に連れて来られた頃から、いや、もっと言うとその前の教室から彼女は殊更ボクの目を引いた。特別な容姿をしているわけではない、どちらかというと平凡な女の子なのに、彼女の背中だけがやけに色づいて見えた。その色はさんを知る度に濃くなった。旧館の掃除を手伝ってくれると言い出したときの面持ちや、十神クンの死体を目にした時の狼狽。一度は落ち込んで動けなくなったけど、彼女はひとりで立ち上がった。花村クンが処刑されるところだって、彼女は唇を引き結んで、泣くこともなく、瞬きすらしないままにモニターを眺めていた。さんは強かった。ボクが考えているよりも、ずっと。
ボクが旧館で縛られている間、食事を運んでくれたのも彼女だ。小泉さんが死んで泣きじゃくるさんは弱々しかった。それでもボクはボクのためには決して泣かないさんを、ちょっとだけ恨んだ。なのに、ボクはそれでも、彼女を守りたいと思った。優しすぎて人を疑うことを知らない不器用なさんは、少し目を離しただけでボロボロに擦り切れてしまう。だけど、彼女が罪木さんの犯行に巻き込まれた時、皆から懐疑の目を向けられるという絶体絶命の状況でも、彼女は一人で戦えた。擦り切れたまま、一人でも、ボクがいなくても、彼女は前に進めた。
ボクは確かに惹かれていた。彼女の笑顔とか、優しさとか強さとか、真っ直ぐな瞳とか、こうしてたまに見せてくれる弱さに。という一人の人間を、ボクは見ていた。それだけは確かだった。
「……さん」
意識もしないうちに口から彼女の名前がついて出た。ボクは微睡みかけていた意識の中、どうしてだろうと冷静に考える。寝惚けた彼女に、凪斗くん、なんて呼ばれたから、感化されてどうにかなってしまったのかな。薄く目蓋を閉じたら、やっぱりそこにはベンチに座るボクとさんがいた。さんは左の手首をそっと撫でて、ボクの方を見て、首を傾げて笑った。ボクの知るさんのそれよりも、ずっとぎこちなく見えたのに、どこか懐かしい笑顔だった。
途端に胸の中で何かをせき止めていた防波堤が決壊して、壁が崩れたような気分になる。皮膚の内側から肉をまるごと削ぎ落とされたようだ。ボクはさんに手を伸ばす。だけど、ボクが伸ばしたはずの左手の、手首から先がないのだ。さんはそのまま白く濁って石化する。ボクはなくなった手首の先で動かなくなった、彼女の瞳を見つめている。
さんの温もりを残したままのベッドで少しだけ眠ったボクは、カーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました。慌てて時計を見たけれど、モノクマのアナウンスが鳴った直後のようだ。ボクは準備を整えると、そのまま朝食を摂るためにコテージを出た。ボクの左手はきちんとそこにあった。見下ろした指先を意識的に動かしてみる。痛みも違和感もない。だけどあの夢と現実の境目の中で、ボクの腕は死んでいた。
レストランに続く階段を昇って扉を開ける。既に皆が集まり始めて賑々しいレストラン内を見渡すと、さんは既に椅子に座っていた。左右田クンと話をしているようだったけれど、あの二人は最近一緒にいることが多い。ボクが絶望病に罹っている間に仲良くなったみたいだ。向かい合って座って、顔を近づけて会話をする姿をぼんやりと眺めていると、さんはボクの存在に気が付いて小さく会釈してくれた。温かい気持ちに包まれたのは一瞬で、その後またさんが左右田クンのほうに目線を戻すものだから、ボクはつい眉根を寄せてしまう。
何を話しているのだろう。気になって二人の元に足を進めた瞬間だった。左右田クンの非難がましい声がレストラン中に響き渡ったのは。
「オメーら男女の関係になってねーよな! それは許さねーからな?」
一瞬だけ静まり返ったレストラン内で、さんは言葉を失ってデリカシーのない発言をした左右田クンを見つめている。どうやら昨晩の、ボクとさんのことを彼は気にしていたらしい。そう思うと何だか言いようのない嬉しさと優越感が混ざり合って、ボクは思わず二人に声をかけてしまった。
「やあ朝から何の話?」
ボクの存在を認識したさんは途端に目を見開いて、それからみるみるうちに頬を染めさせたかと思うと、俯いたまま向かいの席に座る左右田クンの足をテーブルの下で思いきり踏みつけた。左右田クンの奇妙な悲鳴に、モノクマによる改造手術を終えた弐大クンが声をあげて笑う。ボクもつられて笑ってしまったけれど、さんは恥ずかしそうに顔を両手で覆ったまま、ボクの方を見てはくれなかった。彼女を見ていると、すぐそこにあったはずの得体の知れない不安感が薄れていく。そういう力が、彼女にはある。遅れてやって来た日向クンが、不思議そうに首を傾げた。
「なんだ、どうしたんだ?」
「なんでもないよ、日向クン。ちょっと左右田クンがね、さんにセクハラしてただけ」
「だーっ! セクハラしたのはオメーだろ狛枝!」
「やだな何もしてないよ。ねえさん」
「……」
「おいなんで無言なんだよ」
まあ、何もしてないわけではないけど。大声で喚いている左右田クンと、本気で心配している日向クン、頭を抱えて無視を決め込んでいるさんの姿を順々に眺める。
なんでもない。そう、なんでもないよ。ボクは一度深い息を吐いたあと、自分の脳裏にこびりついたままの、手首のない自分の姿をすり潰す。さんの横顔を見つめる。ああ、好きだ。好きだな。だからどうかボクを救ってくれ。あの時のように。縋るようにそう思う。
神様なんかいない。分かっている。いや、正確に言うと、ボクにとって都合のいい神様なんか、いない、だ。
だからボクは、キミだけを信じよう。キミはボクの希望だ。暗闇の中で蹲っていたボクの頭を撫でてくれた。手を引っ張ってくれた。キミだけがボクを見つけてくれた。だからどうか、聞かせてよ。
あのとき、ボクを引き摺り上げたあの音を、どうか。