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 罪木さんは呪われた女の子だ。すえたような臭いがするのだ。彼女ではなくて、彼女を操る紐の先に居る別の誰かから。罪木さんは、さんを睨みつけている。
 さんは泣き虫で、他の皆よりも賢くはない、だけど多分、本当は手放しでも歩いていられる。それは、彼女が今まで生きてきた半生によるものなのかもしれない。ボクは彼女の経歴を詳しくは知らないけれど、幼い頃からコンクールに出て、順位を競うような世界でトップに君臨していたさんは、元々プレッシャーに弱くないはずがなかった。
 彼女は一人でも生きていける。ボクはそれを思い知る。



「私は犯人じゃない」



 裁判の間中、ずっと口を閉ざしていたさんは自分自身に疑いをかけられてもほとんど反論することがなかった。罪木さんの方が終里さんを味方につけていた分、優位に立っていたと言っても良いかもしれない。だからこそ、彼女の突然の発言にボクの隣に立っていた罪木さんは表情を変えたのだ。



「……なんですかそれ」



 ほとんど無意識だったのだろう。罪木さんの口から出た言葉は、いつもの彼女からは考え付かないくらいに冷たく、低かった。やっぱりさんは何か弱みを握られていたのだ。裏切るのかと言わんばかりの眼光に、ボクはそっと目を細める。
 けれどさんも、罪木さんと同じくらいに冷めた目をしていた。初めて見たのだ、彼女のあんな目は。背筋が粟立って、腹の底からこみ上げてくる興奮や熱を必死で抑え込む。



「私は自分の無実を証明できるから」



 澪田さんの殺害に使われた麻袋は映画の特典だった。それを犯人が買ったという話は捜査の段階でモノクマが口を滑らせていたから間違いない。さんはそこに目を付けた。彼女がそれを買っていないということは、その日ずっと彼女と一緒にいた七海さんが証明できるのだ。その日の午後には麻袋がなくなっていたのを見た、ボクの証言も後押しになった。さんの説明に、今まで彼女に集中していた懐疑の目が罪木さんへ向けられる。本当に惜しかったね、罪木さん。なんて、ちっとも思ってないことを口の中で呟いた。罪木さんの敗因は、さんを相手にしたことだ。彼女の持つ希望がそう簡単に踏みつぶされるはずはないのだから。彼女の光は両手で包んだって無駄なくらいに輝いている。ずっと昔からそうだった。ボクはそれを知っていた。
 ボクの助けなんかなくたって、さんはやっぱり一人で戦えた。一人で立っていた。それをこの目で見ることができたボクは、やっぱり幸運だ。








 彼女の絶望病はボクの推測していた「絶望する病気」ではなく「思い出す病気」だったらしい。
 罪木さんはもともと絶望に堕ちた、取るに足らない人間だったということだ。彼女に対して強い拒否感を覚えていたのは、そこを敏感に察知していたせいだったのだろう。希望の象徴に相応しくない人間がこの場にいたことは残念でならないけれど、そんな価値のない彼女ももう処刑された。だからボクたちはあんな人のことなんて忘れて、希望を抱いたまま生きていかなくてはならない。
 裁判の途中で倒れてしまったさんを抱きかかえながら、ボクは一人でコテージまでの道を行く。彼女の体は熱っぽく、額には小さな汗の粒が浮かんでいた。裁判の最中、突然倒れた彼女に絶望病の影響が出ているのではないかと心配する皆の言葉を、しかしモノクマは否定した。



「言っておくけどこれはボクのせいじゃないよ! ボクは何もしてないんだからね!」



 何だか意味深長に聞こえなくもない言葉を残したけれど、ついさっきまではきちんと立って話ができていたさんのことを思い返してみると、いくら否定されたところでこの熱は故意に引き起こされたものであるような気がしてならない。



「……う……」



 眉根を寄せたさんが、ボクの腕の中で苦しそうに呻く。嫌な夢でも見ているのだろうか。さんの体は軽かった。何だかいい匂いもするし、こうやって間近で見ると、意外と睫毛が長い。肌も白いし、髪の毛も柔らかくて気持ち良さそうだ。ふっくらとした唇を見ていると何だか無性にどぎまぎして、触れたくてたまらなくなる。さすがに眠っている女の子にキスをするような不埒なことはできないけれど、両手が塞がっていなかったら指でなぞるくらいはしたかもしれない。こんなに良い思いをさせてもらっているのが申し訳なく思えた。前払いの不運は、ボクが絶望病にかかってしまったことだろうか。
 そういうことを考えていたら、あっという間にコテージに着いてしまった。さんのスカートのポケットに鍵があるんじゃないかと思い至らなかったわけではないけれど、探すためには彼女の体を弄らなければならないことに気が付く。ボクは悩んだ結果自分の部屋に彼女を連れていくことにした。一人にするのは心配だったし、目が覚めるまでボクの部屋で眠ってもらえるならその方がいいと考えたのだ。やましい気持ちが欠片もなかったわけではない。だって、好きな女の子が自分の部屋で眠っているとかそういうシチュエーションって、男なら誰しもが夢見るものだし。
 ボクはさんを自分のベッドに横たわらせると、彼女のネクタイを緩めて、タオルケットをかけた。でも、暑かったのかもしれない。さんはあっという間にタオルケットを蹴り飛ばして、右の膝を立ててしまった。スカートが重力に従って捲れる。露わになった太腿は白くて柔らかそうで、目のやり場に困った。けれど、魘されるさんを前にそれ以上妙な気を起こせるはずもなくて、ボクは彼女の額の汗を拭った後、テーブルの上に投げておいた読みかけの本に手を伸ばす。
 だけど文章を目で追っていてもほとんど頭に入ってこない。眠ったままのさんを、もう一度視界に入れる。剥き出しの膝小僧が何だか寒々しくて、いや、正直に言おうか、やっぱりなんだかどうしてもドキドキしてしまって、ボクは無意識に彼女の体に手を伸ばしていた。妙な気を起こせないだなんてごめん、前言撤回だ。汗ばんだ彼女の太腿に手の平が吸い付いて、ボクは息を飲む。心拍数が徐々に上がっていく。いつもそんなに汗なんかかかないのに、彼女の体に触れた部分からじんわりと熱を持っていくようだった。這わせた指を僅かにさんの肌になぞらせる。



「う」



 唇から漏れた彼女の短い声にボクは咄嗟に手を引っ込めた。起こしてしまっただろうか。そっとさんの顔に目線を送る。けれどさんの瞼はしっかりと閉じられたままだった。煩わしそうに寝返りを打った彼女に背中を向けられ、ボクは今度こそ、長く息を吐く。その瞬間だった。
 聞き間違えたのかと思った。ボクのため息が彼女の寝言と重なって、幻聴を聞かせたのかと。ボクは頭を抱えて蹲ってしまいたくなった。それくらいの痛みがそこにあった。この前の、辺古山さんの裁判が終わった後にあったあれの比ではない。ボクは確かに壁に罅を入れられた。ボクが守ってきた大切な宝物が入った箱のある、小さな部屋の、ボクではない誰かが勝手に作った分厚い壁を。
 他でもない彼女に。



「凪斗くん」



 彼女はそう呟いた。完全に寝言だった。鳩尾に蹴りをいれられたような気分だった。瞬きをした瞬間、暗闇に像が浮かんだ。
 白木のベンチに座っていた彼女は目を閉じていた。こんなところで寝たら風邪をひくよと笑いながら肩に手を触れた瞬間、彼女は目を覚ます。「凪斗くん」あの時もキミはボクの名前を、眠たげな声で呼んだね。


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