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 さんは死体発見アナウンスが鳴ってからずっと、どこか落ち着かないような表情をしていた。だけど彼女はひょっとしたらボクの知らない、もっとずっと前からそういう心地でいたのかもしれない。病に罹って前後不覚だったボクにはそれが分からない。
 妙な目をするものだと思った。澪田さんと西園寺さんが殺されて、悲しむのなら分かる。小泉さんの時のように、泣き出すのなら理解できるのだ。だけど彼女は唇を引き結んで、どこか後ろ髪を引かれているかのような、何かに追われているかのような息遣いで日向クンから事件の概要を聞いていた。彼女なりに腹を括ったと考えるべきなのだろうか。積極的に事件に関わろうとしている彼女を成長したと喜ぶべきなのか。さんの横顔を網膜に焼き付けるように見つめる。長く黒い髪の隙間から見える彼女の瞳が、窺う様にステージ場に横たわる澪田さんの死体に向けられたのを見て、あ、違うなと、ボクは思った。
 ここ数日のボクは、絶望病とかいう最低な病気に罹ってしまっていたらしい。その間の記憶はほとんどないけれど、さんは目を覚ましたボクの傍にいてくれた。だけど、それは普段の彼女の様子とは明らかに違っていた。彼女は酷い顔色をしたまま、ボクの服の裾を弱々しく握りしめた。彼女は自分の足元ばかりを見つめていたのだった。
 様子がおかしいと言えば、遺体の検死を行っている罪木さんもそうだ。彼女ほど人体に詳しい人間はいないだろうに、ボクですら気が付いた死体の違和感を彼女は指摘しなかった。あえてそうしたのだろうか。犯人によって現場の温度が操作されていたせいだと罪木さんが言うのを、ボクは反論もせずに聞いている。
 ライブハウスで粗方の捜査を終えたボクは映画館へと向かうことにした。この事件はモノクマが作った例の映画に見立てているようだったし、あの映画を観ていない日向クンにも確認してもらう必要があったのだ。検死を続ける罪木さんと、死体の保全のために残ると言い出した終里さんを置いて、他の皆もライブハウスを出ていこうとする。そんな中、罪木さんがさんを呼び止めた。「さんは私のお手伝いをしてくれませんか?」と。
 振り向いて二人を見る。青を通り越して白くなった顔で、さんは死体の傍に座り込む罪木さんを見下ろしている。








 映画を最後まで見終えた日向クンは、ボクが病に侵されている間、さんはずっとモーテルで過ごしていたと教えてくれた。ならばこそ、病院に居た罪木さんと接点があったとは思えない。



「俺がそうしろって言ったんだよ」



 その言い方が気にかかったけれど、彼はそれ以上口を開く気はなさそうだったので、尋ねることはやめた。感染の拡大を防ぐためのモーテル組にいながらも、さんはボクの容体を気にしてくれていたと言う。日向クンも気が付かないうちに病院に忍び込んでしまうくらいには。



がいつからお前の病室に居たのかは聞かなかったな。お前は覚えていないのか?」

「あはは。覚えていたら苦労はしないんだけどね」



 さんは事件に巻き込まれているらしい。そしてどういうわけか、彼女は犯人を知っている。そんなの、さんの様子を見ていれば分かることだった。犯人が分かっているにも関わらず、身動きが取れなくなっている。彼女は恐らく犯人の、罪木さんの張った糸から抜け出せない。
 罪木さんは絶望に蝕まれていた。恐らくボクたちを看病しているうちに、絶望病に感染してしまったのだろう。ボクが推測するに彼女が発症した症状は、「あらゆる希望に絶望し、絶望に魅入られる病」だ。ボクの看病をしてくれていた彼女の濁った大きな瞳が、呟かれた呪いの言葉が、病に冒されたボクの夢でないとするならば、の話だけれど。
 しかしボクは、あれが現実ではなかったとはどうしても思えないのだ。彼女のさんを見つめる瞳が、ボクの目に焼き付いている。不純物の中に沈む泥を集めて作ったような、そういう目だった。朦朧とするボクが見たそれと重なった。罪木さんは、もうボクたちの知る罪木さんではない。それだけは、疑いようのない事実だった。
 さんは何か弱みを握られてしまっているのかもしれない。絶望病に罹っていたボクは、事件が起きた頃二人の間に何かがあったとしても正確にそれを知ることはできない。ボクの記憶は、ところどころ途切れたり勝手に脚色されていたり居もしない人がいたり、浮遊する一点の視点からだったり、全く信頼できるものではなかったのだ。しかし、そんなボクがどんなに想像力を働かせてもさんが罪木さんの言いなりにならなければならない何かがあるとはどうしても思えなかった。それくらい、二人には接点がないように思えたのだ。
 さんは一体どうしてしまったのだろう。希望を失くした人間なんて、足蹴にしていれば良いのに。誰よりも美しい希望を背負っているキミにはそうするだけの権利があるのだ。どうしてあんな不安と恐怖の染み込んだ瞳で、罪木さんを見つめていたのだろう。ボクにはそれが分からない。








 裁判が始まっても、さんが口を開くことは無かった。罪木さんの発言に、反応らしい反応を見せることすらも。ただじっと黙って、目線を下げて、皆の議論を聞いていた。彼女は罪木さんに見えない首輪でもつけられてしまったのだろうか。それは果たして希望なのだろうか。そんなはずはない。さんは引きずられている。彼女の作り上げた絶望の溝に片足を沈めている。
 さんの前髪の隙間から僅かに見える瞳を見つめた。このままだと彼女が罪木さんに犯行をなすりつけられることになるのは間違いない。罪木さんはそれが狙いだったのだろう。言葉巧みに、自分が犯人ではないと周囲に刷り込ませるような印象を随所に織り交ぜるその発言は、見事の一言に尽きた。ただでさえ今まで罪木さんが積み重ねてきた人物像と言うものがあるのだ。お人好しな彼らが、気弱な彼女が殺人など犯すはずがないと考えてしまうだろうことは容易に想像がつく。そして、代わりにアリバイのないさんが彼女の盾にされてしまうことも。
 彼女を救うのは簡単だ。ボクの知っていることを全部話せば良い。罪木さんが絶望病の影響を受けていることや、自分の犯行を隠すために絞殺された澪田さんを自殺だと断定したことを、その証拠と共に皆の前で指摘すれば二人の形勢は簡単に逆転する。それくらいの説得力はある。
 視界の端で、さんは相変わらず自分の両手を見下ろしたまま耐えるように俯いていた。ボクはそれを見て、小さく息を吐く。守ってあげたいと思っている。袋小路に迷い込んだ彼女を救うのはボクであるべきだし、さんに泣いて感謝されるのはやっぱりどう考えたってボクじゃなきゃ困る。だけど、同時にボクはキミの希望が見たいのだ。誰よりもキミの輝きが見たい。追い詰められた先でキミがどんな刃を見せるのか、ボクはそれが見たくて、頭がおかしくなりそうなのだ。ここでそれが見られるかもしれないと考えただけで、胸がどきどきして頭の真ん中から震えて鳥肌が立って、泣いてしまいそうになるんだよ、さん。ボクはやっぱりおかしいのかな。
 議論は進む。さんは殊更ゆっくりとした瞬きを一つする。指先が震えていたのは、ボクだ。



「あの時間に、病院の会議室であの映像を撮影できたのは……」



 日向クンが一度その目を力強く閉じた。ボクは代わりにさんの一挙一動を見逃すまいと、瞬きをやめる。さんが顔をあげた。真っ直ぐボクのことを見つめてくれたから、ボクはキミを、心の底から大切だと思う。好きだと思う。震える指を抑えるように握りしめた。短い爪が食い込んだ。さんの瞳が、射抜くように、罪木さんに向けられる。



「罪木との二人だけだ!」



 キミは本質的には、一人でも立っていられる人だ。ボクは既にそれを思い知っている。だけどもう一度キミに触れさせてくれないか。その美しい左手に。ボクにとっての確かな希望に。どうか。


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