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 さんに嫌われてしまったのかもしれない。
 映画館で出会えた時は自分の幸運に感謝したくらいだったのに、さんは酷い顔色で、ボクの視線から逃げるように七海さんの陰に隠れてしまった。そういえば朝にレストランで会った時も挨拶を返してもらえなかった気がする。調子が悪いのだろうか。或いは。
 一緒に映画を観ないかと誘ったのは良いけれど、弱々しく首を振られてしまえばそれ以上の無理強いは出来なかった。彼女のことは気にかかるけれど、それでもさんたちの後ろ姿を見送るボクの胸はとても温かくて、その中で柔らかな綿毛が増殖していくようだった。さんの肩甲骨あたりまで伸びた黒い髪の毛が風に揺れている。こっそり鋏で切ってお守りにしておきたい。なんて、勿論口にはしないけれど。だけどさん、ボクはキミのことをもっと知りたい。
 一人寂しく絶望的につまらない映画を鑑賞し終えると、シアターを出たところで日向クンと出会った。眉根を寄せてボクを見つめる日向クンは酷くうんざりした表情を浮かべてはいたけれど、ボクよりもずっと経験豊富そうな彼だ。こんな情けないボク相手でも何か良いアドバイスをしてくれるに違いない。



「ところで日向クン、どうしたら女の子って喜んでくれるのかなあ」



 けれど、さんの名前を出した途端、彼は言葉を失ってしまった。ひょっとして彼もさんのことが気になっていたのだろうか。そうだったら困るな。彼女のことを気に入っているのはボクだけで良い。そう思ってしまう時点で、これが執着を超えた呪いのような感情であることをボクは察した。普通に考えれば、ゴミクズのようなボクよりも彼女に相応しいのは日向くんだ。なのに、二人が並んで歩いている姿を想像するとそれだけで嫌になる。この独占欲の理由を、ボクは知らないままだ。
 結局日向クンは口を閉ざして、何も話をしてくれることはなかった。さんたちが去っていた方へ歩いていく日向クンの後ろ姿は、どこか憤っているようにも見えた。








 さて、三番目の島では随分と悪趣味な冗談が準備されていた。電機街のパソコンの一つに、妙なファイルが残されていたのだ。「人類史上最大最悪の絶望的事件について」と銘打ったそのファイルにざっと目を通したけど、あんなの現実に起こりうるはずがない。希望ヶ峰学園の生徒による武装蜂起を切っ掛けに世界中に絶望が広がっていった、なんて、馬鹿馬鹿しい冗談だ。その文書によると、閉鎖に追い込まれた希望ヶ峰学園で生き残った生徒達も、見せしめとして殺し合いを強いられたそうだ。何一つ笑えない。ボクたちの学園生活の記憶が失われているからと言ったって、こんなつまらない作り話は興醒めだ。
 だけど、どうしてだろう。ボクは得体の知れない沼に入り込んでしまったような気持ちになっている。誰かの手を繋いでいたはずだったのにそれは切り落とされた手首で、ボクは自分が一人きりだったことを知る。誰の物かもわからないその冷たい手を握りしめたら、手首は砂になって消えた。その先でボクは大切な人を失ってしまったような気がしていた。
 電機街から立ち去ったボクは、この焦燥感にも似た苛立ちを飲み込むために、もう一度映画館に戻る。一人になりたかったのだ。敷き詰められた絨毯は足音すらも飲み込む。椅子に座った瞬間、モノクマが作ったという映画の特典グッズがなくなっていることに気が付いた。あの後誰かが購入したのだろう。買わされたのか、自分の意志で購入したのか。いずれにせよ、そんなことは些事に過ぎない。吐いたため息が震えていた。どうにもならなくて、ただ彼女の横顔を思い出す。あの砂になった左手が彼女のものであったような気がした。それが恐ろしくてたまらなかった。








 希望がそう簡単に世界からなくなるはずがない。
 ボクたちが今いるこのジャバウォック島でも、超高校級の彼らの希望は確かに輝いて、日に日に勢いを増している。ボクはその光景をこうやって見ていられる。素晴らしい気分だ。大切な存在だった辺古山さんを失うことになった九頭龍クンも、切腹をしてまで西園寺さんに謝意を見せた。以前の彼だったら考えられない行為だ。彼らは成長している。その希望を静かに増幅させている。ボクはそう信じている。だから、あの手首は忘れよう。あれはあの子のものではない。



「ねえさん。ちょっといいかな?」



 床に広がった九頭龍クンの血を掃除していたさんに背後から声をかけると、彼女は殊更びくりと背中を震わせた。彼女と向かい合って雑巾を手にしていた七海さんはボクと目が合うと、気を利かせてくれたのか、少し不自然なくらいに急ぎ足でその場を去る。さんは困惑しているようだったけれど、これでボクたちは二人きりだ。ボクの中で燻り始めている不安の種を、彼女はきっと踏みつぶしてくれるに違いない。根拠もなくそう思う。
 さんは、どこか怯えたような色を残した瞳でボクのことを見上げている。やっぱりさんは可愛い。女の子らしい外見に、ちょっと力をいれたら呆気なく折れてしまいそうな体、なにより手が綺麗だ。すべすべして、白くて、柔らかそうで、本当は今も触れたくてたまらない。
 一歩歩み寄ると、反射に近い形で彼女は距離を取った。もう一歩近づく、同じ歩幅で離れていく。彼女に避けられているような気がしていたのはどうやら勘違いではなかったようだ。それでもそんなことくらいでいちいち傷ついていられないボクは、さんを壁際に追いやってしまおうと考えた。これなら最終的に彼女は逃げ場を失うし、ボクは彼女の傍に行けるし、一石二鳥だ。
 と思ったのは良いものの、ボクの思考を読み取ったのか、最終的にさんは逃げるのをやめて両手を目の前に突きだした。どうやらここから先は立ち入り禁止らしい。勘の良い彼女に思わず「あっ残念」と呟くと、さんは複雑な表情を浮かべた。その上、せめて隣同士で座ろうとボクが引いた椅子には目もくれず向かいの椅子に腰掛けたものだから、ボクはがっかりしてしまう。



「何でそっちに座るの?」



 さんは考え込むように目線を下の方に向ける。その白い両手が、もじもじと忙しなく動くのを見て、ボクは嫌なことに気が付いてしまった。彼女のそれは、幻の中で砂になってしまったあの手にとても良く似ていたのだ。ボクの体のどこかにある大切な部分に亀裂が入る音がする。けれど、それに気が付くよりも先に、さんが口を開いた。



「……また、ああいうことやられたら嫌だから……」



 ほんのり頬を染めたさんは、小さく唇を尖らせて、消え入るような声でそう言った。だけど、彼女の言う「ああいうこと」がすんなり思い浮かばないボクは、思わず首を傾げる。ああいうこと。なんだろう。何か彼女に変なことをしただろうか。考え込むボクに戸惑うさんのその手がぎゅっと握りしめられたのを見て、それでようやくボクは思い至るのだ。



「……ああひょっとしてこの前のアレのこと? キミの手を舐め」

「良いの言わないで!」



 そんなに恥ずかしがるようなことだっただろうか。さんはボクの視線から逃れるようにその赤く染まった頬を両手で覆ったけれど、最終的には机に突っ伏してしまった。
 あの時ボクは、とても嬉しかった。ボクの言葉に惑わされて泣いてしまったキミが愛おしくてたまらなかった。むしろあれくらいで済んで良かったくらいだ。つい口元から笑い声が漏れてしまったボクに、さんはそのままの姿勢で唸るように呟く。



「なんで笑うの」

「いや、最近避けられているような気がしてたんだけど、ボクのせいだったんなら仕方ないなって」



 前髪の間から見える大きな瞳も長い睫毛も、通った鼻筋も柔らかそうな唇も、ほんのり染まった頬も、全てが輝いて見えた。ボクはキミを見ているだけでとても穏やかな気持ちになる。幸せという感情はもうずいぶん昔に失って、忘れてしまったような気にすらなっていたけれど、きっと、胸が豊かな水で満たされるようなこの感覚こそが、そう呼ぶに相応しいものなのだろう。
 さんがゆっくりと瞬きをする。やっぱり思った通りだった。ボクの不安を消してくれる。温かい気持ちにしてくれる。ボクは彼女の傍に居たい。彼女の希望を見たい。これは他の皆に向けていた愛とは決定的に違う。どうしてだろう。理由なんてわからないのに。



「いつか、キミのピアノが聞きたいな」



 だからどうかもう一度、あの椅子に座るキミをすぐ隣で見せてほしい。



「きっと希望に満ち溢れた、素敵な演奏なんだろうね」



 あの椅子って、もう一度って何だよ。ボクの疑問に答えてくれる人はどこにもいない。
 さんは、ボクの言葉に泣き出しそうに目を細めた。ボクはキミが大切だ。ボクの手の中で息をしていてほしい。誰にも傷つけられないまま、ボクの砂漠にいてくれ。この嵐のような原動力がどこにあるのかは、分からない。ボクは切り落とされたあの左手の正体を知らない。だけどこの感情を、きっと人は恋と呼ぶのだろう。


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