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小泉さんを殺した犯人が辺古山さんだということにはすぐに気が付いた。
ボクが皆の部屋で採取したとある人物の足跡と、砂浜に残された犯人のものと思われる足跡は見事に一致したわけだけれど、ボクはそれが誰の物であったかなんて一言も漏らしてはいなかったのに、彼女は早々に西園寺さんのものだと断定したのだ。辺古山さんが端から彼女を犯人に仕立て上げようとしているのは、明らかだった。
さて、辺古山さんはどんな希望を見せてくれるのかな。ボクは期待に胸を膨らませていたはずだったのに、気が付いたら彼女の隣にいるさんの方ばかりを視界の中央に置いてしまっている。
さんは終始青白い顔で唇を引き結んでいた。彼女は最後まで犯人が辺古山さんだとは思い至らなかったのかもしれない。自分を道具だと言い張る辺古山さんの手を握って泣き出したさんは、痛いほどに真っ直ぐだ。彼女を見ているとボクは酷く不安になる。だけどそれと同時に、そういう彼女のひたむきさを愛おしいと思うのだ。
辺古山さんの首に鉄の輪がかけられた瞬間、さんの悲鳴と九頭龍クンの金切り声にも似た叫び声が裁判場に響いた。ボクは瞬きの一つもせずにそれを見ていた。辺古山さんも、もしもボクに声をかけてくれていたらこんな消化不良な終わり方にはならずにすんだだろうに。惜しいものだ。ほとんど突発的な犯行だったわけだし、仕方ないか。
しかし一層不思議なのは、さんだ。殺されたのはさんとも仲の良かった小泉さんだったのに、彼女はどうしてああやって、辺古山さんのために泣くのだろう。辺古山さんの処刑が決まった瞬間、彼女を守るために駆けだした九頭龍くんの背中を、ボクは感慨もなく見つめているはずだったのに、なぜか喉の奥が焼けるように痛んだ。さんの瞳から大粒の涙が落ちる。彼女はまたボクではない別の人のために泣いている。最近のさんは泣き虫だ。嫌になる。
裁判が終わった後、さんはコテージに戻らなかった。ホテルへ向かって一人で歩いて行った彼女が気にかかって、迷うことなく追いかける。彼女はボクが監禁されていた旧館の、丁度入口にある階段部分に座っていた。俯くさんに「大丈夫?」と声をかける。
返事がないのをいいことに、ボクは彼女の隣に腰を下ろした。べたつく空気を纏った夜の気配に目を細めて息をつくと、さんはボクの気配に、僅かに肩を震わせた。
彼女はきっと一人になりたかったのだろう。思い出に浸りたかったのか、ただ静かに泣きたかったのかは分からない。だけど、そうして縮こまる彼女は、酷く小さく見えた。
「……狛枝くんは、どうしてここにいるの?」
「さんがコテージを通り過ぎる姿を見かけたから、かな?」
「私に何か用?」
今のさんにとってボクは邪魔者らしい。彼女から向けられたことのない棘を含んだ言葉に、ボクは一瞬面食らう。用事。そうだな、改めて言われるとどうしてボクはさんを追いかけて来たのだろう。それは何も今この瞬間の話だけではない。ボクは訳も分からないまま、理由も思い至らないままに彼女のことを気にかけている。少し考えて正解が思いつかなかったボクは「用事がないとキミの傍にいちゃいけない?」と尋ねることにした。さんの困ったような、どこか苛立ったような素の表情に、不思議と胸が躍る。ボクは自分が思っている以上に性格が良くはないらしい。
さんは、この島で生きていくには随分と頼りなかった。それは彼女の希望が他の人よりも弱いという話ではない。彼女は優しすぎたのだ。その脚が酷く震えているのが分かる。仲間同士が殺し合う異常な状況に彼女のような人間が耐えられるわけがなかった。
ここで抱きしめたら、怒るだろうか。頭を撫でるとかでも良いんだけど。そう考えながら頬杖をついて彼女の顔色を窺う。さんは、今、何を考えているのだろう。彼女の頭の中が覗けたら良いのに。ついでにボクのため以外では感情の左右されない人形になるように、脳をいじくれたら良い。そういう物騒なことを考える。それが危険な思想だってことくらいは、さすがのボクも分かっている。だけど、本当にさんがボクのものになってくれないかな。ボクだけにいろんな顔を見せてほしい。そしたらボクはとても幸せなんだけど。
「狛枝くんは」
不意に、押し黙っていた彼女がボクの名前を呼んだ。その瞬間だった。ボクのどこかにあるスイッチが一つだけ、乱暴に押されたような気がした。ばちんと、静電気のような痺れが体中を走った。咄嗟に目を見開く。
影が揺れている。瞬きをしたらさんがボクのことを見上げていた。ボクみたいな石ころに向けるには真っ直ぐすぎるその目が、本当は痛くてたまらなかった。耳を塞いで目を閉じて丸くなっていたかった。葛藤だった。他の人ではなくボクを見て欲しかった、ボクのために感情を動かしてほしかったくせに、なのに、本当は、ボクはキミに見つめられる度に、泣きたくなるのだ。揺らぐ影が、そうだったねと静かに頷く。
「狛枝くんは、まだ、希望のために死にたいって、思ってる?」
さんの震える声が、美しい瞳が、少しだけ癖のある柔らかな黒髪が、白い指先が、全部まとめてボクのものになってくれたら良かった。そしたらこんなに疲れなくて済んだ。さんがどうしたら傷ついて泣いてボクを愛してくれるかなんてそういうことばかりを考えなくて済んだ。
今しがたさんの口にした「希望」が、さん自身を指しているようにすら思えて、笑いがこみあげてくる。ボクを掬い上げたキミのためにボクは死にたいと、そういえば、昔からそう思っていたような気がするのだ。湧き上がってくる高揚感に身を委ねる。希望。希望のためなら、そう、キミのためだったら、ボクは死んだって良いや。
「希望のためなら、ボクは喜んで犠牲になるよ」
その言葉に、キミはとうとう顔を歪めた。眉を下げて、一度大きく目を閉じて、そうして泣いてくれた。ボクのために泣いたのだ。やっと、やっとだ。嬉しくて体中の血管が笑った。全身の毛が逆立ったような、或いは絶頂にのぼりきったような、そんな高揚感にも似ていた。
「……なんでキミが泣くの?」
声を押し殺して泣くさんはボクの望んだ、ボクの欲しかっただ。こうしてくれれば良かったのに、あの時だって泣いてくれていたら、ボクはきっとキミの隣にいた。ボクに縋りついてくれていればボクはキミを諦めることをやめた。でもあの時っていつだ。
さんの瞳からは後から後から涙が流れて、彼女の細く白い手首にだらしなく垂れていく。ボクはそれを見て、自分の中に生じた疑問を奥の方に押し込めた。それでも、爽快感だけは隠しようがなかった。
ボクは死にたかったのだ。あの時燃え盛る飛行機の残骸の中で一人生き残ったことに何か意味があるとするならば、それは、きっと世界中の美しいものを集めるためだったんじゃないかと思う。ボクは希望がほしかった。ボクを覆う絶望から救い出してくれる手首がほしかった。あの冷たい骨が埋まる泥の底でボクは光ばかりを求めていた。ボクを助けて、ボクを見つけてくれ。そうやって蹲るボクの耳に響いた鐘が、キミのピアノだった。だからボクは、キミが欲しかったのだ、さん。
思い出せないけれど、ボクはきっとキミを知っていた。キミのピアノをずっと隣で聴いていた。
ぐしゃぐしゃに濡れた彼女の指を舐めた、塩辛くて柔らかかった。赤くなった頬はふやけたみたいに温かかった。キミに会いたかった。キミの後ろ姿が遠かった。届かないから諦めたんだ。
「さんは、よく泣くんだなあ」
世界中を探してもキミと同等の輝きを見つけられなかった。さんが丸い目を見開く。
「ボクはキミの、そういう不安定でひたむきな希望がすきだよ」
歪みに呑みこまれたボクを、キミはそれでも見つけてくれた。
「殺されるんだったら、キミがいい」
だから、今度はキミを諦めたくないんだ。そう思うボクをどうか、許してくれ。