73
さんの揺らいだ瞳はじりじりとボクを追い詰める。
「あの、掃除、そう、掃除を、ですね。やっぱり狛枝くん一人じゃ大変かなあって、思って……」
島に来てから三日目の朝だった。親睦を深めるためにパーティを行おうと提案したのは十神クンで、ボクは会場である旧館の掃除を任されていた。ボクの望んだ通りの結果だった。さんが準備のための道具を抱えるボクの前で気恥ずかしげに指を組む。
しげしげと彼女を見下ろすボクに、さんは不思議そうに首を傾げた。不安の色を滲ませたその目が揺らいで、ボクは自分の中にある感情の塊を、目の前の名前しか知らない彼女に包んでもらったような気持ちになる。胸のあたりで交差した白い指は、美しい。
「ありがとう。でも、ピアノを弾かなくてはいけないキミの大切な指に何かあったら困るから、掃除はボクが一人でやるよ」
今夜殺人事件が起きるよう準備をするため、一人になる必要があったためでもある。だけどボクの不運に巻き込まれて、彼女の指に何かあったら嫌だなと思ったのだ。これは嘘じゃない。
ボクはキミの指が好きだった。骨や関節の形、生来の薄桃色をした爪の先がいつも丸くなっていたこと、傷一つない手の甲、時折無意識に両手の指を合わせて伸ばす、染みついた癖。そのままでいてほしかった。汚れを知らないでいて欲しかった。こんなボクはキミに触れる権利を持たない。キミはただ、その透明で安全な膜の中で笑っていてほしい。
できれば、ボクのためだけに。
十神クンが死んだ。
殺されるはずだったボクを押しのけて、十神クンは床下から突き出された鉄串に何度も突き刺された。血だまりの中うつ伏せになった十神クンは、もうその指先すら動かすことはなかった。
さんが今にも泣き出しそうな顔で大広間を出て行ったその後ろ姿を、ボクは黙って見送っている。あまりにも悲壮な顔をしていた。ひょっとしたら彼女は彼のことが好きだったのかもしれない。だったら悪いことをしてしまったな。そう考えた瞬間、何故だかお腹の奥が重くなった。
現場となった大広間での捜査を終えても戻らない彼女が心配になって廊下に出てみると、さんは隅っこで蹲って、折りたたんだ膝に顔を埋めていた。それだけなのにやっぱり彼女の周囲は輝いて見えるのだ。彼女の黒い髪が、その制服に流れるように落ちている。
「さん、大丈夫?」
彼女を見ていると、足の裏からじわじわと熱が伝わってくる。その熱が頭のてっぺんに来る頃、ようやくボクはそれが一種の高揚感だと気がついた。襲ってくる眩暈と動悸に嫌気が差す。瞬きの度に頭の奥に痛みが走る。顔をあげることのない彼女の白い指先が微かに動くのを、視界の端で見つめている。ボクは、それが酷く美しいもののように思うのだ。
泣いているのだろうか、そう思った瞬間、苛立ちと不安と焦燥感が同じ量だけ混ぜられたような不快感が胸の内にこびり付く。同時に、ぞくぞくしているのだ。さんに泣いてほしくないと嘯きながら、その実ボクは彼女の泣き顔が見たくてたまらない。
無理をしないで休んでいたら。そういう耳触りの良い言葉だけを吐き出したボクに、しかし顔をあげたさんは、前を見据えていた。力強くて真っ直ぐな、射抜くような瞳だった。彼女の頬には涙の痕もなかった。こんなに泣き出しそうな顔をしているくせに、目の淵も睫毛も、からからに乾いていた。自分も一緒に捜査に行くと言い出した彼女は、立ち上がった傍からふらついてよろけた。咄嗟に腕で支えたら、さんは少しだけ目を見開いて息を呑む。彼女はこんなにも弱々しくて、他の皆よりも危なっかしいのに、それでも一人で立って歩こうとしている。
「それでこそ、希望の象徴として選ばれたさんだよ」
瞼の裏で点滅を続けている白い光の先で、彼女はボクの知らない笑顔を浮かべている。
ボクはいつ死んでも良いと思っているのに現実はそう上手くいかない。本来ならばあの旧館で死んでいたのは十神クンではなくてボクだったはずなのに、ボクは今もこうしてのうのうと生きている。
殺してもらうつもりだったのだ。ボクを踏み台にして皆の希望が輝いてくれるなら、こんなに良い死に方はないと思った。皆はボクという犠牲を乗り越えて前に進む。それなのに結局死ねなかったボクは、贖罪のためにも犯人である花村クンが上手く立ち振る舞えるよう手を貸すことにした。
「ボクは死んでもかまわないから、花村クンは逃げのびることに集中して」
裁判前、そう耳打ちしたボクを、彼は神様に向けるような目で見つめた。 もしも彼がこの裁判を乗り越えられたら、花村クンを残して皆死ぬ。勿論ボクも、彼女も。だけどそれで良いと思ったのだ。さんの後ろ姿だけがボクの髪の毛を方々から引っ張っていたけれど、ボクは目を瞑ってキミのことを忘れようとする。キミの背後にある謎の煌めきを、見なかったことにする。
と言っても結局、花村クンはボクの期待するような希望を持ち得てはいなかった。「どんな絶望にも打ち勝つ絶対的な希望」に、彼はなれなかった。そこまでの人間ではなかったのだ。だから、切り捨てた。だったらこんな彼より他の皆が生き残るべきだと思った。生きて、その希望をさらに美しく輝かせるべきだ。そしてボクは、皆の希望の行く末を見届ける。きっとそのためにボクは死ななかったのだ。だから、やっぱりボクは幸運だった。
花村クンが処刑されるその瞬間を大きなモニターを通して見つめていた彼女は、他の皆のように泣き出すことも震えることもなかった。真一文字に結んだ唇を、力いっぱい噛みしめて、襲ってくる感情の波に耐えているようであった。
ボクはキミに、ボクの持っていないものを見せて欲しいと思っている。理由はわからない。何故ボクがこんなにキミに執着してしまうのか、ボクにはそれがわからない。だけど、ボクはさんに、ボクのために笑ってボクのせいで泣いてほしいと思っている。
だから、キミは十神クンが死んだとき、泣き崩れるべきだった。花村クンが処刑されたとき、立ち直れなくなるくらい分かりやすく傷つくべきだった。ボクが原因となったこの事件で、キミは声をあげて泣けば良かったのだ。
さんのだらりとぶら下がった、ボクはその指に触れたくてたまらない。
だけど、ボクなんかが簡単に触れていい代物ではないよね。ボクは身の程を弁えているから、彼女を守るだとか、彼女の傍にいたいだとか、そういう図々しいことは考えないんだ。ただキミは、ボクに、ボクのためだけに、笑ったり泣いたり怒ったりしたらいい。それならキミがどこに行ったって誰を愛したって、文句は言わないからさ。ね。