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 新世界プログラムの定員を強制的に一人分増やす作業は、滞りなく完了した。



「じゃあ、いってらっしゃい、さん。くれぐれも気を付けて」

「……うん、苗木くん。頑張ってくるね」

「むしろさっさと行きなさいよ……清々するわ」

「うん腐川さん、気を付けるね。ありがとう」

「そ、そんなこと言ってないでしょ」

「にしても寂しくなるべ。まあ、ちゃんと外から見てるから安心しろよ」

「アンタが言うとセクハラ発言みたいなのよ……」

「な、なんでだべ!」



 中央の巨大な機械から伸びる太いコードの先には、人ひとりが入れるほどのカプセルが円を描くように並べられている。半透明の扉の先で目を閉じる十五人の人影は、当分動くことはない。
 中央にあるモニターには、希望ヶ峰学園の教室で不安そうにしている彼らの姿が映っている。私も早く行かなくてはいけない。スピーカーから霧切さんの声が響く。「そろそろ準備をして、さん」苗木くんと腐川さん、葉隠くんに別れを告げ、三人の背中が室外へ出ていくのを見送った私は、ふと、自分の入る突貫で作られた簡易式のカプセルの対角線上にあるそこで眠る彼を見た。お腹の上で組まれた指の先の赤を、私は見つめる。



「おい」



 不意に背後から声をかけられた。振り向かなくても、それが十神くんのものであることを察した。苗木くんたちと入れ違いで入ってきたのかもしれない。かつ、と、固い靴音が私の隣で止まる。



「十神くん」



 カプセルを挟んで見上げた彼は、眉を寄せて私を見下ろしていた。だけどその奥にあるものを、私は既に理解している。
 高圧的な人だと思っていた。第一印象は良くはなかった。私に幻滅したと、初対面から吐き捨てられた時の衝撃は簡単には消えてくれない。指の動かない私の演奏を「落ちた」と言った。惨めだと言った。だけど私は彼の本心を、知っていた。一人になった私を、いつも遠くから見守っていてくれた。抱きしめてくれた、叩いてくれた、私の手を握り返して、きっと泣いてくれていた。だから、応えられない私は、彼に酷いことばかりをしてきた。
 ありがとうとか、あなたがいたから絶望せずにすんだとか、きっと彼はそういう言葉を望んではいない。霧切さんの、急かす声が届く。もう始まってしまうと言う。だから私は、彼に向かって微笑んだ。それしかできなかった。



「いってきます、十神くん」



 十神くんは少し躊躇ったように視線を下げてから「行って来い」と言った。全ての感情を押し殺したような。低い声だった。








 カプセルの中から見る天井は無機質で冷たかった。海鳴りのような音が聞こえる。自分の心音が響く。催眠システムが作動する。やがて柔らかな微睡みが訪れる。凪斗くんの後ろ姿が、暗闇の中でぽっかりと浮かんでいた。
 音を立てて、私の中に積み上げられた記憶が崩れていく。ジャバウォック島に向かう船の上から見た海が綺麗だったこと。苗木くんを困らせたこと。罪木先輩の瞳に浮かんだ絶望の色。未来機関として活動した日々のこと。奪われた記憶を取り戻すために受けたカウンセリングを、七人で歩いた荒廃した外の世界を、江ノ島盾子を、殺し合ったことを、死んでいった仲間を、希望ヶ峰学園での学園生活を、出会った皆を、凪斗くんを。私は、失おうとしている。
 急に怖くなって、徐々に小さくなっていく凪斗くんの後ろ姿に手を伸ばした。彼の体は、私の腕ごと暗闇へ落ちた。








 問題なくプログラムが作動したのを見送った。は上手く「新世界プログラム」に入れたようだ。中央にある巨大なモニターの中では、仮想の希望ヶ峰学園の教室で、彼女が他の連中に紛れて間抜けな顔で教壇に立つ監視者のウサミを見つめているのが見て取れる。
 半透明の扉を一枚隔てたその先で目を閉じる彼女は、もう俺の名前を呼ぶことはないだろう。目を覚ました後、全てを失ったはきっと二度とあんな風に微笑んではくれない。既に断ち切ったはずの思いが胸を黒く浸食していくのに気が付いて、そっと、彼女の頬に手を伸ばした。安っぽいプラスチックのカバーに遮られる。



「……



 黒く長い睫毛はぴくりとも動くことはなかった。ゆっくりとカプセルに顔を近づける。額が扉に当たった。我ながら情けない。これが十神白夜とは、聞いて呆れる。心が千切れたようだった。が遠い、こんなに近いのに、どうしていつも手が届かないのだろう。もう、遅いのだろう。



「……好きだ」



 吐き出した声が、空回りして、俺の周囲に落ちていく。








 「超高校級の絶望」によって持ち込まれたウイルスの存在を知るのは、それから数時間後のことだった。


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