69
狛枝凪斗を含めた「超高校級の絶望」である十五人と、正式に十三支部に配属されることになった朝日奈を除いた俺たち六人を乗せた船は出港した。
は、狛枝凪斗と話をして以降相変わらず生気がなかった。この状況で仲の良かった朝比奈と離れることになったことも多少は関係しているのだろう。彼女が人前では常に気を張って、無理をしてでも笑うような人間であるということは、コロシアイ学園生活以前の旧校舎での数カ月の共同生活の中でも見て取れたからこそ、その変化に他のやつらも気が付いたらしかった。
「さん。あなた、今日も食欲がないの?」
「うーん……そうだね、あんまり」
「ダイエットか? 胸の脂肪から落ちるからやめといたほうがいいべ」
「相変わらずデリカシーのないクソ男ね……少しは白夜様を見習いなさい……!」
普段通りであれば笑いながらそのやり取りを見守るはずのは、神妙な面持ちで小さく頷いた後、「ごめんね、ちょっとお腹痛いみたい」と言い残して食堂を出て行く。その後ろ姿を見送った霧切が「どうするの?」と、俺にだけ届くような静かな声音で呟いた。どうするもこうするもない。の考えていることが分からないほど俺は鈍くはないのだ。恐らく、霧切も。揺れる船内の中、俺は小さくため息を吐いて立ち上がった。
彼女が苗木の部屋を訪れては長い時間話をしているのを何度か見かけた。苗木の険しい顔つきを見た俺は、彼女が何を望んでいるのかを既に察している。
は一人で甲板に出て海を眺めていた。何の変化もない、面白みに欠ける水平線をぼんやりと眺めるその後ろ姿は、彼女本来の細身の体型も手伝ってか、随分と儚げに見えた。
彼女の立つ地点から両手を広げた子供三人分ほどの距離を取り、手すりに背中を預ける。がこちらに視線を送るのが視界の端で見えた。そのまま船室の方に戻ってしまうのではないかと考えたが、視線を海に戻したはそのままそこに居た。だから、少しだけ安心した。
何と声をかけようかしばし思案した俺が、最終的に吐き出したのは「あまり、あいつらに心配をさせるな」という、何とも遠回しな発言だった。は、触れていた手すりに腕ごと顔を乗せる。船が作る波の飛沫をじっと見下ろす彼女は、もう俺の方を見ようとはしない。
「……うん」
ごめんね。と消え入るように呟いたは、それから少ししてようやくこちらを向いた。
「十神くん」
波や船の走行音で彼女の声は上手く聞き取れない。そういう言い訳をしなければ、俺はこれ以上に近づけない。が手すりから体を放して、俺に向き直る。決心したような目だった。
「本当は、今夜にでもきちんと伝えようと思っていたんだけど」
腕を組んだ俺は視線だけを彼女に送る。華奢な少女だ。いつも口を開けて笑っていた。その隣には狛枝凪斗が居た。希望ヶ峰学園の中庭、白木のベンチに座ってどうとでもない会話を続けていた二人。常緑樹の木漏れ日の中にいた彼女は、何もかもが遠かった。制服に身を包んだその姿はあの秋よりもずっと幼く見えたのに、どこまでも女だった。あれは俺の前では見せない目だった。
「苗木くんは、自分が言ってあげようかって言ってくれたんだけど、やっぱり十神くんには自分で言わなくちゃいけないって、思って」
狛枝凪斗を離したくないのだろう。自分の人生を懸けようとしている彼女を止める権利はない。分かっているのだ。それでもお前が言おうとしている言葉を、簡単に受け入れることはできない。
「苗木くんに頼んだの」
お前はいつも柵の向こうにいた。高い柵だった。足をかける場所もないくらいに。なのに、なぜかその向こうに居るお前の顔だけは良く見えた。その先でピアノを弾くお前が好きだった。隣の男に微笑むお前が好きだった。好き勝手に演奏するお前も、本当は好きだった。一人になっても打ちのめされてもそれでも虚勢を張ったお前が好きだった。ずっとお前を見てきた。初めて出会ったあのステージから、ずっとお前の後ろ姿を見ていた。だから、単純なお前の考えていることは何でも分かる。そういういらない能力がついてしまった。俺はきっと、どうしようもない人間だ。
その瞳が、かつてのが持っていた力を伴って、射抜くように俺を見つめる。
「私も、皆と一緒に新世界プログラムに入るよ」
いつもそうして、お前は俺の先を歩くのだ。両手を広げて、見ているこちらが心配になるほど の不安定さで。どこまでも自由に。
仮想世界の中に入っても、希望ヶ峰学園に入学する前の記憶から作られた自分が狛枝凪斗を覚えていないことも、逆に狛枝凪斗が自分を覚えていないことも承知の上だと彼女は続けた。プログラムを終えて、彼らが絶望としての記憶を忘れても、共に過ごした希望ヶ峰学園での記憶が上書きされて消え去ることにかわりはないことだって承知していると。ゲーム世界で培われた経験と記憶だけが残ることも。そういうものを全て天秤にかけた上で、は『新世界プログラム』に入るのだと言う。
狛枝と過ごした半年余りを、旧校舎に閉じこもった数カ月を、彼女は捨てる。その決断にどれだけの葛藤があったのかを、俺が知ることは一生ないのだろう。
「……何があるかわからないぞ」
「私以外にも、監視者が二人もいるんだよ。それに、いざとなったら生身の未来機関の人間がプログラム内に入っていた方が、都合が良いこともあるし」
「何もお前じゃなくても良いはずだ」
「うん、私なんかより適役な人はいっぱいいる。でも、私が入りたいの」
プログラムに手を加える必要が出てくるから面倒をかけてしまうけれど。彼女は静かに笑う。
「やり直したい」
はっきりとした、意思のある声だった。
「もう一度、昔のあの人に会いたいの。どろどろの私情だよ。こんなのを持ち込んじゃダメだって分かってる。でもね、でも、やっぱり、もう一回で良いから会いたい。確かめたい」
狡い女だと思う。潮風が目に染みる。僅かに目を伏せる。
「だめだったら、もう諦めるから」
何を、とは、いくら待っても彼女は続けてはくれなかった。
分かっていたのだ。止められないことくらい。それでも少しだけ足掻いてみたかった。真剣な眼差しで俺を見つめるに短く息を吐く。上手く笑えていたら良い。どうか最後くらい強がらせてほしい。これは彼女にあの男を忘れたままでいてほしいと願ったことへの、贖罪だ。
「……止めないぞ」
の顔色に血の気が戻ったような気がした。青白かった肌色が、日光を受けてやけに美しく見えた。瞬きの瞬間、弾かれたように彼女は身を乗り出した。組んでいた手を強制的に解けられて、気が付いたら両手を握りしめられていた。柔らかく滑らかで、女性らしい手をしていた。
「ありがとう」
掠れた声だった。彼女の顔を見下ろして息を呑む。だから、もう良い。充分だ。ステージの上の神に恋をした四年前の自分が、今報われた。は笑っていた。微かに涙の浮かんだ目を細めて、頬を染めて笑っていた。美しかった。ドレスの端を摘まんでお辞儀をした彼女よりもずっと。
お前が立ち上がるその瞬間を待っていた。だから、これでもう、終わりにしよう。椅子から腰を浮かせんばかりにペダルに全体重をかけたあの日のように、呪いごとその爪先で踏みつぶして、お前は、俺に背を向けていい、だから、どうか笑え。
の柔らかな両手が温もりを残して離れる。俺にもう一度深く頭を下げたは、腐川たちにも報告をしてくると言って、甲板を後にした。
一人になると、波のさざめきが良く聴こえる。無意識に自分の手の甲に唇を寄せる。目を閉じる。忘れるんだよと、思う。
忘れるんだよ、。お前はプログラムに入った時点で忘れてしまう。狛枝凪斗と過ごした一年足らずだけでなく、俺がお前のピアノを悪態づきながら聴いていたことを、共にコロシアイ学園生活を生き抜いたことを、その中で何度もお前が泣いていたことを、俺がお前を一方的に見ていたことを、恋をしていたことを、十神白夜という存在を、丸ごと。俺たちが過ごしたこの日々を。
島に辿りつくまでの数日の間で、プログラムの微調整をする必要がある。俺はそのまま手すりに背を預けると、前髪を片手で潰した。押し上げられた眼鏡が、音を立てた。