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 私の名を呼ぶ彼の目尻は穏やかだった。恐ろしいほどにそれは、私の記憶の底にどうにかこびりついていた狛枝凪斗そのものだった。
 死んだ人間の手をぶらさげる彼が最早別人だったとして、諦めの悪い私がそれを受け入れて彼の元から離れることを選んだかどうかは甚だ疑問だ。私には分からなかった。きっと、私は馬鹿だから見抜けないのだ。半年余りの間あれだけ隣にいてくれた人と、今ここで薄らと微笑むだけの彼との間に絶望的なまでの違いがあるかどうかなんて。「さん」と私を呼んだその声は、記憶の中の彼のそれよりも僅かに低かった。二年前の型に自らを押し込んでいるだけのようにも見えたし、あの頃と何も変わらないようにも見えた。
 グランドピアノの傍、いつまでも私の作った曲を聴いていてくれた人。出会って間もない頃、誕生日が近いのだと聞いて反射的に何か欲しいものはあるかと尋ねてしまった私に、彼は私の作った曲が良いと言った。散々悩んで、深みにはまって、さやかちゃんにまで心配されるくらいに根を詰めて完成した「狛枝くんおめでとうの曲」は、スタッカートを多用した明るいイ長調の曲だった。研究室で弾いてみせた私に、彼はほとんど泣き出しそうな表情をした。そういう瞬間、彼は子どものような顔になる。楽譜を貰っても良いか、そう尋ねられて、そのままプレゼントした。私はそういう記憶を脳の奥、誰も見つけることのできないような最下層の片隅に、箱に入れてしまっていた。
 それは厳重な箱だった。幾重にも紐を巻き、棘を張り巡らせた。私以外の誰にも、いや、私ですら触れることのできないように、私はそうして彼を閉じ込めた。要するに、自己防衛だったのだ。彼への執着を思い出せば、私は彼の存在なしには生きていけない。それは今の世界に於いて枷でしかなかった。彼と私が同じ道を歩むことができないと本能では理解していたからこそ、私はそうして彼の存在ごと自分から切り離しておいたのだ。だけど、厳重に巻いてあった紐はあっさりと切られた。蓋は開けられてしまった。罪木先輩の手によって。



「あなたはあなたの愛する狛枝凪斗さんに、今度こそ絶望させられてください」



 その言葉通りになってしまったのだ。



「ボクは愚かだった。ボクの才能のせいでキミはそうなったっていうのに。ボクみたいな最低最悪の人間がキミの傍にいられるなんて、そもそもそこからおかしかったんだよ。それなのにどうしてボクはキミの完璧なピアノを聴きたいだなんて望んだのかな。ボクごときがキミの全盛期の演奏を聴けるわけがなかった。キミの指が二本動かない、それくらいの不運があって当然だよね」



 だからボクは罰を受けなければならなかったのだ。そう彼の口から流れる独り善がりの結論を、私がどうしてその場で飲み込むことができただろう。鮮やかな赤いマニキュアの塗られた女性の手の甲を撫でる彼は、その言葉とは裏腹に酷く穏やかな声をしていた。



「ボクは彼女が嫌いだ。だけどさ、そんな憎悪する対象である彼女の体の一部を取り込んだボクは、あいつを掌握したことになるよね?」



 傾げた首がそのまま地面に落ちてしまう幻を、私は見た。
 恍惚とした瞳でその手を撫でる彼の頬を殴って泣いたら何か変わったか。彼は目を覚ましたか。だけどこの双眸から涙は出ない。
 私は絶望に片足を浸した。だってあの左手は、美しかったのだ。何物にも代えがたいほどに。



「いつか凪斗くんと連弾してみたいな」



 夏の盛り、世間話に見せかけたあれは告白に等しかった。彼はあの時少し困ったような顔をして、それから笑った。「そうだね。ボクなんかが奇跡的にキミの演奏に釣り合うだけのレベルになることがあれば」遠回しに断られたのだと受け取って落ち込む私に、「だから、ボクにピアノを教えてくれる?」と凪斗くんは目を細めてくれた。嬉しかった。だけどそれももう叶わない。
 こんな思いをするならば、私は駄目になった私の左腕を、彼が奇跡だと言ってくれたこの手を、あの日去りゆくあなたに差し出しておけば良かったと、私は心から。心の底から後悔したのに。
 パン、と乾いた音がした。私は最初、それが何の音なのか分からなかった。やがて熱を帯び始めた頬に、ああ、叩かれたのだと気が付く。目の前の十神くんは、眉を吊り上げて、わずかに瞳を滲ませて、頬を引きつらせて震える唇を噛みしめた。震えた息が、怒っているようで、泣き出す寸前のようでもあった。絶望の淵にいた私は彼に手を引かれる。浸っていた足が抜ける。びしょびしょに濡れたその沼の先で、凪斗くんが笑っている。



「……ごめんなさい」



 十神くんは何も言わない。「ごめん、十神くん」私の動かない手首を絶望の沼から引っ張り上げる彼は言葉もなく目を伏せる。思えば彼はいつもそういう、痛みに耐えるような瞳をしていた。








 以来私は凪斗くんの部屋に近づかなかった。十神くんの無言の圧力があったのもそうだけれど、私自身、飲み込まれてしまいかねないことを察していたのだ。絶望は伝染する。盾子ちゃんがかつて言っていた言葉が身に染みる。今の弱った私では、きっとそのまま引きずられてしまうだろう。
 私は、一歩でも踏み外せば泥水に飲み込まれてしまうような世界を、両手をあげてバランスよく歩いているつもりで生きていた。誰かに服の裾を引っ張られても、蹴られても、私は平気な顔をして立っていられた。だけど自分の靴が汚れていたことを、皮膚に泥が染みていたことを、爪の間に土が入り込んでいたことを、私は、気が付かないふりをしていただけだ。
 かつて自分で蓋をした日々の記憶を、私はひとつひとつ確かめるように床に置いて並べる。出会った春。彼がくれた言葉。私の弾いた原曲を無視したラフマニノフ。外でうとうとしていたら笑われたこと。ハチャトゥリアンに影響を受けていたワルツ曲。私の指を撫でる人。白木のベンチ、噴水、飽きるほど食べた購買のパン。家庭科で作ったイルカのマスコット。あなたがいればそれで良かった。
 だけど、私はもう知っている。あのときの私たちは狡かった。手さぐりで、お互いを自分の望む存在に変えようとしていた。「ピアノを何よりも愛し、指を治そうと努力する」を彼は望み、「ピアノが弾けなくなった自分の傍にそれでもいてくれる狛枝凪斗」を私は望んだ。そのずれは日を重ねるごとに大きくなって、やがて壊れた。私たちはどう足掻いても、そうなっていた。
 だからやり直したところで、きっとそんな自己満足に意味なんかない。分かっていたのだ。でもそれでも私は自分を抑えられなかった。強かで傲慢で、狡猾な女だった。私は今も狡いままだ。
 新世界プログラムは私の望みを叶えてくれると知ってしまったから。
 プログラムの統括である苗木くんは、頭を下げる私に困惑を隠せない様子だった。この船は既にジャバウォック島へ向かっていた。プログラムの大まかな調整は終わっているのだ。



「……さん。確かに、一応は危険が無いプログラムだ。『卒業』するには、全員と仲を深めればいいだけだしね。だけど完璧じゃないんだよ。もしかしたら、万が一ってこともある」

「……わかって、ます」

「監視者がいるって言っても、プログラム上あの二人は未来機関に関することを口にできないように設定してある。何かがあってもさんを助けてあげることはできない」

「……」

「それにキミが未来機関の一員として入ったところで、あの世界ではその記憶がないんだよ」

「……十神くんに聞いてるよ。一度でも入れば入学後の記憶が全て消去されるって」

「だったら分かるでしょ? キミがプログラムに入って危険を冒すメリットなんてないんだよ」

「それでも」



 叫んだその声に、苗木くんが目を見開いた。



「その万が一が起きたら、外部から私にどんなアクションを起こしてもいい。苗木くんたちの判断で、私のアバターに何かしてもらってもかまわない。私はちゃんと未来機関の一人として、皆の代わりにプログラムの中で役目を果たすから。だから、だから、おねがいします!」



 下げていた頭をあげる。苗木くんは痛いほどに真っ直ぐ、私のことを見つめていた。きれいな目だった。一点の曇りもない、全てに諦めない目をしていた。何故だか、昔の凪斗くんを思い出した。それに気が付いた瞬間、私は喉の痛みに気が付いてしまう。泣きそうだったけれど、ここで泣いたら苗木くんを困らせてしまうことは明白だった。苗木くんが、長い息を吐く。



「……ボクたちのことを、忘れても?」



 私は、酷いことを言おうとしている。



「それでも」



 呑みこんだはずの涙が再び奥から押し出される。苗木くんの姿が滲んで、歪む。形だけを残した苗木くんが、息を飲んだその瞬間がわかった。吸った息が、喉にはりつく。



「もう一度、凪斗くんに会いたい。会って、ちゃんと自分の手でこんな結末にならないようにしたい。だから、どうか私をプログラムに入れてください」



 いなくなった誰かにもう一度会いたいのは、やり直せるのだったらやり直したいのは、苗木くんも、他の皆も一緒なのだ。
 苗木くんの瞳の奥が、同情するように、僅かに揺らいだ。








 「新世界プログラム」に入れば、希望ヶ峰学園で過ごした記憶はすべてプログラム内の記憶に上書きされてしまう。だから厳密に言うならば、私はやり直したいというよりも、一度全てを破壊したかったのかもしれない。
 私は彼に忘れないでほしかった。全てを覚えている私と、何も覚えていない凪斗くん。そうなる未来を否定したかった。
 どうか私の記憶も殺してほしい。かつて彼に理想を押し付けた私ごと。何もかも忘れた私たちがそれでもお互いを特別に思えるのならば、それはきっとそういうことだ。それが叶わなければ、私はこのプログラムを終えた後、未来機関の人間として凪斗くんを支える、そういう枝になる。
 これは皆を巻きこんだ、私の賭けだ。


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