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『新世界プログラム』とは、最新型のサイコセラピー機器と管理プログラムにより構成される、サイコセラピューティック・コミュニケーション・シミュレーターである。開発に当たっては、希望ヶ峰学園の学生の持つ才能の研究結果が活用されている。その筆頭として、七十八期生の超高校級のプログラマーである不二咲千尋が挙げられることは言うまでもない。
「新世界プログラムでは、当該装置を頭に装着することで強制的に被験者全員に『共感覚仮想世界』を体感させる。……分かりやすく言うと、プログラムにかけることになる十五人に同じ夢を見させるということだ。ここまではわかるか?」
「……うん、何とか」
「さらに新世界プログラムでは、共感覚仮想世界……いや、お前には分かりにくいか。つまりその夢の中で構築された記憶情報は、現実世界の情報に置き換えることができる。簡単に言えば、夢の中の記憶が現実に引き継がれるということだ」
「ええと……つまり、夢での記憶とか感情が……現実になるってことかな……?」
「あくまで心理療法だがな。とは言え、洗脳や人格支配に対する効果的な治療と言ってもいいだろう。今回のケースはまさにそれに当てはまる」
俺の言葉に、向かい合って座るは見ていて嫌になるくらいに眉を寄せて、数度の瞬きを繰り返した。どうにかその皺のない脳みそに刻み込もうとしているのだろう。
苗木から配られた『新世界プログラム』の資料の内容がいまいち分からないのだが、当の苗木本人に説明を求めようにも苗木は「超高校級の絶望」の再面談後の処理で手が離せないらしく困っていると話しているのを聞いたので、自分から彼女に声をかけた。恐縮するに噛み砕いて説明してやったが、これでどうにか理解してもらえただろうか。やがて彼女は両方の手の平で額を押さえると、資料に目を落としたままの体勢で「あの……」と絞り出すように呟いた。
「先輩たちをそのプログラムにかけるってことは、現実世界での記憶がなくなるってことだよね?」
「ああ、現実世界での記憶は仮想空間でのそれに上書きされ、完全に消える」
「それって、あの……どれくらい、忘れるの?」
どれくらい。その意味が分からなくて、一瞬答えに窮した。だけど、俯いていた顔をあげたの表情を見て、それが程度の話ではないことを察する。酷い顔をするものだと思った。大きな瞳を滲ませて、眉尻を下げて、泣き出す寸前のような顔で俺を見つめるに頭を殴られたような気分になった。泣きたいのは、こっちの方だ。
知っていた。彼女が心配しているのは、彼女の目に映っているのは、「先輩たち」ではない。今も昔もたった一人の人間だけだと言うことを。だからこんなに必死になっている。彼女が欲しい答えを俺は嘘を吐いてでも吐き出してやるべきだったのだろう。彼女を必要以上に傷つけることがないように。
だけど、そんなことはもうできない。これまでどれだけの不実を彼女に働いたかを、俺が認めているからこそ。真っ直ぐ彼女を見つめたら、は一瞬だけ目を見開いた。
「……上書きされるのは、希望ヶ峰学園に入学した直後から、現在までの記憶だ」
世界再建のためには、万全を期さなければならない。彼らに本物の「超高校級の絶望」の存在を欠片も思い起こさせないようにするしかないのだ。そのために、学園で起きた全ての記憶を奪う。ただでさえ、未来機関の上層部の脅迫めいた説得を無視している状況だ。彼らはもうあの十五人が「絶望の残党」で、俺たちがそれを匿っているという事実に気が付いている。早急に抹消すべきだと言う穏やかでない文言が嫌でも思い出される。
未来機関に目をつけられ、今や「超高校級の絶望」達とまとめて追われる身になった俺たち七人が彼らのためにできることは限られていた。それが「新世界プログラム」なのだ。このプログラムにかけることで、彼らは正気に戻るかもしれない。その可能性に懸けるしか道は残されていなかった。第一、既に計画は始まっている。研究施設のあるジャバウォック島に向かう船は秘密裏に手配されているし、プログラムの下準備だって、必要最低限の手順を踏んだ上で完了している。
だから、もう後戻りはできない。
忘れるのがなんだ、未来機関に引き渡して、殺されるよりはずっと良いだろう。言いかけたその言葉を、酸素と共に呑みこんだ。が言葉を失ったまま青ざめるのを見ていられなくて、震えるの手元にある資料に目線を落とす。これから出港する船が目的地である島に到着すると、「超高校級の絶望」たちは、新世界プログラムにかけられることになる。被験者リストに目を通す。上から二番目に書かれた「狛枝凪斗」の名前を、穴が開くほど、見つめている。
狛枝凪斗の左腕は切り落とされていた。
代わりに縫い付けられていたのは、死んだ江ノ島盾子の腕だった。動くことはないが腐らないのだと言って笑った。あの男は、他の七十七期生とは違った。宙を見上げながら笑い続けることもなければ、突然泣き出して見えない何かに謝罪し続けることもなかった。江ノ島の名前を夜な夜な呼び続けることもせず、つじつまの合わない文章を手記として残すことも、それ以上の自傷を行うこともない。かつての隣にいた時と変わらない曖昧な笑みを浮かべるだけのその男は、ひょっとしたら、絶望に堕ちた人間であるとか、そういう枠組みの中にはいなかったのかもしれない。
あの日、どうしてもと頭を下げるの意思を汲んで、狛枝凪斗と二人で話をすることを許可したのは俺だ。あの腕を見ることになるだろう彼女は、最終的に、きっと後悔することになると知っていた。それでも最後は、許してしまった。後悔したのは、俺の方だった。
「どうしてあの人はあんなことをしたのかな」
あの部屋から出てきた彼女は、感情の薄れた表情で、乾いた唇を微かに動かして、言った。
「なんで私の手を選んでくれなかったのかなあ」
あんな言葉、聞きたくなかった。だから、俺は彼女の頬を叩いたのだ。突発的だった。は顔をあげて、見開いた瞳を俺に向けた。長く黒い睫毛が微かに動く。その黒目の中で、俺は、無様に歪んだ顔をしていた。絶望は伝染する。その言葉が色濃く浮かび上がる。今更彼女を連れて行かせるわけにはいかない。手の平が熱を持っていく。がそっとその頬に左手を添える。
「……ごめんなさい」
馬鹿なことを言うなと、言えたら良かった。肩を掴んで揺さぶって泣いてやれば、少しは俺の痛みが伝わっただろうか。だけど、この女は視野が狭くて鈍感で、手の施しようがないほど頭が悪いから、きっと俺の気持ちなど少しも理解できない。「ごめん、十神くん」頬を抑えて目線を床に落として呟くその声は、けれど震えていた。馬鹿か。馬鹿か、ふざけるな。言いたくても言えない。
その言葉で俺がどれだけ傷ついたのか、お前はきっと察することもない。
お前の手が動かなくたって、どんなに演奏が衰えたって音楽の道を諦めなくてはならなくなったって、それでも過去のお前が弾いたピアノに殴られた俺はここにいる。お前は手の届かないところで笑っていれば良かったのだ。だからお前は、ただ、ただただ、馬鹿なふりをして真っ直ぐ歩いていてくれ。振り向くことなく遠ざかってくれ。俺はその後ろ姿を眺めているだけで良い。だから、だからどうか、そっちには行くな。引きずられるな。絶望に染まるな。
俺は、この時が何を目論んでいたのかを見抜くことができなかった。