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 得体の知れない違和感を拭い去ることは、どうしてもできなかった。私は妙な感覚を抱きながらも、部屋の中央に置かれたテーブルに十神くんと隣り合う形でついて、予め準備しておいた録音機とノートを広げる。
 向かいに座っている罪木先輩は、今どんな表情を浮かべているのだろう。無理に視線を送ろうとすると、部屋に入った時の、彼女のねめつくような視線や笑顔が纏わりついて、上手く息ができなくなる気がした。見えない膜が彼女自身を幾重にも覆っているようだった。隣に座る十神くんは、そう装っているのか単にまだ彼女の持つ強烈なオーラに気が付いていないのか、やけに平然としているように見えたけれど、柔軟に意思を持って動くその膜に、既に私は触れてしまっている。



「さて、通達通りこれから面談を行わせてもらう」



 抑揚のない彼のその言葉に私も背筋を伸ばして、どうにか罪木先輩の方に目線を向けた。ところどころ無作為に切られたような中途半端な長さのロングヘアは艶がなく、垂れ下がった目尻はどこか眠たげだ。肉付きのいい体を投げだすように力なく座る罪木先輩の瞳は、今は十神くんに向けられている。だから、私は少しだけほっとした。彼女の目は私を探るように感じられて、向き合っているだけで随分と疲弊したのだ。十神くんに目線で合図されて、私は録音機を回す。



「まず、名前を聞かせてもらおうか」



 資料を捲りながら尋ねる十神くんに、罪木先輩はテーブルに肘をつき、両手の指を顔の前で絡めた。目を見開いた彼女は「は、はわあ……」と唇の端から息を漏らす。芝居がかったような仕草だけれど、素なのかどうか分からない。



「わ、わた、私は、罪木蜜柑といいますぅ」



 彼女の声を聴いていると、体の奥から不安になる。表情と、仕草と声色と読み取れる限りの心情が、全て噛み合っていないのだ。漠然とした戸惑いを覚えながらも、私は十神くんに言われた通り、罪木先輩の一挙一動を目で追ってメモに残した。主観が入らないように、できるだけ客観的に。対峙しているだけで得体の知れない不安感を覚えるのは、外の世界で災厄に巻き込まれながらも生きてきたことで、彼女が何らかの精神的ダメージを負っているせいだ、と捉えるべきか。
 十神くんはその間も、淡々と彼女に質問を重ねていく。今までどこで何をしていたのか。同じ生き残りのメンバーとは行動を共にしてはいなかったのか。どうして突然未来機関に保護を求めてきたのか。罪木先輩も、それらの質問にそつなく答えていった。一人で隠れていたこと。自分は元々嫌われていたから、他の同級生とは会っていなかったこと。テレビで観ていたあなたたちが保護されたと聞いて、未来機関を信頼できる組織だと思ったから生き残りとして名乗り出たと。
 ほとんど瞬きをしない罪木先輩は、薄い笑みを浮かべながら十神くんのことを見つめている。予め答えを用意していたかのように淀みなく答える彼女を、十神くんもひょっとしたら、不審に思ったのかもしれない。しかし彼が一瞬だけ眉を顰めて、考え込んだ後に唇を開きかけた、丁度その時、十神くんのポケットに入れられていた連絡用の端末が鳴り響いたのだった。
 十神くんは液晶に浮かぶ人物の名前を見て、「。少し席を外す」と言って立ち上がった。視界に入ったそこに浮かんでいたのは、葉隠くんの名前だった。彼も、今頃は霧切さんと二人で面談を行っているはずだ。その彼から連絡があるということは、恐らく、この件に関して何か緊急の用件でもあるのだろう。部屋を出て行く十神くんの後ろ姿を見送る。バタンと音を立てて扉が閉められた瞬間、私の後ろ頭に、うふふぅと、癖のある笑い声が届いた。



「行っちゃいましたねえ、十神さん」

「……そうですね」

「寂しいですかぁ? 二人っきりなんて緊張しちゃいますねぇ?」

「……いえ、そんなことは」



 そう返事をしながら、そっと視線を彼女に戻す。戻して、心臓が鷲掴みにされたような気分になった。息が詰まった。罪木先輩は、私を射抜くように見つめていた。さっきまでのどこか気弱でぼんやりとした目ではなく、はっきりとした、色濃い一つの感情が詰まった、どろどろの溶けたような瞳をしていたから。私は、こういう目をする人を知っていた。私に呪いを吐いた人。江ノ島盾子。私の頬に爪を食い込ませたあの人と、同じ目を彼女はしていた。



「二人きりになれて嬉しいですぅ。私ね、ずぅっとあなたとお話してみたかったんですよ?」



 あなたはこんなゲロブタゴミカスの私となんてお話したくないかもしれないですけどお。そう続ける彼女に、私は思わず身体を逸らせる。うっとりと目を細めた罪木先輩から、逃げ出したくてたまらない。「聞いてもらえますぅ?」間延びした声が、私の首を絞めていく。



「私ねぇ、実は、長い間ね、どうしても許せない人がいるんですよぉ」



 小首を傾げて私を見つめる彼女に、私は思い出している。江ノ島盾子に記憶を奪われたあの日のことを。私が憎いと言った彼女のことを。消えかけた人の名前をかき消す甲高い効果音を。



「私の愛する唯一の人の憎しみを一身に受けた人、何をされても決してあの人にひれ伏すことのなかった人、私がたったの一度も向けられたことのない類の目線を独り占めしていた人、あの人を殺した人、生き残った人、今もこうしてのうのうと私の前で綺麗な顔して座っている人、本当、可愛い顔して、えげつない人ですねぇ?」



 音も立てずに彼女の顔から表情が消えていく。この部屋に入った時から感じていた胸のざわめきの正体を、私はやっと理解することができた。だけどもう遅かった。罪木先輩は前髪の隙間から私のことを見つめている。「私はね」薄暗い密室の中、ただ彼女の声だけが私の耳に届いた。



「あの人が誰よりも絶望させたかったあなたが生き残ったことが、一番許せないんですよ、さん」



 罪木先輩が、椅子から立ち上る。動くことのできない私の隣にゆったりとした仕草で膝をつくと、彼女は私の髪の毛を耳に優しくかけ、そっと、囁いた。まるであの日の江ノ島盾子のように。



「ねぇ、さん?」



 歌うような、柔らかな囁き声だった。



「あなたはあなたの愛する狛枝凪斗さんに、今度こそ絶望させられてください」



 目を見開く私に、彼女は内緒話をするように続ける。



「やっと会えますね。あなたたち」












 十神くんに名前を呼ばれた。彼に促されるまま部屋の外へ出ると、十神くんは一度扉の鍵を閉めてから、険しい表情で小さくため息を吐いた。



「……面倒なことになった」



 口元に手を当てて考え込むように言葉を選ぶ十神くんによると、葉隠くんたちが担当した学生は、「江ノ島盾子」の影響を色濃く受けていたらしい。その後苗木くんと葵ちゃんとの三人で面談をしていた腐川さんからも同じような連絡が入った。他の学生もそうである可能性は低くなく、ひょっとしたら彼らこそが、未来機関が捜している江ノ島盾子の思想を受け継いだ「絶望の残党」なのではないかと、十神くんは考えているようだ。



「恐らく、罪木蜜柑もそうだろうな。上手く取り繕ってはいたが、所作がところどころ奇妙だった。……仕方ない、予定していた取り調べを一旦中止して話し合いの場を……」

「……あの」



 十神くんの思考を遮る形で声をかけた私に、彼は嫌な顔一つせずに「どうした?」と目線を合わせる。それが、どうしてだか、痛いのだ。私は自分のつま先に目線を落とす。



「……もしも十五人全員が、その、『絶望の残党』だったら……どうなるの?」



 俯いた私の視界は、大した情報を手に入れることはできない。ただ、十神くんが数秒黙り込んだ後に、閉めた扉に背中を預けたのが分かった。



「上に報告して、恐らく即刻処分だろうな」



 突き放すようなその言葉に、私は咄嗟に顔をあげる。十神くんの眼鏡の奥の瞳に映る私は、きっと酷い顔をしていたのだろう。彼が僅かに目を見開いた。一瞬で混乱してしまっているのが、自分でも分かった。分かっていたけれど、止められなかった。頭の中から次々と言葉が溢れて止まらない。消えてなくなりそうだった。いっそ、なくなってしまうべきだった。十神くんのために。



「どうにか、ならないの……?」

「……何がだ」

「だ、だって、絶望の残党だっていう確かな証拠なんて、ないでしょ」

「……

「ちょっと、外の世界がぐちゃぐちゃしてて、混乱してるだけかもしれない、私たちの勘違いかもしれないよ。もしそうだったら希望ヶ峰の先輩たちは、無駄に殺されるだけだよ」

「おい」

「だって、だってそんな、皆、殺されたら」

「……」

「違うかもしれないのに、し、死んじゃうなんて、そんな……そんなの……」



 言葉に詰まった時、私は自分の視界が揺れていることに気が付いた。目の奥から際限なく湧き出てくる涙が、頬を伝ってリノリウムの床に大きな痕を残していく。泣くなんてこんなの狡い。そう思った瞬間だった。私は息ができなくなっていた。目の前が真っ暗になっていた。ぎゅうぎゅうに締め付けられていた。温かいと思ったら、それは、十神くんの腕だった。私は抱きしめられていた。



「十神くん」



 十神くんの腕の力が、強くなる。彼は何も言わずに私の右肩にその額を押し付けた。背中に回った腕が、熱かった。痛かった。悲しかった。私は彼の思いを、既に、知ってしまっている。思い出している。彼が傍に居てくれた日々を。十神くんが息を吐く。吐き切った後、掠れた声で言った。



「……思い出したのか」



 縋りつくようなその言葉が、取れない。
 私は息を呑んだ。十神くんがこんな声を出すのを、私は初めて聴いた。強い人だと思っていた。賢くて冷静で真っ直ぐで、たまに間違えるけれど、頼りになる人、信頼できる人、きっと、私のことを支えてくれるだろう人。勘違いでなければ彼は、私のことを好きでいてくれた。だけど、私はずっと、見ないふりをして歩いてきたのだ。知らないふりをしてきた。それがどれだけ残酷なことなのか、私は考えることすら放棄した。
 私は、狡い。
 十神くんがもう一度息を吐く。「もう少しの間で、良かった」震える声で言う。



「……もう少しだけ、忘れたままでいてほしかった」



 絞り出すように、彼はそう呟いた。私の涙は、既に止まっていた。彼が止めてくれた。十神くんが、今まで何を考えて、どういうつもりで私の傍にいてくれたのか、私はもう全てわかっている。そこまで人の気持ちに鈍感ではないから、だから、それくらいは、分かっていたのだ。
 私の中の黒いマジックは剥がされた。罪木先輩が力ずくで奪って行ってしまった。無理に取り払われたその下で、彼の姿は、ぼろぼろだった。私たちの、最後のようだった。別れも告げてもらえなかった、私の首のようだった。
 私は、十神くんの背中に腕を回すことができない。十神くんを傷つけることしかできない。長いこと痛みに麻痺しかけていた左手が、重くなった。何かの合図のように。「十神くん」惨めに震えて掠れた声が、私たちの他に誰もいない、暗い廊下にぽとりと落ちる。



「……ごめん……」



 白木のベンチに座る彼の、何かを企むような目元が好きだった。私のものよりずっと長い指がたどたどしく鍵盤を押さえる姿が好きだった。いつも同じサンドイッチを食べる姿が好きだった。頭の悪い私に真剣に数学を教えてくれて、嬉しかった。傍にいてくれた、それだけで良かったはずなのに気が付いたら好きだった、きっと最初から大切だった。裏切られたと思ってもらえるくらいに私のピアノを盲目に愛してくれた凪斗くんを、私は心の底から愛していたのだ。
 凪斗くん。
 私は彼を思い出した。


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