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 静かな雨が降っていた。項垂れた私の髪の先から滴った雫が、剥き出しの膝の上に落ちる。二人掛けの白木のベンチの左側はぽっかりと空いていた。やがて何もない空中に浮かび上がった黒いテープが、ぐるぐると私を締め上げていく。唇を塞がれた私は息を吐くこともできずにいる。喉元まで出かかった誰かの名前が、溶けてなくなる。
 首を絞められた私は、この首に残る温度が、人の手のものであるようにすら思っている。








 食事や睡眠以外のほとんどの時間を催眠治療に割いても私の記憶の一部は戻らず、晴れない靄の正体が判明することはなかった。
 あの人の足首から上が、どうしても出てこない。声も思い出せないのだ。その人の吐き出す言葉は、どれも機械音に変換されていた。私の隣で両手を広げて、笑ってくれていた人。
 かつて一度だけ、十神くんに弱音を吐いた。怒られるかもしれないと思ったけれど、疲れて、嫌になって、泣きたくなってしまっていたから、いっそ馬鹿にして欲しいと自棄になったのだ。だけど、弱気になるなと叱られたほうがずっと楽だった。彼は私の話を黙って聞いていた。どこか苦々しく目を細めた彼は、もしかしたらマジックの下に消えたあの人の正体を知っていたのかもしれない。
 思い出すなと言われた気がした。
 十神くんの歪められた瞳を見た私は、あの時手に持っていたコーヒーを一気に飲み干した。何の味もしなかった。それから、私の治療は実質的に終わった。というよりも、私が終わりにしてもらったのだ。セラピストさんに頭を下げて、もう、大丈夫ですと言った。胸のつかえがとれたみたいに、私は楽になった、背負っていた重荷が一気に溶けて消えた気がした。なんて、嘘だ。マジックの剥げた靴の踵は、私の背中を今も蹴り続ける。そういう痛み全部に耳を塞いで、目を閉じて丸くなって何にも知らないふりをしていることに、本当は胸を引き裂かれそうな思いだった。思い出したいという前のめりの感情と、伴わない治療の結果と、十神くんの牽制するような瞳がごちゃまぜになって、私は訳が分からなくなる。
 この身体のどこを捜しても、あの人はいないのに。








 治療を終えることにした私は皆の仕事を分けてもらうようになった。とは言っても頭を使うようなものは霧切さんや十神くんが率先して引き受けてくれたため、私に与えられるのは雑務中の雑務ばかりだった。最終確認のための印鑑を葉隠くんと押したり、平和に戻りつつある外の世界を苗木くんや腐川さんと見回ったり、そういうことをしている間は、私の背中に置かれた靴は、足跡だけを残していなくなった。ただ、その存在を忘れたわけではなかった。思い出したいと今でも思っていた。その方法がなかっただけだ。



「あっちゃん、こっちこっち~」



 ある日、休憩室から顔を出した葵ちゃんに手招きされた。彼女は満面の笑みでテーブルの上にある高価そうな焼菓子の入った箱を指差す。葵ちゃんは、来月には正式に十三支部に入ることになっていた。最初のうちはなんで私だけ、と納得がいかないように唇を尖らせていたけれど、今はもう吹っ切れて異動の準備をしているようだ。ずっと一緒に居た彼女と離れ離れになるのは、何だか少し寂しいけれど。



「差し入れだって! 一緒に食べよ!」

「わ~美味しそう! 誰から?」

「もふぁみふぁお」

「もふぁ?」



 尋ね終わる前に包装を破いて口に詰め込んだ葵ちゃんはもごもごと咀嚼する。



「十神から。何かね、苗木と本部に行ってきたんだって」



 飲み込んだ後に繰り返されたその言葉に相槌を打ちながら、私も深い茶色の包みを手に取った。十神くんか。最近、十神くんはやけに優しい。というか丸くなった。あのコロシアイ学園生活での彼や、それ以前の取り戻した記憶の中での彼はもっとピリピリしていて、角のある人だったように思う。けれど未来機関の一員として活動するようになってから、十神くんは随分と穏やかであるように思えた。上層部からの評判もなかなか良いらしい。



「十神くんたち、本部なんかに何の用事だったんだろうね」

「あ~、なんかね、ここだけの話」



 小さな焼菓子を口に入れる。甘さと深いほろ苦さが口の中に広がる。本当だ、ちょっと高い味がして美味しい。葵ちゃんが身を乗り出して私の耳に唇を近づけた。小さな囁き声が吐息と一緒にかかる。ばちん。ばちん。頭の中の塗り潰された部分で、火花が走ったような気がした。
 あれ?
 私は白木のベンチに座っていた。目の前に噴水があった。その隣には誰かが座っていた。嫌と言うほど見てきた靴のつま先がうっすらと汚れていた。黒く塗り潰されたその人が視界いっぱいに近づいて、私の耳元で、くすぐったい吐息と共に合成音のような声を吐き出す。「ボクが欲しいのは」霧が晴れていく。足首のマジックが音を立てて剥がれていく。筋肉の薄い足が、徐々に露わになっていく。剥がれていくマジックを眺めながら、誕生日、と、不意に思った。



「希望ヶ峰学園の生き残りが見つかってるんだって」



 葵ちゃんの声が脳に響いた。彼の声が代わりに潰れて消えた。マジックの下から現れた彼の指は、細くて長くて、けれどはっきりとした男の人らしさを持っていた。私は目蓋の裏で、それを眺めていた。首から上のマジックが、残ったままだ。
 誕生日。そうだ。四月の終わり。折角仲良くなれたから、プレゼントをあげたいと言ったのだ。
 私はなぜはっきりとそう思ったのだろう。



「ボクが欲しいのは、キミの作った曲」



 塗り潰されたマジックの先で、きっと彼は、笑っていた。








 希望ヶ峰学園の生き残りを名乗る生徒は、最終的に十五人にのぼったと言う。苗木くんと十神くんは彼らの名簿を手にしているようだったけれど、私や葵ちゃんたちが彼らの仔細を知らされることはなかった。葵ちゃんは文句を言っていたけれど、最重要機密だと言われてしまえば返す言葉は無い。
 未来機関の力になれるであろう「希望」を持つ生存者の取り調べを任されたのは、年の近い私たちだと言う。「本来ならば俺が一人でやろうと思っていたのだが」と十神くんがそっと眉を寄せた。なるべく短期間で終わらせるようにと本部からの指示もあり、結局異動前の葵ちゃんも含めた七人全員がその任務に駆り出されることになったのだ。
 とは言っても、いくつか決められた質問をするだけだと十神くんは私たちに説明した。ただし、確実性を重視し、実際の取り調べの際は二人以上で行うこと。単純計算で一組が五人を担当することになるけれど、これを三日以内に終えるようにと彼は続けた。



は俺と組んでもらう」



 そう言い放った彼の意図を探るよりも、腐川さんが私の隣で憚る様子もなく睨みつけてきたことの方が、そのときの私にとっては重要だった。
 担当する分の五人の生徒に関する資料だけは、十神くんに見せてもらうことができた。一期上の先輩ばかりだというから、ひょっとしたら何か私の記憶に関係する人がいるかもしれないと若干の期待を抱いていたけれど、渡された資料の中にはピンとくる名前はなかった。葵ちゃんのおかげで少しだけ過去を思い出せたのだ。些細なことで、全てが剥がれ落ちることがあるかもしれない。そんな私を見透かしたのか、眉を寄せて見下ろす十神くんがどこか苛立ったようなため息を吐き出すので、私は慌てて顔をあげた。



「……良いか。悠長にしている時間は無い。さっさと取り掛かるぞ」

「あ、うん。えっと、この表の上の人からでいいのかな?」

「ああ。今日はこの二人だ。一人ずつ行うが、お前は録音とメモだけ取っていればいい」

「……が、がんばります」



 先を歩く十神くんに置いて行かれないよう、小走りのまま頷く。
 生き残りを自称する十五人の生徒は、既に全員がこの支部内の地下にある個室に連れてこられているらしい。言葉は悪いが、その正確な素性や思考がはっきりしない以上は半ば監禁という形を取らなければならないのだと十神くんは言っていた。歩きながらもう一度資料に目を通す。超高校級の飼育委員やら、写真家やら剣道家やらメカニックやら、流石に立派な肩書きを背負った彼らにこれから面談と言う名の取り調べを行わなければいけない。補助をやってさえくれればいいと十神くんは言うけれど、私は初めて自分が与えられた重要な任務に酷く緊張していた。手にかいた汗を、そっとスーツの裾で拭う。
 地下に続く階段を降りると、その先は窓がないせいかやけに薄暗く感じられた。一年前のコロシアイ学園生活を思い起こさせるその情景に、私は息を呑む。長い廊下の両側には鉄製の扉がいくつもある。ネームプレートの代わりに番号の記された扉と資料に書き足された数字は、どうやら一致しているらしい。一○七と書かれた扉の前で、十神くんは立ち止まる。



「ここだな」



 無意識に背筋を伸ばした。心臓がばくばくと音を立てた。足が竦んだ。どうして、こんなにうまく息ができないのだろう。一枚隔てた扉の先で、見えない何かが蠢いている気がした。十神くんが扉を叩く。中から返事はない。ポケットから鍵の束を取り出した十神くんが、迷うことなく一つの鍵を選ぶ。空気が薄いのか、頭が痛くなってきた。扉が開かれる。一度だけ目を力強く閉じて、覚悟を決めて、それから私は十神くんの後ろに続いてその部屋に足を踏み入れた。
 部屋の中は薄暗かった。それでも何となく見える影に、その人がこちら側に背中を向けて椅子に座っていることを知る。何もない壁と天井の境目を、その人はただ見上げていた。



「未来機関第十四支部、十神白夜と、だ」

「……え?」



 十神くんの声に反応したその人は、ゆっくりと首を回してこちらを見た。やがてその厚い唇が、歪められる。長い髪の毛が、生き物のようにうねって見えた。ざんばらに切られた前髪の下で、ぼんやりとした瞳が静かに光っている。彼女はただ笑っていた。笑って、そっと唇を開いた。



さん?」



 鼻にかかる甘ったるい、柔らかな声だった。超高校級の保健委員、罪木蜜柑先輩。目を細めた彼女は、十神くんではなく、私のことだけを真っ直ぐに見つめていた。


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