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 世界を覆う絶望から自分たちの身を守るために、学園に唯一残っていた七十八期生が旧校舎に立て籠もることになったのは、が教室で泣いていた日から数日が経った頃だった。
 テロやクーデターが正当化されるような狂った世界の中、予備学科の連中は集団自殺をし、多くの本科生は広がる騒動に紛れるように姿を消した。その中に、狛枝凪斗はいた。
 は、自分自身も相当に滅入っていただろうに、周りの人間のフォローに徹した。周囲を励ますその姿を黙って眺めている俺は、恐らく、見るやつが見れば痛々しかっただろう。鉄板であらゆる出口や窓を塞ぐその目が、何かを探すように、徐々に狭まる外の世界を見つめている。あの横顔が、俺のささくれだった心を引き裂いていく。
 不毛だ。








 旧校舎に立て籠もるようになってから、は自分の作った曲を弾かなくなっていた。彼女が弾くのは、小学生の好むような簡単なクラシックばかりだった。あの大量のノートを、彼女はどうしたのだろうか。自分の部屋にでも丁寧にしまってあるのか。段ボールに押し込めて見えないところに隠したのだろうか。それとも、もう燃やしてしまったのか。彼女の入り浸る音楽室には、あのノートの気配は欠片も感じられなかった。
 防音の施された音楽室でピアノを弾くの選曲を把握していたのは、俺もそこにいたからだ。狛枝凪斗の代わりになろうなどと思ったわけではない。もはや、彼女の支えになりたかったわけでもない。現に、は俺を煩わしく思っているようだった。延々とピアノを弾き続けるの横顔を見ていた。は険しい顔をしていた。度々指が詰まった。時折ため息を吐きながらピアノを弾く。神は死んだ。殺したのは俺ではない。
 の演奏は、聴いていて酷く疲れた。速いばかりで強弱記号を見ない、所謂子供の自己満足のような、聴くに堪えないピアノだった。あの春の頃とは、比べものにならなかった。落ちたものだなと素直に呟いても、何の反応も示しはしない。音楽室にいるは抜け殻のようだった。真っ白な顔で黙々と課題をこなすように壊れた腕でピアノを弾き続けた。それ以外に時間の潰し方を知らないわけではあるまいに、彼女は決まって、一日のうちの決まった時間を、音の漏れないここで過ごす。彼女が一人で良く泣いていたのも知っている。狛枝を思っていたのも知っている。の瞳が僅かに滲む度に、俺は音楽室を出た。閉めた扉の向こうで、聴こえるはずのない嗚咽が聴こえた気がした。冬の終わりに、一人教室で膝を付いて泣いていたを思い出した。
 しかし彼女は一歩共同生活に戻れば、底抜けの笑顔で振舞って、明るい少女を演じていた。締め付けられる思いだった。笑わなくていいのだ。泣いていればいい。強がる姿は見るに堪えないと、正直に言えば良かった。彼女が望むのなら狛枝凪斗の話を聞いてやったって良かった。相槌だけで良ければいくらでも打ってやった。好きだなんて言わない、押し付けたりはしない、の感情のはけ口にしてくれれば良かった、受け止めてやれた。それで少しでも彼女の気が晴れるなら。
 高い壁を作るにほんの一瞬でも俺のことを見て欲しかった。特別になる必要なんかなかった。狛枝に向ける笑顔の五分の一でも良い、あのステージでの照れ笑いの半分でも良いから、嘘でも良い、夢でも、なんだって構わないから、笑いかけて欲しかった。なのに、俺はどうしても自分の感情を上手く吐き出すことができない。雁字搦めになってしまう。お前のように、上手くやれない。



「まだあの男に捕われたままなのか」



 は鍵盤に視線を落としたまま目を見開いて、震える息を吐いた。言わなければ良かった。俺はにあんな顔をさせたいわけでも、あんな言葉を返してほしかったわけでもなかった。



「さあ、どうなんだろう」



 俺はお前に、笑ってほしかったんだよ、








 やがて江ノ島盾子の先導によるコロシアイが始まった。記憶を奪われた俺たちは互いのことを忘れ、モノクマの言葉に踊らされた。この学園から出たければ殺し合え。そのような緊迫した状況下で、初対面も同然のクラスメイトを信用することは難しかった。
 奪われたのが学園で過ごした記憶であった以上、入学以前から一方的に知っていたのことは覚えていた。あのときの感動も、白いドレスもの笑顔も、俺は忘れてはいなかった。認識のないままに出会いをやり直した俺たちは、入学したばかりの頃と同じ会話を繰り返す。



「……貴様が、あのだと言うのか? 知性の欠片も品性もない女だな」

「え、ええ? ち、知性? ない……ないかなあ……ないな……」

「……黙れ。これ以上俺を幻滅させるな」

「だ、だま、幻滅、ええ……」



 どう接したらいいか分からずに、いつもの調子で話しかけてしまったのも、怯えたが、それ以降極力俺に近寄らなくなったのも二年前と一緒だった。俺は後で頭を抱えた。








 長いコロシアイの果てにが生き残ったのは、単なる幸運だった。だけど、それでも半数以下に減った頭の中に彼女が居たことは、奇跡のように思えた。
 黒幕の江ノ島盾子が死に、学園を出ることを選んだ俺たちを未来機関は保護した。これからの世界のために協力してくれるなら、奪われた記憶を取り戻す手伝いをしようという申し出を二つ返事で受け入れた俺たちは、未来機関のセラピストによる治療を受け、少しずつ、江ノ島によって消された記憶の断片を取り戻し始めている。以外は。
 俺たちのほとんどは、間もなく未来機関の第十四支部に配属されることが決まった。完璧に記憶を取り戻すことができ次第、本格的な任務を与えられることになる。と言っても人手不足は否めない。治療と並行して様々な雑務を任されるようになるまで、そう時間はかからなかった。
 コロシアイ学園生活についての仔細のまとめに関する任務は、俺が率先して行った。朝日奈や葉隠、に任せようものなら再提出は免れないだろう。それを考えれば、自分が一番適任であると思えた。腐川にも手伝わせたが、ころころと性格が変わる度に説明をするのが面倒になり、中盤からはほとんど一人で仕上げた。
 俺がそうしている間も、苗木や霧切は上部と連絡を取り合って細かな任務を引き受け、他のやつらと手分けをして上手く消化し、それなりの成果をあげていたようだ。ただ、その「他のやつら」に、は含まれてはいない。上手く記憶を取り戻せない彼女は、セラピストが付きっ切りになって一日のほとんどを治療に費やしていたのだ。



「成果がないわけじゃないんだよ。大体のことは、思い出せたの。皆とどうやって過ごしてきたか、楽しかったこととか、そういうのは、分かるの」



 聖職者への懺悔にしてはあまりにもフランクに、或いは敢えてそうするかのようには言う。



「ピアノを弾いている私の傍に誰かがいつもいたのね。でもそれが誰なのかが全然思い出せないの」



 息をするのを忘れた。こんな風に彼女が吐露することは初めてだったから。



「声とか足首までは出てくるんだけど、そこから先が進まない」



 二人きりの休憩室で、安いコーヒーを飲んでいた。丸いテーブルに向かい合って座っていたの、弱々しい声が響いていた。時計の秒針の音が煩わしくて、叩き壊してしまいたかった。声に、足首。鼻で笑ってやりたかったのに、上手くできない。は息を吐くと、持っていた紙コップの中身を一気に飲み込む。伏せた目は疲れ切って、彼女が夜、上手く眠れていないことは明白だった。
 酷いことを、思ったのだ。あの一瞬、俺は心の中の薄闇に光が差した気分だった。俺の前でが弱音を吐くのを、俺はこの網膜に焼き付けた。の左手が震えていたのを見逃さなかった。
 思い出さなければいい。そのままでいたら良い。そうしたら俺がお前の傍にいられる。そう思ったなんて、お前には死んでも言えない。
 全てを思い出した俺は、の言う「その人」が、酷い男だったと知っている。の指が治らないことを知った途端に、躊躇いもなくその背を向けた男。この腐った世界に一人で出て行った男。だけど、同時にその男の存在がにとってどれほど大きかったのかも、分かっていた。冬の終わり、鞄につめこまれたあの大量のノートはたちが過ごした日々を物語っていた。狛枝と並んで歩いていたの、ステージの上とは比べものにならないほどの笑顔が、今も焼き付いている。








 それから数カ月が経った。の治療は一進一退を繰り返し、彼女も疲弊しきっていた。息抜きにと簡単な仕事を手伝うことも増えてきたところを見ると、セラピストの方も匙を投げかけているのかもしれない。



「なんだか、専門家の人をお手上げにさせてばっかりだよ」



 狛枝に関すること以外を思い出しているは、かつて自分の指を研究し、治療していた超高校級の学生たちのことも踏まえてそう言っているのだろう。目を細めて微笑むは、入学式の直後の彼女に、とてもよく似ていた。狛枝凪斗に侵食されていないだ。それが生来の、のように思えた。
 だから、このままで良かった。誰も苦しまずに済んだ。未来機関の地道な活動の甲斐あってか、もしくは諸悪の根源である江ノ島盾子が死亡したおかげか、その両方か、世界は着実に絶望から脱却しつつあったし、頻発していた凶悪事件も目に見えて減っていた。戦争も、終結は目前だ。さらに幸運なことに、学園を出て行った希望ヶ峰学園の生き残りも見つかっているらしい。江ノ島の遺志を引き継いでいるという「絶望の残党」という連中の捜索はなかなか進展しなかったが、その報せは未来機関を奮い立たせるには充分だった。
 少しずつ歯車が狂い始めていることに、このときは誰も気が付いていない。








 最終的に希望ヶ峰学園の生き残りを名乗る生徒は、十五人にも上った。年の近い俺たちが詳しい取り調べについて一任されることになるらしい。手が空いていた苗木と二人で、すぐに名簿と記憶を照らし合わせる。そこに七十七期の学生たちしかいなかったのは、偶然か、それとも。
 花村輝々は超高校級の料理人としてその世界では有名だったし、写真家である小泉真昼は高校生にしていくつもの賞をとっている。ノヴォセリック王国からの留学生で、王族でもあるソニア・ネヴァーマインド。澪田唯吹はミリオンセラーを叩きだした過去を持つギタリストで、弐大猫丸はマネージャーとして多くの有名選手を育て上げた。九頭龍組の跡取りの九頭龍冬彦に、あまり知られてはいないが、奴の側近としてその筋では名の知れた剣道家の辺古山ペコ。田中眼蛇夢は絶滅危惧種の繁殖を成功させたことで一躍有名になっていたし、罪木蜜柑は医療技術と知識に関してはその辺の医者に引けを取らない。抜き出た身体能力の持ち主である終里赤音に、機械に関しては右に出る者がいない左右田和一、日本舞踊家として活躍していた西園寺日寄子、名前や性別、一切が素性不明である詐欺師などがずらりと並んでいた。その中で一人だけ予備学科生の名前が記載されていたが、あの集団自殺を回避した生徒がいたというのは驚きだ。
 末尾に記載されていたある人物の名に、目を細める。最初から覚悟はしていたのだ。世界中から七十七期の連中をかき集めただけのようなそのリストに。次に思い浮かんだのは、の横顔だった。隣に座っていた苗木が、あ、と声を漏らす。



「……良かった、生きていたんだ!」



 同じ「超高校級の幸運」同士、名前だけは知っているという彼について、苗木は語る。



「ボクは実際に話をしたことはないんだけど、中庭とかで見かけることはあったな」



 耳の奥で、甲高い金属音が鳴り響いてやまない。



「そう言えば、さんと一緒にいるのを見たこともあるよ。知り合いだったみたいだね。彼に会ったら、少しはさんの治療も進むんじゃないかな?」



 何も知らない苗木に罪はない。テーブルの下で握りしめた手の平に、爪が食い込んだ。俺は黙ったまま、その資料の、名前の並んだ文字の羅列を凝視している。狛枝凪斗。どんなに見つめても、やつの名前は消えてくれない。記憶の中のあいつよりもどこか幼さを残した、入学時の顔写真と目が合う。奥歯を噛みしめた瞬間、「でもね」と、耳にこびり付いた彼女の声が蘇る。



「全然思い出せないんだけど、それでも大切な人だった気がするんだ」



 あの休憩室で、絞り出すように吐き出したの声が、俺の皮膚の隙間から浸食していく。最近になってようやく笑うようになってきた、記憶の戻らない自分自身に整理をつけることのできたらしい。俺は、お前に、そのままでいてほしい。ずっとあの男のことを忘れたまま、記憶に蓋をしたまま生きて欲しい。俺の手を取ろうが取るまいが構わない。二度とあいつのために泣かないでほしかった。俺の無力を、知らしめないで欲しかった。
 笑っていてくれ。俺の願いは、たったそれだけだったのだ。


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