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彼女ほど要領の悪い人間を、俺は知らない。
稀代のピアニスト、。幼少期より才能を見出され、中学生の頃から度々単独コンサートを開いていた彼女の演奏は、希望ヶ峰学園に入学する前にも何度か聴く機会があった。細い指先から奏でられる音の束は、力強く、時に繊細で、彼女に詰まった全ての思春期特有の感情が込められたかのような、聴く者の魂を揺さぶる演奏だった。飛び交う拍手に頭を下げ、年相応にはにかんだ白いドレスを着たその少女には、一点の汚れもなかった。
あの頃が彼女の全盛期だったのだろう。入学後に偶然耳にしたの演奏は、確かに非凡ではあったが、あの頃の輝きを失っていた。彼女は、指を壊してしまっていた。それでも希望ヶ峰学園に入学できたのは、多かれ少なかれ、嘗ての栄光が影響していることは間違いない。
多くの生徒が行きかう中庭で、研究室の一室の開け放たれた窓から響くピアノの音に足を止めた。超高校級の才能を持った人間の集まるこの学園では、何らかの演奏の音が響くことは珍しくなく、わざわざ耳を傾ける者などいない。それがこんな鈍い光を放つだけの演奏なら尚更だ。
は、ピアニストとしては生きてはいけなくなるだろう。前線を退いて、せいぜい後進を育てる指導者としてしか、音楽に携わる道はない。あの左手の指が治らない限り、きっと彼女はこのまま沈んでいくだけだ。彼女のいる二階の窓の奥は、中庭からは見ることができない。はどんな顔でこの曲を弾いているのだろうか。思う様に動かない指に、苛立っているのだろうか。教室にいる彼女からそれは、想像もできはしないけれど。
彼女の研究室の真下を通りかかった俺が耳にしたのは、酷く不格好なラフマニノフの鐘だった。不安になるくらいにきつい、せき込むようなアジタートをかけるから、思わず眉根を寄せてしまう。酷い演奏だった。型にはまったクラシックばかりを聴いて生きてきた俺がそう思うのは至極当然のことだ。道行く生徒に以前の、一年半前の彼女の演奏を聞かせてやりたい。そうすれば、興味のない顔で通り過ぎるこの連中の頭を、彼女は殴れるはずなのに。
楽譜に描かれた演奏記号はほとんど無視され、本来あるべき音が消え、都合よく足された音符が曲の色を変えてしまっている。こんなふざけた演奏に誰が拍手を送るだろう。そうやって一度は拒絶した音に、だけど俺は今、心を奪われているのだ。訳がわからない。価値がないはずの演奏だった。子供の遊びの延長のようなものだ。それなのに、俺は足を動かすことができずにいる。彼女の弾くラフマニノフ。鐘というよりは呪いのようだ。俺は窓の下から動けずにいる。見上げたまま瞬きの一つもできずに、ただ俺は、の白いドレスの裾にできた皺を思い出している。
一年半前の秋だった。髪をまとめあげ、薄い化粧を施された同い年の少女は、背筋を伸ばして静かにステージに立っていた。質の良い白いドレスがライトに晒されて、その一つ一つの皺の影が、まるで夜の海のさざ波のように見えた。中央の最前列に座っていた俺の目の前で、彼女はその細い手首からは想像もつかないほど力強い音を奏でる。全体重をかけたその音の圧力に毛が逆立った。裾から見え隠れする足がペダルを踏む度に、体に印を刻み込まれたような気分だった。彼女の表情を見た。その横顔を、細められた目を、穏やかな口元を、鼻梁を、俺はきっと一生忘れることはない。あの日、は俺の中でピアノと等式で結ばれた。彼女の演奏は美しかった。
だけどそれは、音楽を愛する世界中の人間にとっても同じことだったのだろう。だからこそ、の絶頂期でのこういった形での終焉は、誰も望んではいなかったのだ。
原因不明の指の不調。最初はストレスか何かかと思われていたそれも、日を重ねるごとに世間は関心を失って離れていく。希望ヶ峰学園からも、もしかしたら、いずれ見放されるときが来るかもしれない。現に俺自身も、最初は彼女の落ちた演奏に失望したのだ。
だけど、でも、今、彼女のラフマニノフは静かに俺の心を打っている。めちゃくちゃな演奏が、俺の挙動の一切を封じる。白いドレスの裾がはためいている。目を閉じた。彼女は手を伸ばせば確かにそこにいた。死にかけの神だった。救えるのならば救ってやりたい。世界から見捨てられた彼女が今ここで沈みかけているという事実を知っているのは、きっと俺だけだ。思い上がりだった。ただのエゴだった。は傷ついていると思っていた。支えが必要だと思っていた。あいつを支えて立ち上がらせるのは、昔の彼女を知っている俺であるべきなのではないかとすら思っていたのだ。
けれど。
視界の端で、色素の薄い髪をした、線の細い男が足を止めた。切れ長のつり目が見開かれる。恐らく上級生なのだろう。その男は、数秒ほど俺と同じ窓に目をやり、呼吸を止め、やがてその両手を力なく下げた。その瞬間の表情を窺うことは、俺の位置からはできなかった。だけど、ざわりと胸の中で何かが燻ったような気がした。
俺以外の人間が誰一人として耳を傾けようとしなかったのピアノを、この男は聴いている。たったそれだけのことのはずなのに、どうしてか、やられたと思ったのだ。俺じゃない。血の気が引くと同時に、顔が熱くなった。直感だった。数秒の間を置いて、男は足早に芸術棟の入口へと向かう。俺は、その背中をただ見送っている。
もしもあの時先に駆けだしていたのが俺であったならば、はあんな顔をせずに済んだのだろうか。
それから、があの男と一緒にいる姿を見かけたのは、一度や二度ではすまなかった。
あいつは時間を見つけてはの研究室に入り浸るようになっていた。昼休みに並んでベンチに座ってパンを齧っている姿も見たことがある。仲睦まじく会話する二人に苛立つ俺の視線に気が付いたは、パンを頬張りながらさあっと青ざめた。入学式の直後に感情的な言葉を吐いてしまったせいで、彼女は俺を避けている。俺は、にああいう顔しか、させてやれない。
ある日教室で真っ白な五線ノートを睨んでいたに、舞園が不思議そうに首を傾げた。
「さん、何をしているんですか?」
「あ、さやかちゃん。あのね、今曲を作っていて」
「曲を? ピアノのですか?」
「うん、いつもだったらさくっと作れるんだけど……一回悩み始めたら、深みにはまっちゃって」
あの時、それが何のための曲かを知っているぞと吐き出したら、彼女は、一瞬でも俺の方を見てくれたのだろうか。そういうくだらないもしも話ばかりを考えてしまう。今でも、ずっと。
七十七期生の狛枝凪斗。
苗木と同じ、全国の高校生から抽選で選ばれたという超高校級の幸運という才能を持った男。あいつが何を考えているのかはわからなかった。あの男には関わらない方が賢明だ。嫉妬とか、そういう感情ではなくこれは直感だ。例えあれが選んだ女がでなかったとしても、俺はあいつの皮の下に隠された影を見抜いていただろう。
狛枝はいつも不思議な笑みを携えてを見守っていた。腹の底に何かを持った目をしていた。濁ったどす黒い泥の塊だった。は、そういうものを察することが出来ない。草の一本も生えていない道を、目を瞑って歩いてきた彼女は、人の悪意や害意を知ろうとしない。目を背けて、知らないふりをして笑う、そういう人間だった。狛枝の表面上のつるつるした部分だけを見て、はあいつを信用しきっている。あいつの薄皮の下に隠れた狂気を知らないままでいる。
それでも、のピアノを弾くあの横顔が好きだった。筋の通った鼻も、伏せられた目を縁取っていた長い睫毛も、薄桃色の頬も、世界中の幸福を詰め込んだような唇も、彼女は人を幸せにさせた。かつてのを知っている俺は、だからこそ、彼女を諦めなくてはならない。
狛枝凪斗の隣にいるは、白いドレスを纏ったあの秋よりもずっと美しい笑顔を浮かべていたのだ。例え狛枝凪斗がどんな着ぐるみを被っていようとも、それが彼女の幸福であるならば。俺はそれで良かったはずだった。諦めたはずだ。狛枝のための曲を作り、調子の悪い手首を確認するように回すを、俺ではない他人に恋をしたを、あの笑顔を、だから。
だから、俺は。
「どうしたんですか? 顔色が悪いですよ?」
「え? そう……?」
「はい、何だかぼうっとしていますし……熱でもあるんじゃないですか?」
「そんなことないよ。……あ、でも、最近寒くなってきたから、それのせいかも」
寒いのが苦手なんだ、と、は舞園の言葉に苦笑した。「確かに、この前雪が降りましたものね」と返事をする舞園に、あからさまに安堵したような顔を浮かべるは、隠し事には向いていない。
冬のある日を境に、狛枝凪斗はを避けるようになった。というよりも、狛枝凪斗の姿を、俺が見かけることはなくなった。二人の間に何があったのかは、分からない。そもそも俺は、あの二人がどういう関係であったのかを明確には知らないのだ。お互いに好意を持っているのは明白だったが、恐らく、種類が違った。が抱いていたのが純粋な恋愛感情だったのは間違いない。だが狛枝の方はどうだったのだろう。あの男の目は、いつもの底を探るように鈍く光っていた。
あいつが愛していたのは、自身ではない。あいつのピアノだ。
それを知れば、狛枝凪斗があっさりとを見捨てた理由など、簡単に推測できた。
俺たちが籠った旧校舎の中で、が時折浮かべる暗い表情が、真っ白な五線ノートが、開いた窓の隙間から漏れる、鍵盤を殴りつけるような音が、そうさせた狛枝が、俺の無力さを際立たせる。俺には何もできなかった。声をかけることも、狛枝凪斗の代わりになることも。は人前では決して泣かなかった。弱音を吐くことも膝を折ることも恨み言を吐き出すこともなかった。それでも彼女の指は死んでいく。
冬が終わる頃、一人教室に残っていたを見つけた。一つだけ点いた蛍光灯が、安いスポットライトのように彼女の黒髪を照らしていた。は膨れ上がった鞄を二つ、机の上に乗せて、そこから一冊のノートを取り出した。
ああもう、だから、許してくれ。そういう度胸のない俺を、あいつの前で、普段通りに振舞うことのできない俺を、が、開いたノートの上に大粒の涙を落として、床に膝を付いて、机に突っ伏して泣く。声を押し殺す。何故泣いているんだ、そんな言葉、もうあの春に、とっくに飲み込んで消化してしまった。俺は、足音を立てないように教室から離れる。
あの鞄の中にはきっとの書いた楽譜が詰め込まれていて、それはすべて狛枝凪斗への思いで、一方通行の愛で、はそれを知っていて、打ちのめされていて、俺はその体を支える権利すらない。神に触れることは出来ない。それは、あの一昨年の秋に決まっていた。
俺はを手に入れることはできない。