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見覚えのない天井だった。
「……気が付いたみたいね」
そう言いながら私を覗き込んだのは、見知らぬ綺麗な女の子だ。白い肌にかかる長い髪を、すっきりとした頬を、長い睫毛を、落ち着いたその所作を、私は一つ一つ確かめるように眺めてしまう。私は今しがた希望ヶ峰学園の門をくぐったばかりで、これから入学式に行くところだった。何となく芽生えたような違和感にどこかで会ったことがあっただろうかと思ったけれど、彼女は超高校級の探偵らしい。記憶の限りではお世話になったことはないから、きっと気のせいだろう。
鉄板で覆われた窓も、出入り口のない学園も、私は、何も知らない。他の同級生たちも、突然現れた白黒のクマも、そいつが吐き出す「外に出たければ殺し合え」の言葉も、私は、何も、何も。何も知らないのだと蹲っていれば、私はこの胸の中にある黒い影の正体を思い出さずとも、後悔せずにいられたか。
モノクマに「動機」を与えられ、かつてのクラスメイトと殺しあって、学級裁判で犯人を追いつめて、処刑を見届けて、何度もそれを繰り返して、私たちの頭は一つずつ削ぎ落とされていった。私たちは「彼女」の手の平の上で転がされていた。外の世界には何もなかった。この学園に閉じこもって生きていくことを決めたのは、私たちだった。そういう、常識のようにこの世界を覆っていた絶望を忘れてしまった私たちは、何かを思い出すこともないままに殺し合った。
一番仲良しだったさやかちゃんが刺されて死んだ。彼女を好きだった桑田くんが自己防衛のため殺した。誰よりも優しかった千尋ちゃんが死んだ。一緒に唸って勉強した大和田くんが殴り殺した。面白い話をたくさん知っている山田くんと、行き過ぎなくらいに真面目な石丸くんが死んだ。自分で引いた線を時折踏みつけてしまうセレスちゃんが殺した。いつだって皆のことを一番に考えていたさくらちゃんが死んだ。自殺だった。盾子ちゃんのふりをしていたむくろちゃんも、妹である彼女に裏切られて死んだ。そうやって私たちは皆の亡骸を置いて生きていた。お互いを忘れ、いつ誰に殺されるか、気が狂いそうになりながらも。
生きてきた。生き残った。苗木くんと霧切さんと、十神くんと腐川さん、葵ちゃんと、葉隠くん、そして私だけが、生き残った。最後に現れた盾子ちゃんが私を見て笑ったのを、私はきっと一生忘れられない。この学園を出て、終わってしまったらしい外の世界で生きていくことを決めた私たちの投票で、盾子ちゃんは処刑される。だからあれは呪いの言葉だった。
「でもね、最後に絶望するのはアンタたちのほうなのよ。ね、」
それはほとんど予言めいていた。
盾子ちゃんがいなくなって、ずっと閉鎖されていた外の世界に繋がる分厚い扉が開いた。眼前に広がる世界を目の当たりにして、奪われた記憶の重大さを私たちは知ることになる。
二年前の記憶は何の役にも立つことはなかった。世界は荒廃し、暴力が蔓延り、街の中の死体は珍しいものでもなんでもなく、鼻をつく腐敗臭はこびり付いて簡単に取れることはない。葉隠くんが私の服の裾を掴むから、私は代わりに、一番近くにいた苗木くんの袖を握った。微かに耳を染めた苗木くんの後ろ姿は、私の中で眠ったままの誰かをつついた。
私たち七人は、「未来機関」という組織に保護された。「未来機関」は、希望ヶ峰学園の卒業生を中心に「人類史上最大最悪の絶望的事件」に対抗すべく設立された組織だ。学園を出て早々、「未来機関」に匿ってもらえたのは幸運だった。盾子ちゃんによって全世界に中継されていたというあの学園生活を観ていたからすぐに保護に乗り出せたのだと言う未来機関の人の言葉に、私は、安堵と後悔がないまぜになったような、複雑な気持ちになった。
私たちだけが生き残ったのだ。揺れる車の中で、私は目に溜まった水分が落ちないように、大きく瞬きをする。その隣で、十神くんが小さなため息を吐いたのがなんとなく耳に残った。
「我々に協力してもらえるだろうか」
未来機関の本部という建物に連れて行かれた私たちは、単刀直入に言われた言葉に頷く以外の選択肢を与えられはしなかった。協力するのなら奪われた記憶を取り戻すために全力を尽くそうと、そう言われてしまえば、他に行くあてのない私たちに道はない。
私の家族は、恐らくもういない。コロシアイ学園生活が始まって日が浅い頃、最初の動機だと言って渡されたDVDの中身を思えば。作り物だと信じていたけれど、この世界の惨状を見た以上、二人が無事だとは思えなかった。そうでなかったとしても交通網が消滅してしまった今、実家のある地方都市まで無事に辿りつける自信はない。
契約書にサインを交わした私たちは、正式に未来機関の一員になった。それぞれ配属される支部は後に決定すると言われ、雑務をこなす合間に希望ヶ峰学園の卒業生だというセラピストの女性の治療を受け続けた。
最初に効果が表れたのは葵ちゃんだった。「皆で追いかけっこしてたんだけどね、ちゃんがすぐに転んでた!」と、笑いながら報告してくれた。次に「っち……お前、俺に恋してたべ?」と葉隠くんに言われたので危うく信じそうになったけれど、どうやら私たちは良く会話をしていたというだけの話らしい。腐川さんには「この売女! ああああたしの白夜様に昔っから色目使ってんじゃないわよ!」と肩を揺さぶられたのを丁度十神くんに見つかって、冷たい目で睨まれた。
彼や苗木くん、霧切さんも、あえて治療の成果を私たちに報告することはなかったけれど、着実に記憶を取り戻しているのだろう。私だけが、何も変わらぬまま。あの日々のまま。
私の中には影がある。
階段を降りています。螺旋状の、終わりの見えない底なし沼のような闇を携えた階段です。ボロボロの手すりがありますが、触ると鉄さびがくっつくので、なるべく触れないように一段一段降りていきます。壁はありません。その空間には私と階段だけがぽっかりと浮かんでいます。
降りきって目線を前に向けると、まん丸く開けた光の中に、グランドピアノがありました。そこに棒人間が座ります。唐突に鳴り響くラの音に、私は、鐘だ、と思います。何だかいろいろ、音が足りてないことを考慮すると、これを弾いているのは間違いなく、私なのでしょう。
棒人間の私の弾く鐘は、けれど、ひどく、美しかった。自分の弾いた曲であるはずなのに、私は殴られたようにすら思った。譜面通りではないのに、完璧ではないのに、それは、静かに私の胸を打った。私の指は今も動かない。目に見えての悪化はないけれど、きっともう、あれほどのピアノはもう弾けない。自分の演奏を、私は久しぶりにこうして聴いていた。心臓がどきどきと音を立てていた。棒人間の手首があがる。同時に誰かの拍手が鳴り響く。
光の円の中に現れたのは、真っ黒い影だった。塗り潰された何かだ。黒いマジックで乱暴に消された人だった。その声は加工されたように不安定に揺れていた。「ラフマニノフだね」私はその人を思い出せない。思い出せない思い出せない思い出せない。思い出せない。その人は棒人間の演奏を褒め称えた。饒舌に語るその言葉が私の中から爪を立てていく。がりがり、がりがり、悲鳴のようだった。ごめんね。ごめん、ごめんと、蹲った私が呟く、虫の羽音のような声だった。
「動かない手でこんなにもきれいな曲を生み出せるキミは、奇跡みたいな人だね」
合成された音声の奥で、その声は信じられないほど穏やかだった。
私は汚れていました。誰も救えませんでした。みんなの屍に髪を引かれていました。今もずっと、私はこの線からはみ出ることもできずに、ただ盾子ちゃんの吐き出した呪いの予言を背負ったまま、強くならなければと、誰かのために生きなければと、そういう思い込みをたくさんして自分を鼓舞して、生きて、生きて生きて生きて、前を向かなくてはならなくて。でも、だけど、私の記憶から抜け落ちたあの人は、きっと私の大切な人だった。
愛してくれていた。この人のために生きたかった。私はこの人に支えられていた。マジックが足元から剥げる。男性用の靴の先が見えた。それに触れたくて蹲る。私の手は空を切る。私は彼に触れない。
私は昔、この人の奇跡になれていたのかな。