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世界が終わっていく。私たちは薄い、けれど頑丈な膜に守られていた。外の世界が少しずつ息の根を止められていくのを平和なフィルタの内側でじっと見つめていた。
破壊された街並みはかつての面影を残しておらず、奇妙なお面を被った連中が叫ぶ薄ら寒い平等という言葉も形骸化し、命を奪い合う戦争は終わらない。時代は逆行する。ここにいる私たちだけが守られている。人間の価値は平等じゃないと笑った凪斗くんの柔らかな声が蘇る。
価値のある皆は世界から切り取られた安全な枠の中にいる。ぎゅ、と左腕を掴まれる。震えるさやかちゃんに寄り添って、私はテレビの電源を落とした。彼女の体温は温かかった。この中で生きることを決めた日から随分と長い月日が経っていた。それでも世界は良くなると信じている。まだそう信じている。信じようとしている。
私たちの背後で誰かが笑う。
「アタシね、ぶっちゃけアンタのこと、嫌いなのよねえ」
目を覆っていた布を耳の上で切り落とされた私は、小さく首を傾げる彼女を見上げた。
「ずっと目障りだったんだぁ。絶望的に鬱陶しかったの。方程式も覚束ないくらい手の施しようがない馬鹿のくせに、無駄に前向きでキレイゴトばっかり吐き出して、ブスのくせにヘラヘラ笑ってもう視界に入るだけでお願いだからぐっちゃぐちゃに溶けて骨の一本も残さずに死んでって思ってた。プラス思考も行き過ぎると害悪よね」
ここはどこだろう。旧校舎の構造は長く続いた共同生活で知り尽くしたつもりだったけれど見覚えがない。窓のない小さな小部屋だった。出入り口は重厚な扉が一つだけで、天井には蛍光灯が数本見えるけれど、今は一つも点けられていない。そのせいで視界は薄らぼんやりとしている。私の目の前に仁王立ちするその人の影だけが、黒く塗り潰されたような存在感を放っていた。
「お得意のピアノだってもう指が動かないんだったらさ、さっさと諦めて出て行けばよかったのよ。アンタは外の世界じゃ生きていけないから、一時間で死ねたのに。つーかそもそも、もう治らないのよね、ソレ。松田くんじゃ治せなかったんでしょ? ま、アイツがショボイせいなんだけどさ、超絶天才美少女のアタシだったら治せるかも! なーんて、治してやらねーよ。うぷぷ」
松田くん。何だか聞き覚えのある名前だ、朦朧とした頭で考えてみて、それが私の指を診てくれていた神経学者の松田夜助先輩のことだと気が付いた。無愛想で口が悪い人だった。だけど、最後まで真剣に私の脳を調べてくれた。彼は同時に他のことで頭を悩ませているようであったけれど、結局それが何だったのかは私には想像がつかない。ただ、彼女の口ぶりから、彼女自身が松田先輩と何らかの関係があったらしいことが窺えた。
「超高校級の神経学者にすら匙を投げられたとき、どんな気分だった?」
薄暗い部屋で手足を椅子に縛り付けられた私を、楽しそうに彼女は見下ろす。恍惚とした瞳をしていた。目を逸らした瞬間、頬を殴られた。
「アンタの愛する狛枝センパイにいらないなんて言われてどんな気分だった? 学園長に学園を出て行けって言われたときは? 狛枝センパイがアンタを捨てていなくなったときは? 狛枝センパイが出て行った世界がこーんな風に腐っていくのをみている今は? ねえ? ねえねえねえねえねえ教えてよどんな気分? ねえ、四文字で教えてくれる? 」
狛枝センパイ、彼女がその名前を口にした瞬間目を見開いた私を、彼女は満足そうに微笑んで見つめている。
「どーせ忘れるから教えちゃうけど、外の、世界が、あんなふうに、なったのも、全部、アタシが、やったの! おバカなアンタにもわかりやすいように文節で区切るアタシって優しすぎるわね!」
この部屋は空気が薄い。そのせいか脳に酸素が行きわたらないのだ。視界が時たま大きく揺れて、彼女の大袈裟なツインテールがぼやけた。殴られた頬の痛みも麻痺して分からない。だけど、凪斗くんの名前だけが耳にこびりついている、私の皮膚の内側に鋏を入れられたように思う。
「大変だったのよ、下準備に一年以上かかっちゃったわ。そのせいで犠牲にしちゃった人もいる。本当に大切な人だった。ああ思い出しただけでもゾクゾクする。愛する人をこの手で殺すなんて、絶望的に最高な気分だった。でもね? でもねでもねでもね? これからがもっと最高なの。これからが本番なの! アタシって美味しいものは後にとっておくタイプなのよ。もうそれしかキャラ設定はないの? ってくらいにアホなアンタもこれできっとアタシを満足させてくれると思うのよね」
彼女は、江ノ島盾子ちゃんは、その作り物のように繊細な指を自分の顔の前で絡めて目を細めた。雑誌の中や、学園生活で見てきたどの盾子ちゃんでもないようだった。背筋が粟立つ。自分の置かれた状況も、彼女の言っていることも、私は半分だって理解できていないけれど、それでも、彼女がもう二年間を一緒に過ごしたクラスメイトではないことを、漠然と感じた。
「そうそう、言い忘れてたんだけど、アンタで最後なの」
一際張りのある楽しげな声が、狭い小部屋に反響する。
「これからアンタの記憶を奪うわね、他のヤツラのだ~いじな思い出はもう美味しく頂いちゃったから。ん? 記憶を奪ってどうするかって? 知りたい? 馬鹿なくせに知りたい? うぷぷ、うぷぷぷ、実はね、この学園内で、サイコでポップなコロシアイってやつをやってもらおうと思ってるの」
斬新じゃない? と可愛らしく小首を傾げる盾子ちゃんの言葉が、脳の奥にまで染み渡るのに随分と時間がかかった。殺し合い?反芻しようにも、喉の奥に恐怖心や寒気やらが張りついて声が出ない。この技術は愛する松田くんの研究を発展させたんだけど、と、盾子ちゃんは続ける。
「嘗ては仲良く手を取り合って生きていこうと決めた健気な学生が記憶を失い初対面同様になって疑心暗鬼のまま殺しあうの。それを全世界に放送したりしてさ。世界を覆う絶望は加速していくわけ。ああもう楽しみ! まさか学園長も、この中に元凶となった絶望が紛れ込んでるなんて思わなかったわよね! まあ詳しいことは後で、真っ新になったアンタたちに説明するわ。ね? 面白いでしょ? アンタは忘れるのよ。この学園に入ってからの記憶をぜーんぶ忘れちゃうの。何の変哲もない入学式も、くっだらない運動会も、欠伸が出るくらい退屈だった日常も、クソ寒い中やった雪合戦も、予備学科の大仰なパレードも馬鹿共がアタシの言うことを聞いて呆気なく自殺したことも人類史上最大最悪の絶望的事件の概要も、うぷぷ、うぷ、うぷぷぷぷぷ」
早口で語られる言葉たちはどれもが夢物語のようだった。だけど私は、彼女の言うそれが妄想の類ではないことを既に察している。
全てを見てきたかのように話す彼女は、まるで、一国の主か、もしくは、神のようだった。彼女が、私の頬を鷲掴みにする。赤く塗られた爪が、綺麗だった。私は、盾子ちゃんが好きだった。いつも明るくて元気で背筋が伸びていて、自信に満ち溢れていた人だった。 だけど、今目の前でうっとりと目を細めて微笑んでいる彼女は盾子ちゃんじゃない。もしかしたらこれは飽きっぽい彼女による暇つぶしの道楽で、ただの演技なのかもしれない、そう思えたら楽だった。頬に爪が食い込んでいく。夢ではないと現実を叩きつけられる。
怖い。怖いけれど、でも、こんなところで負けたら、私はもう二度と凪斗くんに向き合えなくなる。そっちのほうが、ずっとずっと、怖いのだ。
頬を掴まれたまま彼女の目をじっと見据えたら、盾子ちゃんはすっと表情を失くした。丁寧にマスカラの塗られた長い睫毛が私の眼球に刺さるほどの距離で、彼女は舌打ちをする。「その目よ」と、吐き捨てる。
「アンタのそういう顔が嫌いだった。バカみたいに真っ直ぐで諦めない目。何かを信じ切っている目。アンタをいの一番に絶望させたい。アンタを一目見たときからずっとそう思ってた。だから今までいろんな手でアンタを絶望させようとしてきた。都合の良いことにアンタの指は勝手に終わってたからそれを利用することにしたの。あ、言っとくけど松田くんがアンタを治せなかったのは本当よ? 流石に松田くんもそこまで鬼じゃないわよ、鬼みたいに口が悪いけどさ。でも誤算だったのは、アンタが思った以上にピアノに執着していなかったことね。それしかないくせにアンタはピアノが弾けなくなっても良いって笑ってた。アタシがアンタ以上にピアノを弾きこなしても、すごいねって素直に感心してた。一番面倒なタイプよ。奪うものがないんだから。だけどアンタには唯一弱みがあった。狛枝凪斗。アイツがアンタを徹底的に嫌って貶めてボロ雑巾みたいに捨てちゃえば、アンタは簡単に絶望するはずだった。なのにさあ、なんなの? なんだっていうの?」
ぎち、と皮膚が音を立てる。眉を顰めて痛みに耐える私を、盾子ちゃんは何の感情もない静かな瞳で見下ろしている。
「何で絶望しないの? 狛枝凪斗が戻ってくると思ってるの? 戻ってくるわけないじゃん? アンタみたいな女、ピアノがなかったらどこにでもいる女子高生よ? だからいらないって言われたのよ? だから置いて行かれたのよ? だから今アンタは一人なのよ? ねえ絶望しないの? 狛枝をアンタの目の前で殺したら絶望する? 今から連れてくる? アンタが殺す? そしたら絶望する?」
頬を掴んでいた指が緩められて、そのまま両目を覆われた。暗くなった視界の中、何故だか息苦しさを覚えて、私は目を見開く。女の子のものとは思えないほどの力がその手に込められる。椅子がそのまま後ろに倒れてしまいそうになるけれど、背後に広がる壁が、それを拒んだ。
「まあ、それはいつか機会があったらやってみるわ。万が一、億が一ね、アンタがこのコロシアイを生き抜く可能性だってないわけじゃないしね。その前に、狛枝凪斗を忘れたアンタがそのまんま死ぬってことの方があり得そうだし。ねえ、アンタはこれからぜーんぶ忘れるのよ。狛枝凪斗と出会った春も、アンタが弾いたラフマニノフも、アイツの吐き出した少女漫画の王子様みたいな寒い言葉も、仲良く並んで食べたサンドイッチの味も、アイツが好きだって言った腑抜けた曲も、アンタが大切にしてる思い出、全部全部アタシが奪ってあげる」
反射的に息を呑んだ。私の中から凪斗くんがいなくなる。全てを奪われる。私の前に凪斗くんが現れた日の、何よりも大切な記憶。ラフマニノフ。鐘。私が好きだったアジタート。よくそんなに指が動くねと感心されたこと。私の動かない左手に添えられた彼の手は冷たくて「温めれば動くんじゃないかなって」と言われて、恥ずかしくて、誤魔化すように「凪斗くんの手、冷たいから、冷たくなっちゃうよ」と、笑った。簡単な曲でも、キミが弾くとまるで魔法みたいに綺麗に聞こえるんだと言ってくれた。傍にいてくれた。誰からも見放された私の傍に。
一年足らずでしかなかったけれど、彼と過ごした日々は、私の宝物だ。捨てようとしてもやっぱり諦められなくて、私はいつまでも縋っていて、この気持ちがあるからこんな世界でも、生きていられる。なのに、それを私は全部、奪われるのか。
「コロシアイの中継を見て、狛枝凪斗はどう思うのかしらね」
私はどんな顔をしていたのだろう。顔を覆う盾子ちゃんにもそれは分からなかったはずなのに、その手の向こうで彼女が笑ったのが、その呼吸で分かった。暗くなる。私の中から静かに音が消えていく。凪斗くんは、何とも思わないかもしれない、私が殺されても、何があっても、あなたを忘れてしまっても。だけど、それでも私はあなたを離したくないのだ、凪斗くん。消えないで。
たすけて。
「アンタを絶望させてあげる」
学園を出ていく凪斗くんの後ろ姿が、踵から静かに消えていく。彼は振り向かなかった。そう思っていた。だけど、腰が溶けて、肩甲骨が薄くなる頃、彼は確かに振り向いて私を見た。私は彼の揺らいだ瞳を見つめていた。彼は何か言いかけて、目を細めて、それから笑った。訳がわからなかった。手を伸ばす。凪斗くんが半透明になる。ゴミ袋に入れられる。私の中から、失われていく。そうして全てを忘れた私たちのコロシアイは、始まる。
彼は今、どこかで、目を覚ました私を見ているだろうか。あれ、でも、彼って、誰だっけ。