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十神くんは週に何度か音楽室にやって来ては扉に背を預けて、腕を組んだままじっと私のピアノを聴いていた。彼は何も言わずにいてくれた。目線を合わせることもほとんどなかった。彼は数十分ほどそうしていると、来た時と同じように無言で音楽室を出て行く。それは決まって私の指の調子が悪くなる頃だった。私が凪斗くんを思い出して、目尻の奥を僅かに滲ませる頃だった。
十神くんは、私を気にかけてくれている。だけど、私はそれに応えることができない。
「おい」
ある日、いつものようにピアノを弾いているところを唐突に声をかけられた。
曲と曲の合間のほんの僅かな隙をついた十神くんに面食らって、私は思わず彼の方に視線をやる。私たちがこの旧校舎に立て籠もってから数か月が経っていた。テレビに映る外の世界情勢は学園に籠る前よりも悪化していく一方で、比較的前向きな私たちも、明るい表情ばかりを浮かべてはいられなくなりつつある。それでも協力し合ってここでの生活を続ける私たちを、十神くんは愚かだと思っているのだろうか。彼は、いつもどこか不機嫌そうな顔をしていた。音楽室以外では滅多に顔を合わすことがない私たちは、お互いの考えを理解するまでには至らない。組んだ腕はそのままに、彼は顎を引いて私に目線を合わせず呟く。
「……以前弾いていた曲は弾かないのか?」
「……え?」
首を傾げた私に苛立ったように顔をあげた十神くんは、あからさまに眉を寄せた。
「前に弾いていた? ……なんだろう?」
「曲名など知らん。俺の知らぬ作曲家のものかと一度調べてみたが、結局分からなかった」
ざわりと胸の中でなにかが蠢いて、白と黒の鍵盤に視線を落とす。彼が言いたいことを察した私は、背中にのしかかる重たい空気に耐えられなくて、震える指でドのシャープを叩く。
「……ああ、そうだ、その音から始まる曲だった」
十神くんに対して、どこかに行ってほしいとは思わなかった。でも、お願いだからどっか行って凪斗くん。そうでないと泣いてしまう。わたしはその時確かに、そう思ったのだ。一緒に生きてきた指が震える。今日もきれいな曲だった。いい加減名前で呼んでよ。ハチャトゥリアンのワルツ曲に似ているね。また来てもいいかな。
「ボクは、狛枝凪斗。キミは?」
巻き戻る、連れて行かれる、腕を引かれる。私は、いつまでも引きずられている。もういないのに。私は置いて行かれたのに。この指は希望にはなれなかったのに。彼にとっての絶望だったのに。
「あれは、が作った曲か?」
十神くんの背後から、凪斗くんの亡霊が消えない。笑った顔は薄れているのに、声だけがこびりついている。差し出された手が消えない。いつまでも、いつまでも。あの日からずっと。
春だった。まだ入学してから日の浅い私が与えられた、二台のピアノがある広すぎる研究室。真新しいグランドピアノは光沢を放って、椅子に座った私の顔が譜面台に反射する。背後の棚に並べた楽譜を取り出す気にもならず、目を瞑って左手で鍵盤を選んだ。ラ。ペダルを踏む。音が低く響いていく。気分が乗らない時は、いつもそうして気まぐれに曲を決めていた。ラなら鐘だ。指の調子は今ほど深刻ではなく、痛みを我慢すればそれなりの形で演奏することは可能だった。
動かない指が届かない部分はアレンジしてしまう。譜面通りの演奏を要求されるコンクールだったら一発で落とされる。だけどもう昔のように弾くことなんて私にはできないから、好き勝手に手を加える。極端なアジタート。せき込むように走らせる。終盤にかけての重厚な音の重なりが原曲通りに弾けないのがもどかしい。それでも最後の和音をピアニシシモで終えて、短い息を吐いたその瞬間だった。私以外に誰もいなかったはずの室内に、乾いた拍手が響き渡ったのは。
「ラフマニノフだね」
悲鳴をあげて口元を抑える。男の人だった。年齢は私とそう変わらないように見えたけれど、初対面には違いない。制服を着ているから、ここの学生ではあるのだろうけれど。彼は目を細め、首を傾げて微笑んだ。色素の薄い肌や髪が窓からの光で透けて、儚く見えた。春の光に溶けて消えてしまうその寸前であるようにすら思えたのだった。
「外を歩いていたらピアノの音が聴こえたから、つい来ちゃったんだ」
びっくりさせたよね、と固まる私に彼は言うから、私は素直に頷く。
いつから部屋にいたのだろう。夢中になっていて全く気が付かなかった。目線だけを動かして、一番端の窓が全開になっていることに気が付いた私の口から、あ、と声が漏れる。
「わ、私、窓を閉め忘れていたんですね、ご、ごめんなさい……」
「いや、ボクからしたら幸運だったよ。おかげでこんなに素晴らしい演奏が聴けたんだから」
入学式からここまで見かけた覚えがないということは、この人はきっと先輩だ。彼の吐き出す随分とオーバーなお世辞にお礼を言いながら、自然と体を強張らせる。
「すごく良い演奏だった。心を打たれる……っていうのかな、なんて言ったらいいか分からないんだけど、ピアノってこんな風な音も出るんだね。弾き手の感情がそのまま表れているようだった。さすが希望ヶ峰学園に選ばれるだけのことはあるよ。キミ、新入生?」
ラフマニノフをあんな風に弾く人は初めてだと饒舌に語る彼は、私の座るグランドピアノの隣に立つ。間近で見ると、彼が随分と整った、女の人のような顔立ちをしていることに気が付いた。柔らかそうな髪も長い睫毛も、細すぎる体つきも長い手足も、まるで精巧な人形のようだった。男の人にとっては、それは決して褒め言葉ではないのかもしれないけれど。
「アレンジしてたよね? あれが良かったよ、何だか新鮮だった。わざとああしたの?」
「あ、いえ、その……実は、今左手の調子が良くなくて、指がちゃんと動かないんです、だから、和音が上手く弾けなくて」
「え?」
指を撫でる私に、彼は目を見開いた。「動かないの?」私の指を覆う右手ごと、彼の手が包み込む。その手の平の冷たさに、体中の血が音を立てた。咄嗟に見上げた彼の瞳は海のように深くて、薄い唇は少しも荒れていなくて細い指先は私のそれよりずっと繊細で。
彼はやがて、その手に触れたまま私の濁った瞳を見つめ、双眸を細めた。心臓が大きく鳴る。私は彼に捕われた。頬が熱を持っていく。呪いにも似ていた。私は縫いとめられた。見つけてしまった。この世界に溢れているはずのきれいなもの、ピアノがなくなってもそれでも生きていかなければいけない私が最初に見つけた執着。全てのものに見捨てられた私を美しいと言ってくれた人。
「動かない手でこんなにもきれいな曲を生み出せるキミは、奇跡みたいな人だね」
あなたは私の神様だ。
十神くんは黙ったままの私に、最後には短い息を吐いた。彼は一体どこまで知っていたのだろう。その唇から出た言葉に、私は動揺を押し殺す。
「……貴様は、まだあの男に捕われたままなのか」
私を奇跡みたいだと言った人は、もうどこにもいない。二度と会えないかもしれない。私はここで生きていかなくてはいけなくて、だから私もまた彼を捨てなくてはいけなくて、虚勢を張って、この閉鎖的な、空の欠片も見えない学園で彼に届かないピアノを弾く。わかっていたのだ、それくらい。
だから十神くんに縋ったって何の意味もない。彼に泣きついたって惨めになるだけだ。弱さを見せて頼って、それで一体、何になるのだろう。傷の舐めあいは、私を少しでも癒してくれるのか。返事の代わりに、もう一度、ドのシャープを弾いた。動かしてすらいない左手の薬指が鈍く痛んだ。四月に作ったイ長調の楽曲。私の網膜に彼はいる。
「あの曲は、もう、弾かないの」
彼に笑ってほしかったから作ったのだ。唸って悩んで何冊もノートをダメにして、クマを作って休み時間を潰して、それでも楽しかった。全部あの人のためだった。私の隣に立つ彼が息を飲む瞬間が好きだった。あなたの海が煌めくのが好きだった。でももう、意味がなくなってしまった。十神くんが目を伏せる。凪斗くんの後ろ姿が霞んでいく。手を伸ばしても私はもう、何も掴めない。
迷子なのは、私の方だ。