58
予備学科生が起こした「希望ヶ峰学園史上最大最悪の事件」をきっかけに生じたデモは学園内に留まらず、ネットを経由して世界中へと広まっていった。当初は社会不安からくるデモ活動に過ぎなかった運動も、徐々にその異常性を増大させていく。
世界は呆気なく終わってしまった。暴力や破壊活動が横行し、多くの死者が出た。各地で勃発したテロやクーデターが戦争へと形を変えていくのに時間はかからず、それらは収束に向かう気配を見せない。人々は絶望する。ただの学生運動がここまでの事件になることなど、誰が予想できただろう。裏で動いていた人間の思惑を知ったのは、もう何もかもが手遅れになった後だった。そうして、「人類史上最大最悪の絶望的事件」は、全ての人間を破滅へと導いていく。
そもそもの発端となった希望ヶ峰学園のパレードを先導した二千人余りの予備学科生たちは自殺した。多くの本科生も学園を出て行った。どこか虚ろな目をしていた彼らがその後どうなったのかを、私は知らない。凪斗くんの行方すら、知りようがなかった。
事件が深刻化して手が付けられなくなった頃、唯一学園に留まっていた七十八期生、十七人の生徒は、学園長に呼び出された。世界が絶望に堕ちていく中、私のクラスの皆は誰一人希望を捨てようとはしなかった。中には虚勢を張っていただけの人もいたかもしれないけれど、元々楽観的な性格の人間が多かったクラスだったせいか、私たちは絶望的な状況でもお互いを励ましあって、その日まで協力し合って生きていたのだ。
「この学園に残って生きていく覚悟はあるか?」
世界はいつか再生に向かうと信じていると、学園長は言った。その時、世界の「希望」になる希望ヶ峰学園の生徒は、生きてその力にならねばならないのだとも。腕の動かない私は、その「希望」には数えられてはいなかったかもしれない。けれど、それでも私はこの学園に残ることを選んだ。
生き残らなければいけなかった。生きていなければあの人に二度と会えないと知っていた。言葉もなく見送る私を一瞥すらせずに置いて行った人。彼は私と出会ったことを絶望だと言った。
凪斗くん。
彼と離れてから数カ月。あの笑顔が脳から薄れてきていることが、私は恐ろしい。
私たち十七人は、使われていない旧校舎に立て籠もることになった。所謂シェルター化計画だ。
外部から侵入されないようにと、ありとあらゆる窓や扉を鉄板で塞いだ。外の世界には当分出ることは出来ない。食料や日用品は外部の支援者から定期的に届けられることになっているらしいけれど、それでも言いようのない不安は尽きなかった。
「さん、代わろうか?」
トンカチを握ったままくすんだ四角い空を見上げていた私に、苗木くんがそう声をかける。苗木くんは優しい。凪斗くんと同じ、超高校級の幸運と言う才能を彼は持つけれど、きっと凪斗くんのように不運と幸運とが悪い意味でバランスを取ってしまうタイプではないのだろう。彼の周りはいつも柔らかな空気に満ちていた。だけどその穏やかなその瞳が、どことなく凪斗くんに似ているから、私は彼を前にするとどうしたら良いか分からなくなってしまうのだ。
「ううん、大丈夫」
最後の窓を塞ぐ。切り取られた空はそれでなくなってしまう。凪斗くんは今頃どこで何をしているかな。私のことなどとうに忘れてしまったか。希望ヶ峰学園ではなく、荒れ果てた外の世界を選んだ彼は、私がいなくて幸せだと笑っているのかな。もう会えないなら、忘れるしかないのか。
忘れられるか。
だけど、忘れたふりだけでもしなければ、きっと私はまともに歩くこともできない。
彼が私に背を向けてから、もうすぐ一年が経つ。旧校舎に閉じこもってから私の髪は少しだけ伸びて、ちょっぴり痩せた。下らない冗談に声をあげて笑うこともあったけれど、ふとした時に胸に十本分くらいの芯が刺さったような感覚に陥る頻度は増えるばかりだ。笑顔を作るのが上手くなった。誰にも見破られていないと思っていた。
葉隠くんが私の頭をどつく。私も笑いながら彼に体当たりする。千尋ちゃんからパソコンの使い方を教えてもらう。電源の付け方と落とし方を覚える。葵ちゃんとさくらちゃんと鬼ごっこをする。二秒で捕まる。桑田くんの突拍子もない話をさやかちゃんと聞いてみる。さやかちゃんを口説こうとしていることがわかったので二人で逃げた。山田くんの描いたイラストに色を塗る。意外とセンスが無いのですねとセレスちゃんに笑われる。盾子ちゃんにお化粧をしてもらう。似合わな過ぎて普段めったに笑わないむくろちゃんが苦笑する。霧切さんに勧められた本を読む。分からない言葉が多すぎて困ったので、迷惑そうな顔をした腐川さんに辞書を借りる。簡単な計算につまる私と大和田くんを見かねた石丸くんが、半ば強制的に勉強会を開く。やっぱり数学は難しい。時間だけはたくさんあるから、中学生のあたりから復習することにした。苗木くんは誰よりも皆に気を配ってくれるからとても温かい気持ちになるのだけれど、あの人の影がちらついて悲しくなるから、私は彼を、ほんのちょっぴり、小さじ一杯分くらいの気持ちで、避けている。
そうして私は今日も真っ直ぐ歩いているふりをする。
旧校舎の音楽室にあるグランドピアノは年代物だったけれどそれなりに手入れはされていて、狂いかけていた調律を直したら充分に弾くことは可能だった。私の左手は相変わらず動きが鈍いけれど、それでも凪斗くんと一緒にいたときに弾いた曲たちは、忘れることができなかった。
防音の施された床や壁や天井がちらちらと視界に映りこんで、凪斗くんの存在を色濃くさせる。凪斗くんが隣に立っているような気がして、胸の奥をぎゅうぎゅうに絞られたようだった。
私が弾くのは、専ら児童向けの簡単な曲だけになっていた。特定の指を使うことを避けた、自分のために作った曲ならば恐らく弾くことはできたろうけれど、弾かなかった。音楽室から悲壮な顔をした私が出てくるなんてことはあってはならない。私は能天気な明るい女の子でいなくてはならない。そうでないと皆が心配するから。優しい皆が私を気遣って、心を痛めてしまうから。
だから私は凪斗くんのことは思い出さない方が良い。外の世界に未練なんてないほうがいい。あの鉄板で最後の窓を塞いだ瞬間に、私はもう忘れるべきだった。でも、だけど、私の網膜に焼き付いた凪斗くんの後ろ姿が、見送るばかりだったその背中が、簡単に剥がれてくれることなんてない。いくら彼の表情が脳から消えて行こうとしていても、それでもあの後ろ姿だけは鮮明だった。私は凪斗くんが好きだった。大切だった。尊い人だと知っていた。ずっと一緒にいたかった。私の隣にいて欲しかった。例え、この指がなに一つ残っていなかったとしても。それでも、凪斗くんに傍にいてほしかった。
奏でる曲の速度が、知らないうちに速くなっていく。アダージョからアンダンテ、最後には、プレスト。終盤に差し掛かる頃、半ば拳を叩きつけるように鍵盤から手を離した。ぼとりと太腿に液体が落ちるので、汗だと思って拭い取る。
鼻の奥が熱を持って痛んだ。瞳を開いたら、粒になったそれがスカートを染めた。動かない指が痛くてたまらなくて、爪を刺す。凪斗くんの言葉が脳内で反芻する。「キミは」「キミはピアノを」
「惨めだな」
不意に声をかけられて、私は顔をあげた。閉め切った音楽室の扉に寄りかかって腕を組む彼は、小さくため息を吐いてから、吐き捨てるように「聞くに堪えない」とだけ呟く。眼鏡の奥の鋭い瞳と目が合った。超高校級の御曹司、十神白夜くん。ここで過ごすようになってからも、彼はいつも一人で図書室に籠っていた。だから、こうして会話をするのは随分と久しぶりだ。私は制服の袖で涙を拭うと、もう一度十神くんの整った顔を見た。彼は扉の傍から一歩も動こうとはしない。
「左手が動かないというだけで、こうも演奏の腕は落ちるものなのか」
黙ったままの私に、幾分かの沈黙の後彼は短くため息を吐く。伏せられた睫毛が揺れる。「まぁいい」呟いた十神くんは私に背を向けて、扉のノブに手をかけた。一連の動作をただ見守っていると、十神くんは、開いた扉の重たい音にまぎれるほどの声量で、言う。
「……気が向いたら、また聴きにくる」
扉が閉められると、音楽室は再び静寂に包まれた。私は視線を鍵盤の上に戻して、右手の人差し指で適当な音を奏でる。また聴きにくるって、どうしてだろう。ぼんやりと、十神くんの言葉の真意を考える。十神くんは、入学当初から私を毛嫌いしていたはずだった。中学時代から一応は名の知れていた私に、恐らく理想を抱いていた彼は、頭の足りないレベルではないに幻滅したと吐き捨てた。これ以上口をきくなと言われたので、彼とはほとんど話すことすらなかったのだ。それなのに何故今更、だめになった私のピアノを、彼はわざわざ聴こうというのだろう。
鍵盤の蓋を、そっと閉める。額をつけて、そのひんやりとした感覚に目を閉じる。凪斗くんの手の平みたいだった。私は十神くんの意図を、優しさの理由を、本当はもうこの時に気が付いていた。気が付いていたのに、痛かったから、見ないふりをした。
縋りついたら楽だったのだろうか。私はけれど、彼の背中にあの人を重ねることすらできない。