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 四つの監視カメラが稼働する、剥き出しのアスファルトに囲まれた寒々しい部屋だった。
 その人は項垂れるように部屋の隅に足を抱えて座っていた。記憶の中よりも伸びた前髪のせいで俯いたその表情を窺うことはできなかったけれど、その骨格や、雰囲気や存在感は間違いなく、私が忘れていたその人であった。それを認識した瞬間、反射的に眩暈がした。吐き気に襲われて、耳の奥で音が鳴る。泣き出したくてたまらなかった。扉を一枚隔てた外に十神くんが待機していなければ、監視カメラの向こうで苗木くんたちが見守っていなければ、私はきっと泣いていた。
 浅い呼吸を吐いてから、何の反応も示そうとしない彼に一歩だけ近づく。地下の室内には外光が入らず、電気を点けていてもどこか薄暗い。上手く動かすことのできない左手を握りしめる。彼は、立てた片膝に右腕を乗せたまま、微動だにしなかった。
 狛枝凪斗。生き残った絶望の人。



「あの十五人が『絶望の残党』であることは間違いないよ」



 最初の面談から数日が経って、詳しい取り調べを終えた苗木くんが苦々しい表情でそう告げた。そう広くはない会議室には、私たち七人の他に誰もいない。壇上に立つ苗木くんから、私はそっと目を逸らす。足元の絨毯は、薄汚れてしまっていた。
 未来機関が保護した十五人の人物は、確かにかつての希望ヶ峰学園の生徒であった。七十七期生。何度か校舎ですれ違ったことがあるし、何人かは話をしたこともある。気さくな人たちだった。そう葵ちゃんが漏らした。
 しかし彼らは、江ノ島盾子の絶望の影響を色濃く受けていた。彼らは私たちの先輩でありながら、同時に「絶望の残党」でもあったのだ。あの日の罪木先輩を思い出すだけで、背筋がぞくりと粟立つ。このタイミングで一斉に未来機関に保護を求めた彼らが、何を考えているのか、圧倒的に情報の少ない現時点で把握することは難しかった。
 本部からは進捗状況の確認のためのメールがひっきりなしに届いているらしい。三日で終わる予定であった取り調べが、何の報告もないままに長引いているのだ。そろそろ本部の人間が異常に勘付くころだろう。そう説明した上で、苗木くんが両手を資料の山積みになった机の上に置いた。その音に反応して彼の瞳を見る。真っ直ぐな、痛いくらいに強い、美しい目をしていた。



「ありのままを本部に報告すれば……きっと彼らは殺される」



 空気が張りつめる。「……でも、それもしょうがねえんじゃねえのか?」葉隠くんがぽつりと呟いた声に、私は瞬きを一つすることしかできない。



「危険な人間を消したいっつーのは、未来機関としても、人類としても当然だべ? 大体、保護してほしい~とか言って何か罠に嵌めるつもりかもしれねえって俺の第六感が言ってるべ!」

「え、で、でも、先輩だよ? 私、知ってる先輩いっぱいいるよ、見殺しにするってこと?」

「だからあいつらは『絶望』なんだろ? もう朝日奈っちの知ってる先輩とは違うんだべ!」

「わ、分かってるけど、でもそんな言い方しなくたって!」

「あ、ごめん、ちょっと聞いてくれるかな?」



 葵ちゃんが声を荒げたのを見計らって、壇上に立つ苗木くんが片手をあげた。彼は、諍いを止めるタイミングを見極めるのが上手い。無意識に噛みしめていた唇から、錆びたような味がした。冷静でいるつもりだった。そういうお面を被っているつもりだった。だけど苗木くんは、皆を見回した後、最後に私を見て、優しく安心させるように笑ってくれた。だから、私はもしかしたら自分が思っていたよりも酷い顔をしていたのかもしれない。



「実は、今後の方針はもう決まっているんだ。十神くんと霧切さんと話し合ってね。事後報告になっちゃうけど、聞いてくれるかな?」



 苗木くんは分厚いファイルから数枚の資料を抜きとった。一部ずつ私たちに配って回る苗木くんの顔を間近から見上げたとき、彼の目の下に濃いクマが出来ていることに気が付いた。彼によって手元に渡ってきたその資料には、「新世界プログラム」と書かれてある。
 私は「彼」と、話がしたかった。そればかりを考えていた。








「……お久しぶりです」



 どんなに普段通りにしようと思っても、声だけは微かに震えた。



です。……今は、未来機関に所属しています」



 彼は身じろぎの一つもしなかった。微かに上下する肩が、呼吸をしていることを告げてくれた。



「だけど、今日は、未来機関としてでなくて……個人的に、ここに来ました」



 絶望に染まった人間は何をしでかしても不思議ではないと言った十神くんの言葉を思い出す。いくら身体検査を徹底していても、いくらこの部屋に武器になるものがなくても、彼らはその気になれば平気で人を殺せるし、自分も傷つける。彼は、もう、昔の狛枝凪斗ではない。
 だけど、それでも引くつもりのない私の我儘を、彼は最終的には受け入れてくれた。苗木くんが監視カメラ越しに様子を見ること、そして何かあればすぐに十神くんが部屋に踏み込むことを条件に、「彼」と二人きりになることを許してくれたのだ。
 頭を下げた私に十神くんは短い息を吐いた。呆れたような、悲しいような、苛立ったような、その全てを細かく刻んで混ぜ込んで、最後に笑うことで誤魔化したような、そんな呼吸音だった。



「……いいから、早く行け」



 情報室と繋がったインカムを耳につけながら呟く彼は、私と視線を合わせることをしなかった。








 二年以上、彼とは会っていなかった。それどころか、つい最近まで彼は記憶の底に埋もれていた。私は彼の名前を思い出せず、彼の存在を切り取られ、未消化のままに生きていた。会いたかった。会いたかった、会いたかったずっと、記憶を奪われる前の私は、彼のことばかりを考えていた。そして今、私はこうして狛枝凪斗の前に立っている。私に背を向けて学園を出て行った人は、外の世界で命を落とすことのないまま、こうしてここにいる。左手が鈍く痛んだ。何と言えばいいのか分からなかった。それどころか、彼を何と呼べばいいのかも分からなかったのだ。
 凪斗くん、狛枝くん、狛枝先輩。私たちの過ごした日々が逆再生される。最初は「狛枝先輩」だった。そんなふうに呼ばれるのは慣れていないからと、敬語と一緒にやめるように言われたのは出会ってからすぐのことだった。仕方がないから「狛枝くん」と呼ぶようになった。だけど彼はそれも気に入らなかったらしい。「いい加減、名前で呼んでよ」あれは、いつだっただろう。彼の傾いた首の角度や細められた瞳のことはよく覚えているのに、肝心なことが思い出せない。
 彼は私に失望したと言った。積み上げてきた信頼はきっともう彼の中に残っていないのだろう。そう思うからこそ私は、彼の名前を呼ぶことができない。そう思っていた。なのに、なのに彼は。



さん」



 彼は私を呼んだのだ。瞬間、弾かれたように彼の方を見た。彼は項垂れたままの姿勢で、顔をあげることもその腕を動かすこともないまま、静かに、消え入るような声でそっと囁く。私はその一音一音を聞き逃さないように、呼吸を、瞬きを、やめた。



「ボクが昔、キミと出会ったのは幸運じゃなくて不運だったと言ったことを、覚えている?」



 罰だと思った。責められても仕方がないと知っていた。知っていたから、涙も流れなかった。



「わかったんだ」



 凪斗くんがゆっくりと顔をあげる。前髪の隙間から見えたのは、私の良く知る柔らかな瞳ではなかった。酷く濁って見えた。どこか大人びたその声色は低く耳に響いた。私を捉えた凪斗くんは、昔のように首を傾げて、それからそっと微笑む。初めて会ったときよりも成長した顔立ちで、初めて会ったときと同じ表情を浮かべる彼は、まるで心だけが動きをやめてしまった透明な容器のようだった。ちぐはぐなまま彼は笑う。不自然なまま、そこにいる。



「ずっと考えていたんだ。コロシアイ学園生活も、テレビで見ていた。キミのことをずっと見ていた。キミが生き抜く姿を見ていた。だからこそ、ボクは一つの結論に達したんだよ」



 訪れる幸運の前に必ず不運を引き寄せると、かつての凪斗くんの言葉が頭を過ぎる。口元を笑みの形にさせた凪斗くんは、右手だけを大きく広げた。私は身じろぎもできなかった。ただ、鼓動だけがやけに煩かった。



「そして分かったんだよ。キミと出会ったのは、不運でも、ましてや絶望なんかでもなかった」



 限界まで見開いた目が、痛い。いや、それよりもじくじくと痛むのは、この左手だ。鍵盤を叩きつけて、声をあげて泣いた、過去の私だ。



「ボクがキミと出会ったのも、キミのピアノをずっと傍で聴いていられたのも、そしてたくさんの曲をキミが生み出したことも、すべて、すべて幸運だった。その代償の不運はもうずっと前に訪れていたんだ」



 ずっと大切にしていた言葉がある。黒く塗りつぶされた人が私に与えてくれた言葉だ。だから私は恋をした。それだけで生きていける気がした。例え明日この手が動かなくなったとしても、評論家でも音楽家でもない、ピアノとは縁のない生活を送ってきた人が私にくれたその言葉だけで、ピアノを弾いて生きてきた十余年を、肯定された気がしたのだ。誰かの心を動かせた、それがあなただった。それだけで。あれは餞の言葉だった。だからもういつ終わっても良かった。



「動かない手でこんなにもきれいな曲を生み出せるキミは、奇跡みたいな人だね」



 あのときと同じ声で、抑揚で、表情で仕草で、彼は私に言った。



「キミの左手がそうなったのはボクの才能のせいなんだ」



 凪斗くんが、ずっと折り曲げていた足に隠していた左腕を持ち上げる。私の耳は彼の声を受け入れているはずなのに、彼がその中続けた言葉が上手く飲み込めない。彼のそれは、暗がりでよく見えなかった。だけどそれでも私はもっと早くに気が付くべきだった。
 そこにあるのは彼の左手ではなかった。細い指も、けれど骨ばった甲も、青く透けていた血管もそこにはない。私の愛した彼のそれのかわりに縫い付けられていた、手首が。



「だからボクは、罰を受けなくちゃいけなかったんだ」



 爪に真っ赤なマニキュアが塗られた日焼けのない女の人のそれを、私は見たことがあった。
 悲鳴を呑みこんで、半開きになった唇から酸素を取り込む。必死で思考を巡らせる。狛枝くんの言葉の真意を探ろうとして、けれど、あの手に頬を掴まれたことを思い出す。あの手だった。私はあの手に、彼を奪われた。



「……盾子ちゃん?」



 凪斗くんの笑みが深くなる。皺が刻まれる。だから、だから、罰だと言ったのだ。



「この左手、動かないんだ。これで、お揃いだね」



 彼は無邪気に笑っていた。


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