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私はあなたが羨ましかった。優しくて真っ直ぐで、少しだけ強かで泣き虫な女の子のあなたが。
自分は頭が悪いと言って笑うあなたは、けれどよく周囲を観察する人だった。驚くくらいに他人の感情に揺り動かされる人だった。感受性の数値が、きっと私のそれとは違うのだろう。ゲーム画面の切り替えで液晶が暗転した瞬間、そこに映った私の顔は、いつもほとんど変化がない。
辺古山さんが処刑された時、あなたが彼女の手を取って泣いたのを、私はどうしてだろうと思った。どうしてこの人が泣く必要があるのだろう。辺古山さんとも九頭龍くんとも特別親しくしていなかったはずのこの人はどうして仲の良かった小泉さんを殺されて、あんなふうに、辺古山さんのために泣けるのだろう。ぽんこつな私には、それがまだわからない。
感情が豊かなあなたといるのは、正直楽ではなかった。私はあなたと話をするのに体力とか精神力といった諸々の力を消耗したし、返答に詰まって上手く会話を繋げられないことだって少なくなかった。でもあなたは笑ったり泣いたり困ったり考えたり忙しいから、私も、とても楽しかったのだ。私はあなたのような人になりたかった。記憶をなくしていても、真っ直ぐ立っていられる人に。好きな人を、きちんと愛せる人に。何度やり直しても、同じ道を選ぶ人に。
だから私はあなたの隣にいたんだよ。
自殺と断定された狛枝くんの死には、不審な点が多かった。
彼の死因がはっきりしないのもその一つだ。モノクマファイルに死因が記載されていなかったせいで、私たちは彼のお腹に突き刺さった、ネズミー城の壁にかけられていた巨大な槍による怪我が致命傷だと決めつけていた。けれど、事件の核心に近いことに関しては今までの裁判でもファイルに書かれていなかったことを考慮すると、狛枝くんの死に直接繋がったのは、他の物だったのかもしれない。一旦は投票に傾きかけた裁判は再び動き出す。だけどちゃんは、その間、一度も顔をあげはしなかった。
そもそも私がちゃんに近づいたのは、彼女のことを知りたかったからだ。というと語弊があるのかもしれない。私は把握する必要があった。これは私に与えられた使命に他ならなかった。
ちゃんは笑顔の素敵な女の子だった。狛枝くんのことをいつも心配していた。二人はお互いを誰よりも大切に思っていた。目には見えない糸とか紐とか、そういうものでお互いが絡まって雁字搦めになっているようにも見えた。だけど二人は昔から、きっとそういうふうにできていた。
「日向くん。あんまり、ちゃんたちのことに口を出さないほうが良いと思うよ」
「……なんでだよ」
電機街でちゃんを牽制した日向くんを見ていられなくて、後日そう諌めた私に、彼は眉を寄せる。彼はちゃんのことを気にかけていた。同じくらい、狛枝くんのことも思っていたと思うけれど、それを指摘したら彼はきっと怒るだろうから、私は曖昧に笑って飲み込む。
「日向くんは、あの二人がそういうふうにできてるんだなあって、思えない?」
私は二人の過去を知っている。ちゃんが背負っているものの重さを知っている。狛枝くんが重ねた罪を知っている。二人がどれだけ後悔して悲しんで、知らないふりをしてすれ違って、どうにもならないところまで沈んでしまったかを、私だけは、知っている。
日向くんは眉根を寄せて押し黙った。実直なところが、彼女に似ていた。
私だけが二人のことを知っていたという点について、どこか優越感すら抱いていたことを私は否定しない。見守り続けていられることが嬉しかった。たくさんのことを学んだ。大切な女の子だった。だから、だからだから、ちゃん、私はあなたに。あなたに酷いことをしてしまったね。
狛枝くんは、即効性の毒を吸って死んだ。彼の部屋に残されていた、オクタゴンから調達してきたであろう毒薬が半分以上なくなっていたのが証拠だった。彼はその毒薬を、死体発見現場である倉庫の隣にある工場の給湯室にあった消火弾の中に混ぜた。十数本あったそれを使ったのは、狛枝くんに誘い出されるようにして倉庫の扉を開け、結果ライターに向かって倒れたパネルによって火事を引き起こしてしまった、私たちだ。
突然の火の手に動揺した私たちは、一斉に、倉庫内に向けて消火弾を投げつけた。割れるだけで全く効果の見られないそれを使い切ってしまった頃、倉庫の天井から突然降り注いだスプリンクラーが広がった炎を鎮火させたのだ。
狛枝くんは、私たちのうちの誰かが投げた消火弾の中に混ぜられていた、気化した毒ガスを吸って死んだ。お腹の槍は、朦朧として意識を手放した後、彼の体に突き刺さったと考えられる。だから、直接の死因は槍ではなく毒ガスで、殺したのは私たちの中の誰かだと言い切るモノクマは、暗に私たちの導き出した最悪の推理が間違ってないということを肯定した。
消火弾はあの場にいた全員が火元に向かって投げた。だから、誰が投げたものに毒が入っていたのかを知る術は私たちにない。
「じゃ、じゃあ、犯人はわからねーってことか?」
「そういうことに……なるね……」
「……あの場にいなかっただけは、違うってことか」
ちゃんは机に両手をついて、じっと、視線を落としている。彼女の隣の左右田くんが、気まずそうに目を逸らした。ちゃんの少しだけ癖のある、柔らかく、長い黒髪が静かに揺れた。だけど彼女は、やっぱり何も言ってはくれなかった。
狛枝くんの部屋に残されたファイルを思い出す。あそこにはどうしてかちゃんのプロフィールだけがなかった。深く追求しようとはしなかったけれど、日向くんも不審に思ったはずだ。ちゃんは、私たちが来る前にあのファイルを見たのだろう。そして、自分に関する情報を抜いたのだ。それが意味することを、私は、本当は理解していたはずだ。わかっていたはずだ。ちゃんが、狛枝くんの死体を前に私のことを一瞥もしようとしなかったその理由も。
彼女はきっと全てを知ってしまった。
だから、私はあなたに、謝らなきゃいけない。たくさん、たくさん、謝らなくちゃいけない。
「狛枝は、解けない謎を作ったんだ」
私たちの誰が彼を殺す毒薬を投げるか、狛枝くん本人も分かっていなかったのだと日向くんは続ける。だけど、彼にはちゃんと狙いがあった。彼には標的がいたはずだ。
彼は、自分の才能に懸けた。自分の持つ幸運で、彼は自分をその標的に殺させた。
だけど、本当に望み通りにはならなかったんだね。それこそが、彼の幸運なのだろう。
「狛枝くんは、『裏切り者』に自分を殺させたんだよ」
だから、だから、ちゃん。
私の言葉に初めて顔をあげたちゃんの、涙で潤んだ大きな瞳が私を貫くから、私は首を傾けて目を細めた。
覚えているかな。初めてあなたと話をした、みんなでお菓子を作ったときのことを。あの時私はあなたにわけのわからないことを聞いてしまったね。どんなゲームが好きか、だなんて。きっと、困らせたよね。小麦粉が冒険するゲームなんて、ものすごいレトロゲーがあなたの口から出てきたからびっくりしたけど。ああ、違う、こんなことが言いたいんじゃなくて、うん、そう、あの時本当は、あんなことを聞くつもりはなかったの。私は最初からあなたに近づきたかった。目的があったんだよ。私に与えられた使命のために。だから、あなたの笑った顔が、あまりにも痛かった。聞けなかったんだ、何もできなかった。ちゃんが無垢な顔で私を見つめていたから。
何も覚えていないのだと私はあのとき知ったから。
だから、あなたの願いを、叶えてあげたかった。
打算だらけの私に微笑んでくれたあなたを守りたかった。狛枝くんと今度こそ幸せになってほしかった。生きて帰ってほしかった。二人の並んだ姿をこの目に焼き付けておきたかった。私の生きた意味をそうして残したかった。そうできない私の代わりに。
日向くんの顔が浮かぶから、小さく頭を振ってなかったことにしてしまう。私はちゃんと狛枝くんのようになりたかった。それが叶わないって分かっていたから、だったらせめて、私のかわりに二人に笑っていてほしかった。だけど狛枝くんは死んだ。ちゃんを置いて死んだ。
彼を殺したのは、ちゃんの愛した彼を殺したのは、裏切り者だ。私なのだ。
ちゃんの未来を、私が奪った。
「千秋ちゃん」
私はその声を何があっても忘れない。あなたの泣き顔を私が消えた後もずっと残しておくから、だからあなたはもう走るのをやめていい。一人で頑張らなくて良かったのだ、最初から。
だってもう最初から気づいていたんでしょう。狛枝くんが、自分を殺させた相手が私だって。
すべて、あなたは思い出していたでしょう、自分が何者であったかを。だから、あの倉庫の中で私の横をすり抜けたとき、無視なんかじゃなくて殴ってくれれば良かった。あなたにはそういう権利があった。少なくとも今、こうして私のために泣く必要はなかった。
目の縁に涙をいっぱい溜めたちゃんに微笑みかける。大丈夫だよと、彼女が本当に言ってほしい人はきっともうこの場にいないから、わたしは何も言わずに笑う。
裏切り者は私だ。だから、毒入りの消火弾を狛枝くんに投げたのも、私だ。
いくら皆のためだったとしても、自分からそう言いだすことはできなかった。私はそういう風に作られていた。未来機関を裏切るようなことはしないようにできていた。だから誘導したのだ。私が裏切り者だと、誰が聞いたってわかるように話をすることで。
日向くんは、あんなの自分で告白したのと同じだと言ったけれど、何でそんな顔をするんだろう。ソニアさんも九頭龍くんも終里さんも左右田くんもそうだ。モノミちゃんも、私を未来機関の仲間なんかじゃないって庇った。でも、もういいんだよ。だって私の命と皆の命のどっちが大事かなんて、そんなの最初から決まっていた。
私の皮膚は穴だらけだ。ちゃんがそういうふうにした。私は、ちゃんを死なせることだけはしてはいけない。大切な友達だから、そう言えたらよかった。だけど違う。そういうふうにできていた。そういうふうに私は作られた。
勇気を出して、ちゃんの顔を見つめた。涙でぐしゃぐしゃになった顔は、他のどの皆よりもずっと酷くて、私はそんなちゃんを見てもやっぱり、ぽんこつみたいだ。どうして泣くのって、思ってしまうのだ。なんで泣くの。ちゃんは、全部を思い出したちゃんは、私がいなくても、一人じゃないってもう分かっているでしょう。皆もそうでしょう。あなたたちは生き抜かなくてはいけないでしょう。前を見なくちゃいけない人たちでしょう。
「悲しむ必要は、ないんだよ」
ちゃんが、私の言葉に目を見開く。どうにか、頑張って口元を緩ませた。皆に向けて言っているはずだったのに、私は、やっぱりちゃんを見てしまう。
「私は皆を守れて、とっても嬉しいから」
あなたが死ななくて良かった。あなたの近くであなたを守れて良かった。モノミちゃんが笑う。
「あなたがそういう風に思えたのは、すごいことでちゅね」
うん、そうでしょう。私は、皆が大好きなんだよ。ちゃんも日向くんも、ソニアさんも九頭龍くんも終里さんも左右田くんも、皆に生きていてほしいんだよ。本当は、犠牲なんて出したくなかったけど、みんなで帰ってほしかったけれど、でも、 そんなのはもう無理だから、だから。ちゃんは生きて、日向くんたちと生きて、元の世界に戻って、生きて、生きて生きて生きて。
ごめん。
「……ごめん」
私は、狛枝くんを、あなたから剥がしてしまった。
涙が出ないのは私がやっぱり皆と違うからだ。ちゃんが引き結んでいた唇を微かに動かす。「千秋ちゃん」彼女は、そう言った。ごめん。ごめん。ごめんね。言いたくても喉が詰まって苦しくて、言葉が出てこない。
ちゃんが熱を出して寝込んだ夜、部屋に入って、魘されるちゃんのおでこに冷たいシートを貼った。終里さんが鍵を壊してくれたのは、私にとっても幸運だった。友達のお見舞いができるなんて、思ってもみなかったから。そう思いながら熱いおでこをなでた瞬間、ちゃんは狛枝くんの名前を譫言のように呟いた。
あなたを救いたかった。狛枝くんと二人で雁字搦めになったままでもお互いを探り合うようにして生きて欲しかった。私はちゃんに自分の正体を明かせなかったけれど、本当は友達とは言えなかったかもしれないけれど、でも、それでもちゃんの幸せを誰よりも願っていたよ。
「ごめん、ごめん、ちゃん」
唇が濡れていたから、舐めたら、しょっぱい味がした。視界が滲んでいるのに気が付いた。私は泣いていた。日向くんが私の名前を、低い、掠れる声で呼んだ。ちゃんがどんな顔をしているのか、わからない。わからないけれど、ちゃんは、首を横に振った。何度も何度も、確かに、首を振っていた。
「こんなことになっちゃって、ごめんね」
手の甲にぼとぼとと何かが落ちていく。ちゃん。つまらない私の話を聞いてくれた人。興味なんかなかったはずなのに、あなたはゲームのことになると途端に饒舌になってしまう私に、微笑みながら付き合ってくれた。他人のために泣ける優しい人。最初から当たり前みたいにまっすぐ狛枝くんだけを見ていた人。だから私はあなたが好きだった。ひたむきなあなたが好きだった。
「どうか、生きて」
例えば、あなたたちがこの島を出てひたすらに後悔することになったとしても、それでも私のことを忘れないで。日向くんが笑う度に私を思い出して。小麦粉を見る度に私を思い出して。下手くそなイラストを見たら私のことを思い出して。進んだ未来に少しでも光があったら死んでしまった皆を思い出して。なんて、そんなの、我儘か。
だけど、あなたを、皆を守れて嬉しいよ。それだけで私は生きていて良かった。生まれてきて良かった。どうか、どうかどうか、だから、泣かないで。
皆は私の希望なのだ。
ちゃんが最後に私の名前を呼んでくれたから、私はもう、それだけで充分だ。