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 彼の死の詳細が記されているはずの黒いモノクマファイルは私の手に渡った瞬間に毒を持ったようだった。指先が熱を持つ。今更私は震えている。さっきまであんなに気丈に振舞って、自分の感情と体とを繋ぐ回路を遮断していたくせに。
 狛枝くんは死んだ。彼の言葉も表情も私に触れた手の平も唇も、それはもう全部どこにもなくて、私はもう彼を失っていて、後戻りはできなくて、ポケットにある破いた文書も元通りにはならない。でも私はやっぱり、他の皆と違って頭が悪いから、こうすることしかできなかった。



「殺害現場は、五番目の島の倉庫の中だよ」



 それでも動こうとしない私にモノクマが告げる。あの時キミとボクが会話をした場所を選ぶなんて、皮肉だね。と。



「これも運命かな?」



 運命。そういう風にできていたのかもしれない。私は何も言葉を発することなく、モノクマに背を向けた。捜査が始まって随分時間が経った。開けないままのモノクマファイルを脇に抱えて、私は走る。靡いた長い髪がやけに重たく感じた。「きれいな髪だね」いつの話だ。もう、意味がない。
 だってもう私たちは二度とやり直せないから。








「あれ、じゃねーか。もう具合はいいのか?」



 現場に辿り着いた私は振り向いた終里さんにそう声をかけられたけれど、目を合わせることもできなかった。
 モノクマの形をした巨大な建物の隣にあるグッズ倉庫は、ただならぬ様相を呈していたのだ。
 黒く焼け焦げた段ボールやカーテンはスプリンクラーで濡れ、換気扇を回していても残る独特の臭気はここで火事があったことを想定させる。入口からドミノのようになって部屋の中央へ向かって倒れている等身大モノクマパネルが奥にあるものだけ焼けているということは、火元は倉庫の中央の、間仕切りの役目を果たしていたカーテンの辺りだったのだろう。その付近にはオイルライターと割れたプラスチックの破片が転がっていた。恐らくこの赤い破片は消火弾か何かの類だ。
 そうやって、目の前の状況を一つ一つ整理して、方々から注がれる同情の視線に気が付かないふりをした。皆はきっとここでの捜査を粗方終えたところだったのだろう。九頭龍くんが、どこか遠慮がちに私の名前を呼ぶ。けれど、返事をするのも煩わしい。
 一歩一歩、倉庫内に足を踏み入れる。スプリンクラーによってできた水溜りが跳ねる。隅にあるMP3プレイヤーもすっかり水を被って、あれはきっともう使えない。私みたいだ。



「お、おいおいおいおい



 左右田くんが私の腕を掴むから、私はそれを振り払った。短いけれど硬い爪が細やかな傷を作る。今更、こんなふうに痛がって被害者ぶって可哀想ぶって、いまさら、今更さあ、何がしたいんだよ。思っても奇跡なんか起きない。ソニアさんが何故か鼻をすすった、泣きたいのは、私だ。だけど、泣いてはいけないのも、私なのだ。日向くんが「」と私の名前を呼ぶ。私はもうわかっている。
 でも、だけど。



「……ちゃん」



 千秋ちゃんは、ひょっとしたらこの中の誰よりも、ずっと傷ついていたのかもしれない。分かってあげなくてはいけないのに私はあの子の顔を見ることができない。どうしたらいいのか、わからない。
 狛枝くんは死んだ。
 体中を血だらけにして息絶えた。手足を縛られて、右手をナイフで固定され、両足を刺され口をガムテープで覆われて、身長ほどもある大きな槍にお腹を貫かれ、彼は死んだ。
 血だまりが赤かった。ボクを殺してくれないかと、私の耳元で狛枝くんが、終わりのないテープのように囁いていた。あの時私は泣き出しそうな目をした彼に理由を問うたけれど、わかっていた。知らないふりをしていたかった。気が付いていないのだと思ってほしかった。全てを思い出した私は彼の言葉の意味を知っていて、だけど、認めたくなかった。
 狛枝くん。狛枝くん。私に何もかもを教えてくれた人。膝をついたら、彼の血が音を立てて跳ねた。いつも冷たかった彼の手は、もう生きている者の柔らかさを保ってはいない。背後で倉庫の扉が閉まる音がした。皆が出て行ってくれたらしい。倉庫内はしんと静まり返っていた。
 そこには私と狛枝くんしかいなかった。そういう世界で生きていたかった。もっと早く思い出せたら良かった。そうしたら結末は変わっていたか。私はこんなに後悔せずにすんだのだろうか。



「狛枝くん」



 口のガムテープをそっと剥ぐ。そこには一滴の血も飛んではいなかった。見開かれていた瞳を、震える左手で閉じさせる。ぼとりと、彼の頬に涙が落ちる。



「……ごめんね」



 なんでいつも、届かなくなってからしか言えないのだろう。
 アナウンスを聞いてから、自分自身に考える時間を与えないまま、私は狛枝くんの部屋に入り込んで必要な情報を集めた。そうするしかなかったとは言え、私は強かな女だった。
 私は学んでいたはずだ。仲間が殺されて、どんなに現実を直視したくなくても、泣くのは全てが終わってからだと。そんな私を狛枝くんはひたむきだと言ってくれた。最後の最後までそうありたかった。狛枝くんの希望でいたかった。張りつめていた緊張が音を立てて切れる。声を殺して泣いた。生臭い血が纏わりついて、もう、一生取れなくても良いとすら思った。
 冷たい頬に手を添える。いつか触らせて欲しいと言われた左手は、もう、何の役にも立たない。だったらあの時、こんな左手、あなたにあげればよかった。そうしたら私は最後の瞬間まであなたの傍にいられた。私は何も成長していない。同じことを、私はある人の目の前で言ったことがある。それで頬を叩かれたことがある。思い出しているのに、私はあのとき確かに彼を傷つけたのに、何も学んでいないのだ。私は誰かを傷つけても、やっぱり狛枝くんに全てをあげたい。私を奇跡だと言ってくれた人に。私の春に。



「好き」



 掠れて声にならない。額を傾けたら、彼の鼻に当たった。全部、私のものにしたかった。私の前で笑ってくれた日からずっと私はあなたが欲しかった。でも、まただめだった。私はあなたを守れなかった。狛枝くんの全てになりたかった。世界になりたかった。尊い人になりたかった。お腹の底で壊れた箱から誰かが顔を出す。もう終わりにしようと私に手を差し伸べる。
 だから私は彼に、三度目のさよならをする。


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