52
狛枝くんが私の両肩に優しく触れる。私の顔を見つめている。色素の薄い長い睫毛が瞬きの度に静かに揺れていた。優しい瞳だった。私の怪我に触れないように、彼の細い指がそっと頬を撫でていく。耳たぶへ、目じりへ、こめかみへ、そこで私はようやく、確認するように私をなぞる狛枝くんの指先が、僅かに震えていることに気が付いた。
ボクを殺してくれないか。
皮膚で跳ね返していた言葉がじわじわと染みわたって、私は瞬きの一つもできなくなってしまう。狛枝くんの背の奥にある本棚を、こんな時にどうして私は見ているのだろう。
私に与えられた、私のコテージ。彼の部屋のそれと違って、棚には手書きの楽譜しかなかった。指の動かない自分のために作った曲が、そこには何かの執念みたいに書き殴られて並んでいた。ゴミ箱から溢れる駄目になった音符たちが、私を同じ穴の貉だと笑う。
この島にはピアノがない。ライブハウスにも、キーボードの一つすら置いてなかった。鍵盤の類は、いっそ意図的に排除されたようにすら思えた。だけど、私にとってそれは幸運だったのかもしれない。私の指が駄目になっていることを、誰にも知られずに済んだ。狛枝くんに失望されずに済んだ。キミのピアノが聴きたいな。聴かせることなんてできなかったのだ、初めから。
だって私は。
「……なんで……?」
やっとの思いで絞り出した声は、言いたかったことの半分も言えないままに途切れて消えた。狛枝くんの姿が、輪郭ごと滲んで霞む。だけどその先で、彼が笑ったのは分かった。彼はいつも困ったような顔で笑う。眉を下げて、目を細めて、そうやって隠そうとする。彼の手の平で隠されたものの正体が、私にはわからなかった。そう、思い込みたかった。
狛枝くんは裏切り者をあぶり出すと言っていた。そうしてその裏切り者を殺そうとしていたはずで、だからこそ彼を止めなくてはいけないと思っていたのだ。皆も。なのに、彼は自分を殺せと言う。
「……わからない?」
沈黙を肯定と捉えたのだろう。狛枝くんの返答は、淀みない。凪いだ海のようだった。
「だったら、キミは理由なんか知らないままでいたほうがいいよ」
狛枝くんの指が私の頬をなぞる。目尻を下げて微笑む狛枝くんは、辺古山さんが処刑された夜のように、私を、尊いものを見るような目で、見て、だから、私は、ああ、と、思う。
終わりだ。また駄目だった。
狛枝くん。あなたは、ファイナルデッドルームの先で手に入れたあの二冊のファイルに、何を見たのだろう。きっと私の想定していたものでは、なかったはずだ。私の指が動かなくなったこと。事実上の退学勧告を受けていたこと。それを知ったから私を遠ざけて、避けたのではなかったのだ。
彼が私に殺してくれと言う理由が分からないなんて嘯いて、私はまた逃げようとしている。
「さん」
泣き出す一歩手前の、震えた声だった。彼がこんな声を出すなんて、私は知らなかった。男の人がこんな目でそれでも笑う姿を、私は見たことがなかった。狛枝くんが息を吐く。生温かい息を吐く。生きている。生きているのになんで。彼の背中に手を回したかった。だけどできなかった。私にはそんな資格が、なかったから。「ごめん」その声が私を刺す。
「何日も、知らんぷりしていて、ごめん。キミの顔を見ようとしなくてごめん。何かあったらいつでも頼れって言ったくせに、こんなふうにキミを突き放して、ごめん」
諦めたような顔だった。狛枝くんの冷たい両手が私の頬を挟む。震えている。狛枝くんの目から、大粒の涙がひとつだけ零れた。だから私は、それも含めて全部、何もかもをなかったことにしたかったのだ。私が彼にしてきたこと、望み続けたこと、だけどどんなに願ったって私が消えてなくなるわけではない。狛枝くんが目を細める。私は彼の瞳を縁取る睫毛の一つ一つを凝視する。こんなに近いのに、体温を感じているのに、この手にはきっと何も残ることはない。執着して生きた。それで充分だなんて嘘でも言えなかった。頬に添えられた狛枝くんの指に力が込められる。彼は俯いて私にそのつむじを見せる。顔が見たい、目が見たい、焼き付けさせてくれあなたを、どうか。
「キミの顔が見たいって思ってごめん、殺してくれなんて甘えてごめん、キミを苦しめることになってごめん、ごめん、ごめんごめん、ごめん、さん、ごめん」
段々と早口になっていく言葉の最後に、紛らわすように吐き出された言葉を、私は。
私は。
「キミを好きになって、ごめん」
突然目の前が暗くなる。鼻と口に何かが宛がわれる。咄嗟に息を呑んだ。薬品の独特な臭いがした。狛枝くんが囁いた。声が。私を。意識が遠のく。「狛枝くん」くぐもった私の声は、きっともう、あなたには届かない。
好きだ。私だってあなたが好きだ。あなたが扉を開けてくれたあの春から、奇跡みたいだと微笑んでくれたあの日から、私は恋に落ちていた。あなたが好きだ。あなたの傍にいたかった。呪いを抱えて生きても良かった。いらないと言われても突き放されてもどこを探しても存在の欠片すら見つけることができなくても、視界が闇の色に塗り潰される。私はこの光景を知っている。手を伸ばした先で私に向かって微笑んだあの女の子を、私は思い出している。狛枝くんが消えていく。
「さん、キミだけが」
指が私の輪郭をなぞっていく。名残惜しむように、その指先が離れる。救いたかった。本当だ。
「キミだけが、今も昔も、ボクの希望だ」
目が覚めた時、既に陽が昇っていた。ぼんやりとした頭のまま、体を起こす。丸椅子が倒れて床に転がっているのを視界の端に入れる。時計を見たら、十二時近くになっていた。もう、お昼だ。覚醒しきらないまま、それでも知らずに私が口にしたのは、剥がれ落ちそうにないほどにこの喉にしみついた、彼の名前だった。
「……狛枝くん……?」
自分の吐き出した言葉に瞬きをしてから目を見開いて、私はベッドから降りる。足下に、乾いた冷却シートが落ちていた。部屋を見回す。テーブルの上に、書きかけの楽譜と覚えのないゼリーが三つ、それから皺のあるハンカチが一枚置いてあった。昨晩私の口を押さえたものだ。夢じゃない。視界に入った採譜途中の楽譜の枚数が僅かに足りないような気がしたけれど、構わなかった。コテージから飛び出す。あれだけ重かったはずの体は嘘みたいに軽い。私は夢から覚めていた。
「狛枝くん」
辺りを見回しても人気がない。今頃皆はあるはずのない爆弾を探しているのだろうか。正午くらいに爆発させると言っていた狛枝くんの言葉を思い出す。もう、十二時だ。体中が、一気に血の気を失くす。実際に島を破壊するほどの爆弾なんてないと狛枝くんは言ったけれど、その時間に、彼が何かをしようとしているのは間違いないはずだ。寒いのに、頭だけは熱を持っていた。
行かなきゃ、行かなきゃ、狛枝くんがどこにいるかも分からないのに、駆け出そうと足に力を込める。狛枝くんの声が今も耳に残っている。なのに、こんな時に手足が上手く動かせない。まだ痺れているのかもしれない。つんのめって、転びそうになる。何のために薬品を嗅がされ、眠らされたのかという疑問から目を逸らす。初めてこの島にやってきた日から変わることのない晴天、燦々と照りつける太陽が私の黒髪を容赦なく熱していく。
狛枝くんのあんな顔を見たくなかった。だから私はここにいる。遠くになんか行かないって、伝えたかっただけだった。会いたかった、やり直したかった、今度こそ、好きだって言いたかった、それだけだ。だけど、私はそんな簡単なこともできやしない。無駄にしてしまう。ごめんなんて、あんな言葉を言ってほしかったわけじゃない。だってそんなのずっと、私が言いたかった言葉だ。私が言うべきだった言葉だ。ずっと私が背負って重くて潰れそうになっていた言葉だ。
私はあなたに何も伝えられていない。
時計の針が十二時を指したその瞬間、何度も聞いたあの音が響いた。
「……あ」
島中に響き渡るチャイムに足が止まる。口元を両手で抑えても、指の隙間から、嗚咽に似た声が漏れていく。私を置いていく人。背中を見せて振り向いてくれない人。名前を呼んでも手を伸ばしても、私の左手はもうだめになっていて、私はいつもあなたを救えない。
いつも。いつもだ。
「死体が発見されました! 一定の捜査時間の後、学級裁判を開きます!」
狛枝くんが死んだ。私は、それを知っていた。