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 何の疑いもなく思っていた。世界がひっくり返っても、私の腕が腐り落ちてもあなたを蝕む絶望がどんな色に私を染めあげようとしていても、私があなたを救うのだと。



「やっとわかったんだ。さん」



 だけど、あなたのものでない手に触れられて私は思い知った。世界がひっくり返ったのも何もかもを失ったのも私のために絶望に蝕まれて濁っていったのも、全部、あなたの方だったのだと。
 私の手に指先を這わせた彼は、目を細めた。数年の月日を経てもなお、それは美しかった。








 目が覚めたら自分の部屋に人がいた。それだけでもびっくりするのに、それが狛枝くんだという事実が私を酷く狼狽させた。何日かの間、私を一方的に避け続けていた彼は、何でもないような顔で私を見て微笑んでいる。



「な、なん、なんで」



 慌てて起き上がろうとしてベッドのヘッドボードに頭をぶつけた私に、狛枝くんは、「はは、すごい音がしたね」と目を細めた。汗でべたついた私の頭を慈しむように撫でる狛枝くんは、ちゃんとそこにいて、温度があって、柔らかくて夢じゃなくて、私はそれでも信じられずにいる。



「な、んで?」



 まだ怠さの残る手足で無理に起き上がって、もう一度同じことを尋ねる。何でここにいるの、何で今までずっと私を無視していたのに、そうして笑っているの。そういうのを全部押しこめた「何で」に、狛枝くんは目を伏せて、小さく首を傾げた。



「……その話は、後でもいいかな」



 私は自分の下半身を覆う薄いタオルケットを言葉もなく両手で握りしめる。本当は、頭の端から熱が伝わって、苦しくて声をあげたくてたまらなかった。狛枝くん、そう彼の名前を呼んで縋り付いて泣きたかった。私は酷い顔をしていただろう。見られたくなくて俯いていたのに、狛枝くんは天然なのか意地悪なのか、わざわざ私の顔を覗き込むから、もう逃げ場がない。



「……さん、大丈夫?」



 彼の手が私の頬に添えられる。打ちのめされる度に私に差し出してくれた彼のその言葉が、静かに胸の中に浸透していく。だから私は、「……狛枝くん」と、確かめるように彼の名前を呼ぶ。見上げたら、狛枝くんは優しい瞳で私を見つめていた。初めて会ったときと同じ温かい目だった。あ、狛枝くんだ、と、私は思う。夢の中で私のピアノをじっと聞いていてくれた、狛枝くんだった。



「……なに?」



 目の奥が熱くなって、喉と鼻がまとめて痛みだす。もう一度名前を呼ぼうにも声が出ない。次から次へと溢れる涙は数えきれないほどの痕を手の甲に残していった。
 会いたかった。狛枝くんと話がしたかった。現実でも夢の中でも、私は狛枝くんを捜していた。それは、果てのない線の上をひたすら歩き続けているような感覚に似ていた。麻痺しかけていた私は、どこかで、狛枝くんが私に笑いかけてくれることはもうないのだろうと思っていたのに。



「……さんは、本当に泣き虫なんだね」



 狛枝くんの冷たい手の平が私の目尻を撫でていく。誰のせいだと思っているのだろう。私は首を振ることしかできなくて、ただ、喉の奥から漏れてくる止まりそうもない嗚咽に、どれだけ自分が狛枝くんのことばかりを考えていたのかを思い知った。丸まった私の背中を狛枝くんの手が撫でていく。私が泣きやむまでずっと、彼は自分の方がよっぽど痛そうな顔でそうしていた。
 私はそれに気が付くことができなかった。いつもそうだ。遅いのだ、全部、何もかも。気づいた時には指の隙間から大切なものが零れ落ちている。手の届かないところに行ってしまう。元に戻らない。頬を伝っていた涙を拭ったとき、突然そこに走った鋭い痛みにびくりと体を震わせた。狛枝くんが眉を寄せて「ごめん、痛かったね」と呟く。



「顔から転んだんだってね。……でも、怪我が大したことなくて良かった」



 転んだ。顔から。彼の言葉を頭の中で反芻させる。さっきよりはまともに機能し始めた脳が、五番目の島を探索し終えて屋台通りに集まったあたりまでの記憶を再生させた。



「ボクも日向クンから聞いた話で悪いんだけど」



 狛枝くんは、倒れた私を終里さんが運んでくれたこと、その終里さんが私の部屋に入る時にうっかり鍵を破壊したらしいこと、おかげで自分も労せずして部屋に入れたことを淡々と説明してくれる。頷きながら目を伏せた瞬間に、額から剥げかけたシートが落ちてきた。狛枝くん曰く、これも彼が来たときには既に貼ってあったらしい。



「終里さんがそんな気の利いたことをするとは思えないから、多分、七海さんかソニアさんあたりがお見舞いに来てくれたんじゃないかな? 二日も眠っていたんだから、皆心配しているよ」

「……二日?」



 狛枝くんの言葉に思考が停止する。二日って、あれから、丸二日経ったということだろうか。血の気が引いた。私が意識を失う前に、皆が不穏な空気になっていたのを良く覚えているからだ。裏切り者をあぶりだして殺すつもりらしい狛枝くんに、そうさせないために彼を捕まえると言い出した左右田くんの姿が脳裏を過ぎる。
 あの時私自身も朦朧とはしていたけれど、彼の口ぶりを思い出す限り、左右田くんはあの直後にでも作戦を実行しかねない勢いだった。二日も経ったということは、私が眠っている間に左右田くんたちが狛枝くんを捕えるために動いたことはまず間違いない。だけど、当の本人がここで自由に動いているという事実を考慮すると、その作戦は失敗に終わったのだろう。私の神妙な面持ちから察したのか、狛枝くんは私を安心させるように笑う。



「ああ、大したことないよ。昨日の夜に呼び出されて、終里さんに羽交い絞めにはされたけどね」



 あの終里さんに羽交い絞めにされて、細身の彼がどうやってそこから抜け出せたのだろう。口を開きかけた瞬間、遮るように狛枝くんが言葉を重ねていく。その瞳から、感情が抜ける。



「ボクを捕まえたって、もう何の意味もないのにね」



 私は彼のその目を、吐き捨てるような口ぶりを、良く知っていた。夢の中で予備学科を貶した時の彼そのものだった。狛枝くんは静かに吐き出していく。昨日の夕方、皆に捕えられかけたとき、予め準備しておいた爆弾でホテルのロビーを爆発させて難を逃れたこと。その他にも、どこかに島を破壊させるほどの威力がある大量の爆弾を隠していて、時限式のそれは明日の正午あたりに爆発するようセットされていること。裏切り者が名乗り出さえすれば、その隠し場所を教えると日向くんたちに告げたと彼は言う。皆は朝からずっと爆弾を探しているらしい。言葉を失くしたまま彼を見つめる私に、狛枝くんは困ったように笑った。それはいつもの狛枝くんだった。



「……キミにだけ白状するけど、全部嘘なんだ」

「え? う、嘘?」

「爆弾なんか最初から隠してない。皆はボクの嘘に踊らされて、躍起になってあるはずのない爆弾を探しているんだよ」

「……え、なん……何で……?」



 私は、彼の告白を理解しきれない。裏切り者をあぶり出すために、狛枝くんがそんな嘘で皆を騙したと言うのなら、どうして彼は私に真実を伝えるのだろう。私が今すぐにでも皆にそれを教えに行かない確証なんてどこにもないのに。どうして。狛枝くんが薄い唇を開く。空気を吸い込むその瞬間、震えていたように聞こえたのは、私の耳がだめになってしまったからではない。



さんのためだよ」



 今度こそ、息ができなくなった。「ボクは、キミに言いたいことがあってここに来たんだ」そう続けた狛枝くんが、ずっと座っていた丸椅子から腰をあげる。ベッドに座ったまま動けない私の目線の下に来るように、彼は床に片膝を付いた。



「ボクが以前キミに言った言葉を、覚えている?」



 何も考えられない。思考がほとんど停止している。狛枝くんがそんな私に、愛おしそうに、泣きそうに目を細めて笑っている。泣きたいのは私の方だ。体中を針で刺されたようにすら思う。私はもう、動くことが出来なかった。狛枝くんが身を乗り出す。ベッドに片膝を乗せ、その細い手を伸ばして、私の右手首を掴む。もう片方の手が頬に添えられる。耳を塞ごうにも、掴まれた手では何もできなかった。狛枝くんの言葉を、聞きたくない。呼吸が浅くなる。彼の顔が近づく。私は反射的に目を力強く閉じる。次の瞬間、彼の唇が、私のそれにほんの一瞬だけ、そっと重なった。掴まれたままの手首が、強く握りしめられる。
 息を止めた私の耳に、狛枝くんはその唇を寄せる。吐息がかかって体を震わせる私に、狛枝くんは言った。「さん」掠れた声だった。
 やり直したかったのだ。全部、最初から。何もかも私の我儘で、自業自得だ。だから、同じようになぞってしまう。呪いのように。もう一度会いたかっただけだと言っておきながら、私はそれで終わりにするつもりなんかなかった。最初からやり直したかった。もう一度愛してほしかった。今度こそ私が、あなたを救いたかったのだ。
 私が大事に抱え込んでいたこれは、惨めに腐った独り善がりの愛だ。



「ボクを殺してくれないか」



 だからこれは、私に与えられた罰だった。


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