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 凪斗くんは芸術棟の二階に訪れなくなった。
 厳密に言えば、凪斗くんの姿は校内そのものから消えた。まるで最初から存在していなかったみたいだった。目が合うことも声を聴くこともなかった。その柔らかな色素の薄い髪も、肉付きの悪い薄い身体も、けれど私の視界に入らないだけで、もしかしたら彼は学園のどこかにいるのかもしれない。そうやって、私はいつも、凪斗くんの背中を捜している。
 十本の指を広げて見る。このうちの二本は明らかに、ピアニストの持つそれとしては死んでいる。超高校級の神経学者たちが匙を投げたこの指が良くなることなどもう二度とないのかもしれない。それでも私が、毎日陽が暮れるまで芸術棟に籠るのは、奇跡を待ち望んでいるからだ。凪斗くんが私を許してくれるという都合の良い奇跡を。だけど、凪斗くんにとって私はもういらない人間なのだろう。指が治らない限り、いや、私と彼の擦りあわせることの出来ない価値観が崩れない限り。だから、私たちは永遠に交わらない。
 三本しか動かない左手を限界まで広げて鍵盤を叩く。ハチャトゥリアンのワルツ曲に似ているね。思い出した瞬間三拍子のリズムが崩れるから私は笑うしかない。もう諦めていたはずだ。なのに、鍵盤の上に落ちていくこの安っぽい涙はなんだ。感傷に浸るなんて権利、私にはないはずだ。
 零れた私の嗚咽をかき消すように、校舎の外で怒声が響く。最近は、予備学科のパレードが本科生の居る東地区にまで進出してきた。同級生の中には怯えている子もいたけれど、私は自分が透明な膜で守られているようにすら思う。私はこの繭の中で、ただ一人だ。
 冬が終わる。私の期限が近付いている。凪斗くん。もうさよならかな。私はあと三週間でこの学園を去ることになるだろう。一方通行の思いはそれで塞き止められるのかな。私はいつかこの不毛な恋を忘れるのかな。綺麗なものをたくさん見つけて、あなたの知らない誰かを好きになって、最後にはあなたを忘れて死ぬのかな。
 あなたにとって私は、どうしたって絶望でしかなかったのだろうか。








「……ごめんね。ちゃん」



 冷たい手の平が額に触れる。ひやりとした感覚が、額から広がる。けれど私は意識を戻せない。夢の中に、落ちている。いつまでも、いつまでも。








 私が学園長に呼び出されたのは、最終結果が出るといわれていた期限の四日前だった。相変わらず凪斗くんはどこにもいなくて、私の指は腐っていた。皮張りのソファに緊張した面持ちで座った私に、まだ年若い学園長は真摯な双眸で、もう一度同じ言葉を繰り返す。



「会議は中止になった」



 脳の回転が人よりも鈍い私は首を傾げる。「中止ですか、ええと、ならつまり私の進退は」会議をするまでもなく強制退学ということだろうか。眉を寄せた私に、学園長は目を伏せた。手の平を握りしめようにも、私の左手は言うことをきいてはくれないのに。



「そのままだよ。君は、このまま希望ヶ峰学園の学生としてここに残ってもらう」



 じわじわと浸透するその言葉に、時間差で目を見開く。



「え? ど、どうしてですか?」



 考えもしなかった展開についていけない。だって私の才能は終わろうとしていた。価値がなくなろうとしていた。目が乾いて、瞬きを繰り返す。その度に、凪斗くんの顔が浮かんで消えていく。
 学園長は、低い声で語り始めた。私に、学園に残るという道を与えたその理由を。








 本科生はなるべく本校舎と寮以外には行かないようにと言うお達しが出たのは、ちょうど私の進退を問う会議が予定されていた日の夕方だった。日に日に拡大されていく予備学科のデモ、通称パレードは、収束の気配を一片も見せることがないままに暴力活動にすら発展しかけている。パレードを起こしている予備学科生の狙いは、彼ら曰く「特別扱い」を受けている超高校級の才能を持った本科生、そして、彼らに特権を与える学園それ自体を、文字通り破壊することだった。
 学園は才能を守り育むために存在しているという学園長の言葉が、不意に蘇る。



「こんな状態で新入生を迎えるわけにもいかないからね。今年はスカウトを自粛することになったんだ。まずは、今居る生徒たちを守らなければいけない。それには、君も含まれているんだよ」



 私の才能はまだ何らかの利用価値があるのだろうか。もしくは、パレードが簡単に収まるはずとの目論みが外れて進退を論じるどころではなくなったか。兎に角私は首の皮一枚で繋がった。
 それが幸運だったのかそうでなかったのか、私には分からない。
 窓の外で繰り広げられるパレードを見る。いつの間にかそれは膨大な人数に膨れ上がっていた。渦のようだ。二千人余りの予備学科生が列を成して行進するその姿は、まるで現実のようには思えない。彼らが一斉に叫ぶ言葉は以前とは違う。彼らはもう自らの待遇改善を求めない。



「希望ヶ峰学園に、世界に、絶望を!」



 窓ガラスが揺れるほどの波のようなうねりがどこまでも伸びていく。狂気が足元から浸食していく。こんなときでも凪斗くんを思い出す。だってどこに行ってもいないのだ。どんなに捜しても彼はいない。私を見てくれないし名前を呼んでくれない。グランドピアノの前から見送っていたはずの背中は私の指から逃げるように跡形もなく消えてしまった。奇跡みたいだね。あの言葉を彼はもう二度と言ってくれない。いらないと、首を絞められたみたいだ。なのに私は、その指の痕に縋るように、会いたいと思う。凪斗くんに会いたい。会いたい、会いたい。会いたい。
 窓ガラスに触れる指先が小刻みに震えていたのは、パレードに参加する彼らの声量のせいだけでは決してなかった。目を思いきり瞑って、下唇を噛みしめる。姿を消した彼も、いずれ私が試験の中止を経て学園に残ることになったということを知るのだろうか。そのとき、彼はまた私を、軽蔑するだろうか。しぶといな、なんて思うのか。惨めったらしく現状に縋りつく、愚かだね、なんて。今度こそ目の前から消えてくれると思ったのにと、そう言うのかな。吐いた息が切れる。
 彼には二度と会えないのかもしれない。それはほとんど、直感のようだった。








 体温の低いかさついた手の平が私の頬を撫でていく。どれくらい眠っていたのだろう。重たい体も正常に動かない思考も邪魔くさくて、ただただ、現実と夢の境目を行ったり来たりしていた。酷い夢を見ていた気がする。ずっと海の底に押さえつけられていたような、倦怠感に襲われている。
 嫌な夢だった。狛枝くんが、どこを捜しても見つけられなかった。汗が酷い。ぼんやりと揺らぐ視界が、既に見慣れてしまったコテージの天井を映し出す。
 起き上がる体力もなかった。カーテンの方に目をやったけれど、薄暗くて今が何時なのかも分からない。額に何かが貼られていることに気が付いた。完璧に乾ききった、熱を下げるためのシートだった。いつの間に私はこんなものを貼ったのだろう。記憶にない。考えようとすると頭が痛む。なかなか起き上がれなくて、仕方ないから寝返りを打った。それからようやく息を飲む。
 ここにいるはずのない彼は、ベッドサイドの椅子に腰掛けて、小さく微笑んでいたのだ。



「おはよう。さん」



 弐大くんが死んでから、ずっと私の存在をなかったことにしていた狛枝くんがそこにいた。


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