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「大丈夫?」
トーストに齧りついて延々と咀嚼を繰り返していたところを覗き込まれた。「顔色が良くないんじゃないかな」そう言いながら隣に座った千秋ちゃんは、心配そうにその眦を細めてくれるから、私は首を振る。
「上手く寝付けなかったの。……たまにあるんだ」
言葉を選んだことが、彼女には分かっているのかもしれない。眉根をそっと寄せた千秋ちゃんは、「んー……」と僅かに頬を膨らませた後、サンドイッチを一口齧った。彼女の隣に置いてある携帯型のゲーム機の暗転した画面を意味もなく見つめながら、口の中でほとんど原型がなくなってしまったトーストを牛乳で流し込む。濃厚なはずなのに、なぜかほとんど今日は味を感じない。
眠れなかったことは本当だ。狛枝くんとモノクマの密会、彼らが話していた会話の内容、モノクマの待ち人。いくら考えても答えに辿り着くことのない疑問が、水を吸ったスポンジのように頭の中で膨らんで、いくら眠ろうとしても上手くいかなかった。ドッキリハウスでの生活の疲れも祟ってか、おかげで今日は酷く体調が悪い。足の先から得体の知れない何かに侵食されていくかのように、不快感が身体中に広がっている。
頭の奥がじんわりと痺れる。指先まで熱っぽく微かに震えて、気を抜いた瞬間にフォークをお皿に落とした。カツンと音を立てたせいで皆の視線が私に集中してしまったから、慌てて「ごめん、滑っちゃった」と謝罪する。前髪の隙間から覗き見たレストランに、今朝も狛枝くんの姿はない。
九頭龍くんが指摘したように、狛枝くんは私に対してだけでなく他の皆に対しても棘のある態度で接していた。弐大くんを分解してみろと左右田くんに言い放ち、止める終里さんを見下す発言をした。自分の足を引っ張るな、とその表情に明確な侮蔑を込められていたのは日向くんだったけれど、私に対しては、彼は一切の接触を断ったのだった。今までなら、事件が起きれば彼は落ち込む私を気遣ってくれた。大丈夫だ、と、私が言って欲しい言葉を彼は穏やかな表情と共に差し出した。だけど、マスカットタワーから私を部屋に運んでくれたのを最後に、彼は私をいないものとして扱っている。
彼はやっぱりもう皆と、私と、前のように話をする気はないのかもしれない。二冊のファイルを手に入れて全てを思い出した彼は、彼の望む希望に値しない私を見限った。才能を持っていなかった日向くんにもそれは当てはまるのだろう。だけど、では他の皆まで彼に冷然たる態度を取られているのは、一体どうしてか。考えながら、瞼が落ちていくのを感じる。薄い闇の中で、視界が歪んだような感覚がした。不快感に飲み込まれそうになったその瞬間、唐突に現れたモノミの明るい声に、私は思考を中断されることになる。
最後の島への橋が通過できるようになったのだと、私たちの前に現れたモノミは言った。
前回モノクマのご褒美につられて重い腰をあげた皆は、今回は強い意志を持って立ち上がった。未来機関と言う、輪郭の曖昧な敵に立ち向かい、全員で生きてこの島を出る。「生きることを諦めるな」という田中くんと弐大くんの遺志が、何よりもその背を押したのだ。
最後の島は、巨大な都市のようだった。
近未来的な造形のビルが乱立するその島は、一見オフィス街のようでもあったけれど相変わらず人の気配はどこにもなく、都市としての形を保ったまま廃墟になったかのような薄気味悪さを感じさせる。体調が悪化しないことを願って探索に出たけれど、橋を渡りきった頃にはほとんど立っていることすらもままならなかった。容赦なく痛む頭に、耳鳴りは正確な聴覚を奪う。寒気がするのに汗が止まらず、私は皆から離れないよう、立ち止まらないように背を追った。昨日の夜に出歩いたせいで風邪でもひいてしまったのだろうか。最近の私は、一体どうしてこんなに体の調子が悪いのだろう。罪木さんの裁判の時からずっと、何かに憑りつかれたような気すらする。
集合時間と場所を決めてから、いつも通り手分けをして探索することになった。私は声をかけられる前にその輪から離れる。千秋ちゃんや、或いは他の誰かと一緒に探索をして、余計な心配をかけたくなかったのだ。
眩暈が酷いけれど、何とか歩けないこともない。体を引き摺りながら進むと、遠くにモノクマの顔の形をした建物があることに気が付いた。会社のようなビルや軍事施設といった、いかにも怪しく物々しい建造物も見受けられたけれど、私は真っ直ぐにモノクマの形をした建物に向かうことにした。その悪趣味な建物が予想以上に巨大であることには途中から薄々感じていたけれど、今更引き返す元気もない。辿り着いてみれば、モノクマの口が建物の入口になっているらしいことが分かる。センスが悪すぎる。ここまで来て足を踏み入れるのに躊躇してしまった私は、すぐ隣に小さな倉庫があることに気が付いた。至って一般的な作りをしているそれに近づいて、先にこちらを調べようと倉庫の扉に手を触れた。
倉庫の中は思った以上に薄暗く、埃っぽかった。どうやら窓が一つもないらしい。扉を開け放したまま中に足を踏み入れてみると、天井近くまで積まれた大量の段ボールに気が付く。何か重大な書類か何かがないだろうかと思いながら中を覗いてがっかりした。モノクマのステッカーやらぬいぐるみやらカレンダーがぎゅうぎゅうに押し込まれていたのだ。大方、自分のグッズを作りすぎて在庫過多の状態になっているのだろう。何のためにこれを作ったのかは定かではないけれど。
「それ、欲しいよね?」
「いらないよ」
「突然現れたボクに動揺することもなく即答だと……!」
特徴的な効果音と共に現れたモノクマに視線をやる。その隣には大量のモノクマの等身大パネルが並んでいてうんざりしてしまった。元々しんどかった体がさらに重く感じられる。短い息を吐きながら目を逸らすと、モノクマはパネルに目をやって、「あっこれ?」と聞いてもいないのにそれについての説明を始める。
「店頭に置いたらいいと思って作ったんだけど、部屋に置くのも素敵だよね。どう? 部屋に一つ」
「……だから、いらないって……」
「ん? あれ? さんひょっとして具合悪い? うぷぷ、うぷぷぷぷ、ひょっとしてひょっとして?」
「……なに……?」
「デキちゃいましたか?」
言い返すのも面倒だ。私は壁を背にして床に座り込んだ。熱が上がってきたのかもしれない。モノクマと大量のパネルが分裂したような感覚に襲われる。おかしい。こんなに短期間の間にしょっちゅう具合が悪くなるなんて今まで一度もなかった。ぐらぐらと歪む視界でモノクマが笑う。
「盗み聞きなんてイケナイコトをしたからじゃないの?」
心臓がどくりと音を立てた。昨夜のことを言っているのは明白で、私は一瞬呼吸が止まる。それが脳に染み渡る頃には、モノクマはさらに言葉を重ねていた。その時不意に痛みが走る。頭じゃない。これは、腕だ。私の左手首に爪が刺さっているような、鋭い痛みがある。ゆっくり視線を落としたけれど、私のむき出しの手首はきれいなまま投げ出されていた。そこには何の刃もなかった。そんな私を見て、モノクマは悠然と、としか思えないような仕草で首を傾げた。
「うぷぷぷ、面白いね。とうとう近づいているんだね。面白い、面白くなるよ」
「面白い……? どういうこと?」
「いつだったかも言ったけど、ほんとにキミは頭が悪いから、助かるよ、他のヤツラと違ってさ」
モノクマが何を言いたいのかが分からずに眉を寄せる。だけど、そんな私をモノクマは構わない。
「だからこそキミには期待しているんだ。そう言っても意味がわからないでしょ? だって、キミは実にバカなヤツだから! うぷぷぷぷ、ああ、楽しみだ。もうすぐだ、もうすぐなんだよ!」
骨の、奥の、さらに奥。底にある何かが軋む。「さん」私の底で誰かが呼ぶ。モノクマが笑う。うぷぷ、うぷぷぷぷぷ。意識を手放したくなったけれど、唇を噛んで耐えた。夢の中の狛枝くんの言葉が、いつまでもこびり付いたまま離れない。「絶望だったのかな」泣きそうになったけれど、それでも私は意識を保たなければならなかった。
熱を持った体が痺れて重い。背中を伝う汗が鬱陶しくてたまらない。モノクマの言うとおり、私は、馬鹿だ。色んなものが足りないから、何も分からない。あんな夢を見て、きっと全てを忘れている皆よりも、誰よりも、失った過去の傍にいるはずなのに、自分の中で抱えこんで消化不良に苦しんでいる。もしもこれが私じゃなかったら、きっと今頃、もっと真実に近づけていただろうに。
そろそろ時間ださん。
喉に張り付いて私から呼吸を奪う皮に私は笑うこともできない。ああだから、もう終わりだ。狛枝くん。そろそろ決着をつけなくてはいけない。直感でそう思う。目を閉じて息を整える。モノクマはいつの間にか消えていた。私は薄暗い倉庫で、たった一人になっていた。この闇を、私は知っている気がした。ビックリハウスで彼が私に残してくれた手紙は、ポケットの中で皺になっている。
倉庫を調べ終わった私は、体力を振り絞って何とか集合場所の屋台通りに戻った。その頃には立っているのもやっとで、私は屋台の椅子に腰を下ろして顔を俯かせる。未来機関について分かったことを報告しあう皆は錯綜する情報に頭を悩ませていて、私の様子に気づくことはない。
「どれが信じられる情報なのかはわかりませんが、元凶が未来機関であるということは間違いないのではないでしょうか」
「でもよ、未来機関の手先であるモノミがモノクマと反目し合っている以上、そうとも言い切れないんじゃねえか? 敵の敵は味方ってやつだよ」
「どちらも敵である、という可能性もあります」
「おいおいおいおい、九頭龍、なにいきなり未来機関の肩を持ってんだよ。……まさか、オメーが裏切り者なんじゃねえだろうな」
また左右田くんの、他人を疑う悪い癖が出ている。日向くんあたりが一喝するのだろうかと考えたけれど、その役割を果たしたのはソニアさんだった。
「左右田和一、黙らっしゃい!裏切り者なんて存在しません! わたくしたちを疑心暗鬼に陥れるためにモノクマさんがでっちあげた、架空の存在なのです! 生き残った仲間を信じなくて、どうするのです!」
ソニアさんが左右田くんを叱咤したその瞬間だった。俯いていた私のつむじに、その声は届いた。
「……絶望的だよ」
昨夜の裁判の後からずっと姿を消していた狛枝くんが、そこにいた。彼は私たちを、いや、正確には私以外の皆をぐるりと見回してから、静かに目を伏せる。
「問題を直視して乗り越えるどころか、惨めったらしく必死に逃げようとするだけ……。その弱さは、絶望的だよ」
狛枝くんは、私たちを見下すような視線を投げていたけれど、きっと泣きそうだった。私だけがそれを知っていた。彼があの日私に見せた顔に似ていた。あの日、あの冬の、雨の降る日に、グランドピアノの前で私の肩を掴んだあの時と、それは同じ瞳だった。揺らいでいた。私が壊してしまった。彼に罅をいれた。私がとどめを刺したのだ。
それでも今度こそ、私があなたを救うなんて、どうしてそんなことを思ったのだろう。