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 低い地響きのような音で目を覚ます。窓から差し込む光どころか、窓そのものがない。毒々しい配色の天井や壁に、私はここがドッキリハウスの一室であることを思い出した。
 頬の横に置かれた左手は、軽い痺れがあるもののきちんと動いた。いつもだったら気にも留めない指の調子を、何故気にする必要があったのか。ぼんやりとした頭の奥に霞む何かの存在から目を逸らす。窓のない部屋では時間が分からなかったけれど、確認するためにラウンジへ向かう気力もなかった。餓死の危機は未だに回避できていないのだ。吐き出した息すらも、ほとんど温度がないように思う。
 身体を動かすことよりも、思考を巡らせる方がまだエネルギーを消費しない。私は目を覚ますきっかけになった音が何だったのかを考える。あれは夢の中のものだったのだろうか、それとも現実か。こんなぼんやりとした脳ではそれすらも判別がつかない。地鳴りのようにも思えたけれど、地震でもくるのだろうか。いっそ床が割れて、ドッキリハウスが崩れても良い。そしたら皆でこの妙な建物から逃げ出せる。だけどいくら待っても、それから何かが起きることはなかった。そうやって私は、あの奇妙に現実味のある夢のことを、思い出さないようにした。けれど、やっぱりだめだった。どんなに両手で抑え込んでも、あの塊から光は漏れてしまう。
 私は以前も似たような夢を見た。あれは罪木さんの裁判の途中で倒れてしまったという私を、狛枝くんが運んでくれた時だった。
 夢の中で、私は覚えのない部屋でピアノを弾いていた。私を下の名前で呼ぶ狛枝くんが居た。私の指は、けれど都合良く治っているわけではなかった。私は夢の中で、彼を裏切った。そういう夢だった。目尻に浮かんだ涙が、重力に従って耳の方へと垂れていく。
 私は、本当は叫びだしたかった。胸が張り裂けそうだった。私の手は届かなかったのだ。夢の中でも。私は狛枝くんが好きだった。好きだったけれど、どうにもならなかった。夢だ、夢だ、夢だ。夢だ。あんなの夢だ。夢なのに痛いのは、もう、分かっているからだ。体中の皮膚を剥がされたみたいだ。ひりひりするのだ。狛枝くんがあんな顔で、あんなことを言うから。



「……いらない……」



 思わず、口の中で呟いて後悔した。軋んだ体がバラバラになる。音を立てて崩れていく。悲鳴のような声だった。夢の中、叩きつけた拳が私を馬鹿だと嘲笑った。白い鍵盤が赤くなるのを見ていた。お腹がぐるぐるする。本当は気が付いている。察している、理解している。爪を頭の皮膚に突き立てた。目を閉じて声を殺して丸くなった。彼が私にかけてくれた毛布を、噛んだ。
 あれは私たちの過去だ。本当はもう、それに気が付いていたのだ。
 瞬きを繰り返して、荒い息を深呼吸で整えて、寝返りをうった。私はそこでようやく、ベッドサイドのテーブルの上に覚えのない白い紙があることに気が付いて、ほとんど朦朧としながら手を伸ばす。狛枝くんが残したメモのようだった。ちょっと前に彼が言っていたとおり、その字はお世辞にも整っているとは言えない。ぼやける視界で、短いその文章を追う。



さんへ。眠ってしまったようなので部屋に戻ります。何かあったら、いつでも頼ってください。狛枝凪斗」



 狛枝凪斗。初めて聞いたもののように、私は口にする。知らないうちに息を吐いたら、それが滲んで、私の首に纏わりついたようだった。「いらない」と言う、狛枝くんの絶望したような声が耳にこびり付いている。そのままくっついて離れない。私は彼にとっていらない子だ。だけどそんなの、予想できた結末だった。何かの拍子で彼が私のように過去を思い出したら、また狛枝くんは私に失望するのだ。私と出会ったことは不幸で、絶望だったと。冷えた左手に爪を立てた。狛枝くんはまるで、私に幻想を抱いていた頃の「凪斗くん」のようだった。私は今度こそ声をあげて、泣いた。








 私は気が付かないうちに、狛枝くんの残したメモを抱きしめて眠ってしまっていたらしい。あれからどれくらいの時が流れたのかは定かではないけれど、そろそろモノクマ太極拳のためにマスカットタワーに向かわなければならない時間だろう。メモを丁寧に折りたたんで、お守りのようにポケットに入れる。ソファの背もたれに外した覚えのない水色のネクタイがあったから、何とかそれを取って結ぶだけ結んでしまった。重たい体をなんとか引き摺って、私は部屋を出る。
 ラウンジの時計に目をやると、六時五十五分だった。これならどうにか間に合いそうだ。壁伝いに歩きながら、些細な衝撃の一つで転んで二度と立ち上がれなくなりそうな自分に苦笑したくなる。階段を降りる足が震えて、どうにも危なっかしいので、壁に寄りかかった。
 血が足りない。今日あたりが限界かもしれない。一階に着いたところで、不意に声をかけられた。ソニアさんだった。ソニアさんはこんなときでも背筋を伸ばして凛として落ち着いているように見えたけれど「まあ美味しそうなフルーツタルトが!」と言う発言で、彼女の限界をも察した。



「フルーツタルトじゃないよ、私はだよ……」

「まあ! フルーツタルトがしゃべりました! 驚き桃の木です!」

「おいにソニア、こんなところで何を」

「わあ、こっちはモンブランですね!」

「違うよモンブランじゃなくて日向くん、だよ……」

「あ、千秋ちゃん……」

「すごいです! 今度は可愛らしいショートケーキです!」

「……」



 私も相当体にきているけれど、ソニアさんも似たようなものなのかもしれない。千秋ちゃんもいつも以上に生気がないし、日向くんだっていつも通りに振舞ってはいるけれど、その足取りは重く今にも倒れそうだ。ここまできたら、誰が、いつどうなってもおかしくない。左右田くんの言っていた言葉が脳裏を過ぎる。



「このままだと……マジで全員餓死するしかねーんだぞ……」



 本当に、それが現実味を帯びてきたのかもしれない。
 無意識に、ポケットに入れた狛枝くんの置いて行ったメモを握りしめる。嫌だ、そう思った。狛枝くんと会えなくなるかもしれない、それだけはだめだと、歪な声で誰かが叫んだ。肝心なことは何一つ思い出せないくせに、私は狛枝くんのためにここにいると、身体中の細胞が叫んでいるのだ。
 でも、だからといって、この状況から脱するためにコロシアイが起きて欲しいと、願ったわけではなかった。








 ソニアさんと日向くん、千秋ちゃんと四人でブドウ回廊を抜ける。マスカットタワーのスイッチを押すと、扉はすぐに開いた。



「……え?」



 私のまともに機能しない脳が見せた幻か何かかと思った。もしくは、これは夢かもしれない。二度寝をしたまま、私の身体はまだあの趣味の悪い部屋にいるんじゃないかとか、そういうことを考えた。私は、受け入れられなかったのだ、この現実を。



「き、きゃあああああああ!」



 ソニアさんの悲鳴がマスカットタワーの天井に反響する。後ずさったら、ブドウ回廊との僅かな段差に引っかかってそのまま後ろに倒れてしまいそうになった。日向くんの体で受け止められる。温かい、男の人らしい筋肉の硬さがあった。けれどそれは震えていた。だけどきっと目の前で動かないあの人は、もうそういう、人間らしい何もかもを全部失くしてただそこに転がっている。
 モノクマの死体発見アナウンスが流れる。タワー内の門柱が折れて、オイルがべっとりと付着していた。床に広がるそれは、無残に凹んだ頭部の下で血だまりのように広がっている。縛られていたその体から離れた状態の手足は、彼に何らかの衝撃が加えられたことを物語っていた。彼はピクリとも動かない。それは紛れもない、死体だった。私は日向くんに体を預けたまま、彼の名前を、口の中で呟く。



「弐大くん」



 彼は、今度こそ死んでしまった。


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