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降り続いていた雨はいつしか雪に変わろうとしていた。遠かったはずの怒声がすぐそこまで伸びている。くしゃくしゃに丸まって意味を失くした封筒は、ずっと鞄の中で眠ったまま目を覚ますことがない。鍵盤に乗った、動くことのない左手の指を視界の中央に置く。雷が鳴る。さよならも言えなかった。鍵盤に叩きつけた左手が不協和音を奏でる。
私はあの背中を二度と見送ることができない。
「え?」
私の言葉が聞き取れなかったのか、凪斗くんは購買で買ってきたサンドイッチを開封しながら首を傾げた。柔らかい猫っ毛が太陽に透けて揺れるのを何となく視界の端で追いながら、私は黙り込む。
「あ、ごめん、ここってうるさいから聞こえにくくて」
そう謝られるけれど、別に、聞き取ってもらえなくて怒っているわけではない。それでも何だか気分が削がれてしまって、私は薄汚れた靴の先を見た。コロッケパンを一口だけ齧る。濃いソースの味は口内に広がったはずなのに、不思議なくらいに何も感じない。秋が終わろうとしていた。カーディガンがなければ少し肌寒いけれど、青天だ。白んだそれを見上げながら目を細める。
「……今日は天気が良いねえ」
「ん? ああ、そうだね」
「中庭も、たまにはいいね」
「まあ、キミと一緒ならボクはどこだって楽しいけど……でも、やっぱりうるさくない?」
彼が指摘しているのは、予備学科生のデモ活動、通称パレードのことだ。眉を寄せて不愉快そうな表情を浮かべる凪斗くんは、常々このパレードを疎ましく思っているようだった。
予備学科生の校舎や施設が集まった西地区と、本科生の過ごす東地区は離れている。高い塀と門で区切られて、警備も厚いため、本科の校舎への立ち入りが禁止されている予備学科生がいくら集まって声をあげたところでここに入ってくることは不可能なのだけど、声ばかりはどうしようもない。 拡声器を使っているから、尚更。
今日も、待遇改善、差別反対、授業料返還を求める予備学科生の声が延々と響いていた。このパレードは学園内で起きたとある事件がきっかけになっている。学園はこの事件の真相をもみ消すつもりだったらしく、実際私たち本科生には具体的な事件の詳細は伝わっていないけれど、予備学科生にはどこからか情報が漏洩してしまい、結果彼らの燻っていた不満が爆発したようだ。
「才能がない人間が才能のある人間と同じ扱いを受けられると、彼らは本気で思っているのかな? 多額の入学金や授業料を払ってまでこの学園に来ることを選んだのは彼らなんだから、今更それに文句を言ったところでどうしようもないのにね」
だけど、才能のない人間に対して、凪斗くんは辛辣だ。事件の真相はともかくとして、予備学科生がいくら声を大きくしたところで彼には響かない。だからこそ、やっぱり、言えないなあと思うのだ。ポケットにしまい込んだ封筒を、私はそっと奥に押し込んだ。
「で、さんの話って何?」
思い出したように顔をあげる凪斗くんに、言葉に詰まる。
「う、うん、ええと……また、今度でもいいかなあ……」
「そう? まあボクはキミのためだったらいつでも時間を取るけど」
「……またそういうこと言って」
「本気なんだけどなあ」
彼の言うことは、どの程度本気にしたら良いのか未だにわからない。紙一重で冗談のようにも思えることを平気で口にするから、性質が悪いのだ。私は返事に窮して凪斗くんから目を背けてパンに齧りつく。そして、袋に添えた手に不意に触れられて咽た。慌てて口元を拭って顔をあげる。
「な、なに?」
彼は動揺する私を気にも留めず、ただ、じっと掴んだ左手を見つめていた。
「……さんの手は、本当に綺麗だな」
今度こそ、言葉を失った。目の前の噴水が噴きあがる。何と言ったらいいのかわからない。そのまま手の甲から指にかけて優しく撫でられて、息が詰まる。こんな風にきちんと凪斗くんに触られるのは初めてのことで、上手く処理できずにいた。どこを見るべきか迷って、彼の伏せられた瞳を見る。色素が薄いから分かりにくいけど、間近で見ると信じられないくらい睫毛が長いのだ。無意識に吐き出した「凪斗くんの方がずっときれいだよ」という言葉に、彼は静かに首を振る。
「……あのさ、ボクの才能は、知ってたっけ?」
「し、知ってるよ勿論。……超高校級の、幸運、でしょう……」
「そう、幸運なんだ。面白味もない才能なんだけどさ、確かにボクは昔から、運だけは良かった」
言いながら私の顔を覗き込む。ただ汗だけが薄い胸を伝っていた。彼が饒舌なのは、凪斗くんの機嫌がいいからだ。私はもう、それを知っている。彼とはそれくらいの時間をここで過ごしている。
「だけどね、それに見合う不運が、必ず先に訪れるんだよ」
「……見合う、不運?」
「わかりにくいかな。たとえば、宝くじに当たる前に事故に遭うとか、そういうことだよ」
あまり嬉しくない類の幸運のようだ。初めて聞いた彼の体質に、何と言ったら良いのか分からなくて、へえ、と曖昧な息を吐いた瞬間、「だからね、不思議なんだ」と、凪斗くんは呟いた。
「ボクはさんに出会えて、さんの弾くピアノを聴けてこんなに幸運なのに、少しも不運な目に遭わなかった。ボクはこの幸運の対価を払ってはいないんだよ。こんなことは、今まで一度だってなかった」
私の指先を、そっと撫でる指は、ぞっとするくらいに冷たい。
「……これって一体、どういうことかな?」
私の顔を覗き込む凪斗くんの目は、深い湖の底を覗き込む無垢な少年のようにも、獲物を狩る直前の猫のようにも見えた。彼の問いかけに答えられないでいる私に、本科生への厚待遇を許すなと、感情のない声の塊が近づいている。
くしゃくしゃの封筒が、鞄の中で行き場を失くして眠っている。
ここ数日は、随分と冷え込みが厳しい。それでも完全暖房の室内は十分に温かく、私はほとんど動かない左手を擦りあわせて、何度も鍵盤の上に置いてみた。震えるそれはもう、以前のような音を出してはくれない。仕方ないから右手だけで弾いてみた。一本調子の面白味のないメロディが虚しく響いて、私は、この才能の終わりが近いことを察している。
突然ノック音がして、私は背筋を伸ばした。よもや学園長かと思ったけれど、「どうぞ」と声をかけた私の前に現れたのは、凪斗くんだった。
「あれ、どうしたの?」
珍しく険しい顔をした凪斗くんが、早足で私の座るグランドピアノの横に立つ。咄嗟に時計を見るけれど、まだ、普段彼が来る時間よりもずっと早かった。
どうしたのかと尋ねようと口を開きかけた瞬間、左腕を掴まれた。食い込む爪に、息を飲む。
「いたッ……!」
「痛いんだ? 動かないのに?」
目を見開いて彼を見上げる。凪斗くんは、私を見下ろしていた。感情のない目だった。誰だろうと思った。背筋が粟立った。振り払おうにも力が入らなくて、私はされるがまま、掴まれた左手に目を落とす。じくじくと痛む。これは、どこの痛みだったのか。
「ねえさん、キミさ、ボクに隠し事してない?」
「か、かくしごと……?」
「それも秋口ぐらい、いや、もっとずっと前からかな。黙っていたことが、あるでしょう?」
体中の血液が音を立てて巡っていた。足元に置いてある鞄を、私は決して見なかった。だって、彼が何を言っているのは、いくら私が馬鹿でも、簡単に分かるのだ。でも、どこで彼はそれを知ったというのだろう。私にあの手紙を渡した学園長が言ったとは考えられなかった。そんな簡単に、あの人が生徒の情報を漏らすはずがない。なら、どうして。
「……松田くんから聞いたんだよ。キミの指がもう治りようがないってこと」
彼が吐き出したのは、私の脳を調べていた、超高校級の神経学者である人物の名前だった。
彼の治療、もとい研究は、三週間前に終わった。これで私に与えられた全ての治療は、終了したことになる。どういう過程で私の研究内容が凪斗くんに伝わることになったかは分からない。けれど、自身の特別な人以外にあまり興味のなさそうだった神経学者さんのことだ。利用価値の無くなった研究対象者の話なんて、いくらでも聞き出すことは可能だったのだろう。
「流石のボクでも分かるよ。指が動かないんじゃキミはもうこの学園にいられないよね。ねえどうしてそんな大事な話をしてくれなかったの? ボクは、そんなにキミの中で小さな存在だった?」
「そ、んなこと……」
「ないわけ、ないでしょ。だから言わなかったんでしょ?」
「言わなかったんじゃない」
「言えなかった、なんていうのは、やめてよね。そんな言葉、キミの口から聞きたくない」
吐き捨てるようにそう呟く凪斗くんは、もういつもの優しい目で私を見つめてはくれなかった。
思っていた通りになってしまった。凪斗くんは、壊れた私なんかいらない。ガラクタの私を愛してはくれない。才能がなければ、いらないのだ。私はそれをずっと前から知っていた。誰よりも希望を愛する凪斗くんは、私のピアノに希望を見出してくれた。嬉しかった。私の作った曲を、綺麗だと言ってくれた。誰にも見向きもされなかった音楽を、見つけてくれた。あの扉から飛び込んできてくれた、あの春の、きらきらした目、失ったはずの、他人からの熱、忘れられるわけがない。ほんとうに、うれしかった。嬉しかったのだ。でも、それももう終わりだ。私の左手はもう治らないし、以前のように演奏することはできない。
諸々の事情で中止になった実技試験の代わりに、ひとりひとりの簡単な面接と調査が行われる。それの途中経過を記された報告書が、秋に理事長から渡された封筒に入っていた。本来ならば全員には配られないものだ。これは、進退が危ぶまれている生徒にのみ手渡されることになっている。最終結果は、まだ出ていない。
その時渡された封筒は、ずっと鞄に入ったままだ。研究価値もない。才能も潰れた。そんな私を、学園は必要とはしない。希望ヶ峰学園は、そういう場所だ。わかっていたのだ、最初から。最初から、そのつもりでここに来た。学園側と私との間に結ばれた、暗黙の了解。使い切られた私はやがてこの学園を去ることになると。
凪斗くんが、掴んだままだった私の左腕を離す。代わりに私の両肩に手を添えた彼は、いつの間にか青白い、泣き出しそうな顔をしていた。彼の底には静かな怒りがあった。眼球に映る私が、歪む。縋りつくようだった。彼は私を、本当に希望だと思ってくれていた。
「動かない手でこんなにもきれいな曲を生み出せるキミは、奇跡みたいな人だね」
初めて出会ったときの言葉が、こびりついたまま。私があなたに恋をした瞬間が、どうしてこんな時に蘇ったりするんだろう。違う。ごめん違うの、今更どんな言葉を並べたって、もう、手遅れだ。彼が喉の奥から吐き出す声が、掠れて消える。
「本当に治せないの? どうにか、ならないの? キミは、二度と元のようにピアノを弾けないの?」
頭の中で蹲った私が泣いている。凪斗くんに手を伸ばしている。なんて惨めで無様なんだ。私はいつの間にこんなに弱くなったんだ。ピアノなんか弾けなくたって良いって思っていたくせに。いつか希望ヶ峰学園に捨てられることになっても、構わないって。それでも生きていけるって思っていたくせに。他にもきっと、大好きになれるものが見つかるって、あんなに簡単に思い描いていたくせに。
「今までみたいに、立ち向かわないの? キミはそれでいいの? 諦めたの? ピアノが全てだったんじゃなかったの?」
あなたはこんな私を愚かだと笑うだろう。吐いた息は震えていた。こんな風に好きな人に縋りつかれても、私は、ピアノが私の全てだなんて、やっぱり思えなかった。
だって、この世界にはいろんなものがあって、可能性があった。私はピアノを愛していたけれど、好きだからこうしてピアノに触れて、曲を作っていたけれど、でも指が動かないなら、諦めるしかない。他のものを愛するしかないのだ。意味のない偶像に縋りついたって、助けてくれる神様なんかいない。私の指が動かなくなって、どれくらいの時間が経つか、私の周りからどれだけ人が消えていって、どれほどの孤独を味わったか誰も知らない。どれだけ私がそれを捨てたかったか。早く諦めてしまいたかったか。自分から見放してしまいたかったか。そのほうが楽だと知っていたから。
それでも希望ヶ峰学園は私を受け入れてくれた。私はそこを、私の墓場にしようと決めた。私の周囲からそうして人が消えて、音が消えて指が死んで、だけど、そこにはあなたがいた。
あなたは勘違いをしていた。私の指はいつか治ると。いつか、昔のようにピアノが弾けるようになると。私がそうさせた。あなたが欲しかったから、あなたを手元に置いておきたくて、あなたの望むになろうと決めた。だから、汚れていたのは私だ。何が何でも、どんな手を使ってでも手に入れたかった。ピアノ以外で最初に見つけた綺麗なものが、私が執着したものが、あなただったんだよ。凪斗くん。
「……ごめん……」
凪斗くんが、呼吸をやめた。目を見開いて、私のことを凝視していた。皹が入った音がした。凪斗くん。私はあなたが好きだった。好きだったから大切だった。嫌わないでほしかった。こんな風に、あなたの希望に成りえない私に、気がつかないままでいてほしかった。だけど、そんなの無理だったのだ。時間は静かに迫って来ていた。私はきっと学園を去らなければいけなかった。それが、少し早まっただけだ。終わりは決まっていた。私は終わっていた。凪斗くん。凪斗くん、凪斗くん。
「キミと出会ったのは、幸運じゃなくて、不運のほうだったのかな」
凪斗くんの声が、温度を失う。
涙も流れなかった。私はあなたの顔を見ることができない。
「だったらキミなんて、いらない」
あなたは、誤魔化して継いで接いで作ったハリボテの私を見つけてくれた、唯一の人だった。