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ドッキリハウスに閉じ込められて、今日で三日目の朝を迎えた。
食事を絶って三日となると思考もまともに働かない。手が細かく痙攣するのを見て、あ、やばいな、と思いながら、私は余計なエネルギーを消費しないように努めた。しかも、ただでさえ空腹で眩暈がするというのに今日は朝からモノクマのおふざけに付き合わされている。
「オマエラに健康になってもらいたくて、このサービスを思いつきました!」
嫌がらせ以外の何物でもない。朝七時にマスカットタワーに集められた私たちは、何故か太極拳をやらされていた。ロボットになった弐大くんはともかく、終里さんもまだ余力があるらしい。二人はきびきびと身体を動かしていたけれど、他の皆はほとんど衰弱しきっているように見える。弐大くんの目から出る飲み物だけで飢えをしのぐのも、限界に近いのかもしれない。
「明日もやるからね! 遅れたら罰だよ!」
そう言ってモノクマが姿を消した後、私たちはそのまま床に座り込んだ。
「明日もって……こんなの、いつまで続くの……」
「コロシアイが始まるまでか。……このままでは何が起きてもおかしくないぞ」
私の呟いた声に隣の田中くんが皆の姿を見回しながら言う。つられて私も一人一人の顔を見た。確かに、まだ何とか平生を保とうとしている九頭龍くんや、もともと表情に出にくい千秋ちゃんなんかは幾分余裕があるようには見えたけれど、ソニアさんはもともと透き通った肌が青白くなっているし、左右田くんなんか半泣きだ。余程追い詰められているのだろう。
何となく嫌な予感がして左右田くんに声をかけようとしたけれど、私も思った以上に体力が落ちているらしい。目の前が霞んで上手く声が出せない。結局左右田くんが「もう無理だ」と呟く方が、ずっと早かった。
「脱出不可能でメシもねーし……このままだと、マジで全員餓死するしかねーんだぞ……」
「そ、左右田く」
「それともこのまま餓死するのを待てってのか!」
「それでも」
叫び声に近い左右田くんの言葉を遮るように、一際大きな、力のこもった声が響いた。日向くんが、左右田くんを真っ直ぐ見つめていたのだ。
「……それでも、仲間同士が殺しあう異常な状況よりは、ずっとマシだ……」
だけど、そう言った日向くんに、この追い詰められた状況下で左右田くんが噛みつくのは当然だった。日向くんは左右田くんと話をしてみるとは言っていたけれど、きっと二人の関係はまだ平行線だったのだろう。誰よりも疑心暗鬼になっていた左右田くんは、日向くんを裏切り者に仕立て上げることで、何とか理不尽なこの事態に耐えようとしていたのかもしれない。
そもそも、日向くんがジェットコースターに乗った後皆を説得して無理にここに連れてきたところから怪しい。日向くんが「未来機関」の手先で、全員をここで餓死させるつもりなのではないか。日向くんだけ仲間から食事を貰っているに違いない。そういう明らかに支離滅裂なことを言い出す左右田くんに、日向くんも怒りを露わにしかけた、その瞬間だった。
「喧嘩したって状況は変わらないよ」
今まで黙って二人を見守っていた千秋ちゃんが、座ったまま、小さく吐き出した。
それは何の嫌味も怒気もない、抑揚すらも薄い、静かな声だった。左右田くんが、気まり悪そうに目線を逸らす。「……そうだな、悪い」と小さな声で呟いたのは日向くんだ。だけど、やっぱり一度崩れてしまった雰囲気はそう簡単に戻らない。
「……衰弱死か、コロシアイか、どちらにせよ、我らの行く末は困難なようだな」
「ま、ボクはみんなの選択に従うだけだけど……。選ぶなら早くしないとね。待っているだけでも、死は少しずつ近づいているから」
田中くんの言葉に続いて、狛枝くんが青白い顔で微笑みながらそう言う。おかげでより一層不穏な空気になってしまったが、彼自身はどこ吹く風だった。
静まったマスカットタワーを、左右田くんが舌打ちをして出ていく。それを合図に、一人、また一人とブドウ回廊に出ていく皆に言葉はない。その背中を座り込んだままじっと見つめていたのは、何だか立つ気力も体力も、なくなってしまっていたからだ。
疲れてしまった。眩暈がするし、平衡感覚も変だ。ひょっとして、私が一番まずい状態なのかもしれない。今まで絶食なんてしたことなかったから限界が全く分からないけれど、でももしかしたらこれがそうなのかもしれない。「餓死」という言葉が急に現実味を帯びて私に襲い掛かる。
乾燥した唇を舌で舐める。吐くものなんてないくせに吐き気がして、空気だけを吐いた。倦怠感が全身を襲う。座り込んだまま項垂れていると、もう誰もいなくなったはずのマスカットタワーに、私のものではない足音が響いた。誰かが戻ってきたのだろうか。だけど顔をあげる力もない。床を蹴る固い足音は、私の目の前で止まった。
「大丈夫?」
私はこの、穏やかな声の主を知っている。狛枝くんは、いつも私にそう尋ねるのだ。
「……キミだけタワーから出てこなかったから、どうしたのかと思ったけど……辛い?」
「……ごめん、だいじょうぶ」
だよ、と言いかけたところで、顔をあげた私の頬に、ひやりとした指先が触れた。「大丈夫じゃ、ないよね」心配そうな瞳だった。掠れた声だった。息ができないのは、彼が、ともすれば泣き出しそうにすら見えたからだ。さっきはその言葉とは裏腹にあんなに楽しそうに笑っていたくせに。
「横になったほうが、マシだと思う。部屋まで連れて行くよ」
「え」
聞き返すよりも狛枝くんが私の背中と膝の裏を一緒に抱える方が早かった。ぐ、と力が入れられて、抱きかかえられる。
頬に、どこに残っていたのか熱がこもった。「うえっ」悲鳴にもならない声が口の端から漏れたけれど、狛枝くんは構わず、私を抱えたままさっさと歩きだしてしまう。自分だってそんなに体力が残っていないだろうに、顔色だって酷いのに。だけど狛枝くんの腕はしっかりと私を支えている。
「ちょ、あの、狛」
「……いいから、じっとしてて」
「で、でもあの、重いし……」
「重くないよ。キミを抱っこするのなんて二回目だし、大丈夫」
「二回目……」
言われて少し考えたけれど、罪木さんが処刑された夜のことを言っているのだと気が付いて急に恥ずかしくなってしまった。「でも」やっぱり下ろしてほしい、そう言う意志をこめて、無意識に彼の首に回してしまっていた腕の力を緩めれば「こら」と叱られてしまった。
「でもじゃないの。放っとけないでしょ。……さんの部屋ってラウンジの向かいだったよね?」
「あ、うん、そうです……」
喋っているうちに彼はブドウ回廊を抜けて階段を昇って、あっという間に私の部屋の前まで来てしまった。幸運だったのは、誰にもこの状態を見られなかったことだ。扉の前に来ても下ろしてくれないので、ポケットからもぞもぞと部屋の鍵を取り出して、そのまま扉を開ける。起き抜けのまま乱れたシーツや毛布を恥ずかしく思うけれど、狛枝くんは躊躇う様子もなく部屋に入って私をベッドに下ろした。
「あ、あの」
「ああ、ごめん、すぐ出ていくよ。ボクなんかが部屋に居たら、休めないだろうし」
「えっと、違くて……その……」
「ん?」
狛枝くんは言葉を選ぶ私を不思議そうに見つめながら、私の体に毛布をかける。恥ずかしくて、その毛布を鼻まで引っ張った。くらくらするのは、お腹が空いたせいだ。視界が霞むのも、耳の奥で甲高い音がするのも、ドキドキするのも全部お腹が空いたせいだ。鳥肌が立つのも、心細くて怖くてたまらないのも泣きそうなのも、ずっとずっと私の名前を誰かが呼んでいるような幻聴が聞こえるのだって。
そう思い込もうとしているのに怖くてたまらない。本当にこのまま死ぬかもしれないことも、私を呼ぶ誰かの声がずっと耳鳴りのように張り付いて、止んでくれないことも。何も分からなくて、私の行く末が暗く閉じられた扉の向こうにしかないように思えて、心細くてたまらないのだ。
「お、お願いが、あるの」
「なに?」
狛枝くんの声は、お母さんみたいに、柔らかくて優しい。いつもそうだ。彼はいつも私に優しくしてくれる。でも、彼がそうしてくれるのは、私に才能があるからだ。私がピアノを弾けると信じているからだ。全能の私がもうこの世にはいないことを、彼は知らないままでいるからだ。
わかっているのに、私は狡いから、狛枝くんに甘えてしまう。
「…………寝るまででいいから、ここに、いてほしいの」
声が震えた。自然に涙が滲んで、視界が歪む。狛枝くんが目を見開いて私を見つめている。心臓が痛いくらいにどきどきして、やっぱり、言わなきゃ良かったと思った。だけど私が毛布を頭まで被ってしまおうとしたその瞬間に、狛枝くんの手の平が、私の髪に触れる。
彼の顔を見た。目を細めていた。薄く笑っていた。ああ、そうだと、私は気が付いた。思い知らされた。自分が、きれいな皮を被っただけの醜いエゴの塊だったことを。
「……ボクで良かったら」
この人だけは死なせたくない。この人だけでいい。この人に会いたかった。それだけを思っていた。私は、初めて彼を見た時からずっと心のどこかで、そう思っていたのだ。罪木さんの言葉が蘇る。「だって、さんは狛枝さんさえ無事なら良いんですよね?」私は、見透かされていた。そうなのだ。私はこの人のことだけを見ていた。
何も覚えていないのに。
こんなにも込みあがる思いがあるのに、意識が突然、深く沈んでいく。冷たい狛枝くんの、骨ばった手の感触が薄れていく。「さん」耳の奥で膜を張っていた声が少しずつ突き破って形を成す。私は思い出さなければいけないようなのだ。「そろそろ時間だ、さん」その意味を。
「……おやすみ」
混ざり合った音が、どろどろに溶けた意識の中に、墨のように落ちていく。