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モノクマがご褒美として差し出したのは、黒い表紙をした薄いファイルだった。受け取った狛枝くんの周りに自然と皆が集まる。緊張感に包まれる中、強張った頬を自覚しながら、彼が捲るページの先を追った。
『コロシアイ学園生活の舞台となったのは、皮肉にも希望ヶ峰学園だった』
張りつめた脳が軋む。喉のあたりに張り付いた声はそう簡単に剥がれてはくれず、代わりに私は瞬きもせずに、じっとその文章を見つめていた。「コロシアイ学園生活」。今自分たちが置かれた状況のことを指すのかと誤解しかけたが、続く文章でそうではないことが分かる。コロシアイの舞台となったのが希望ヶ峰学園だったということが確かなら、つまり、これは私たちとは関係のない別の事件の話をしているのだろう。
『首謀者に殺し合いを強要され、極限状態に追い込まれた生徒たちは、やがて互いに疑心暗鬼を繰り返すようになり、そして殺し合いが始まった』
だとしても、沸々と疑問がわきあがる。過去にも自分たちと似たような状況に置かれた希望ヶ峰学園の生徒達がいたとして、国家や警察が動かないはずない。いや、だけど、それは今のこの状況にも言えるのか。汗の滲んだ額の奥で思いつく。十神くんに花村くん、真昼ちゃん、辺古山さん、唯吹ちゃん、日寄子ちゃん、そして罪木さんが、この作り話のような、数カ月前の私ならばありえないと一蹴してしまうような世界で死んでいった。「未来機関」という組織によって、そんな冗談がまかり通る世界に私たちはいる。
このファイルに記されたコロシアイも、「世界の破壊者」と呼ばれる「未来機関」の先導によるものなのかもしれない。そう考えれば、これが事実であることに納得がいく気がした。そうして擦り合わせないと、もう頭がこんがらがって、訳が分からなくなりそうだったのだ。
『生徒たちによる殺し合いは数日間に及んだが、ある時唐突にその幕を下ろすことになる。団結した生徒たちの反撃によって敗れた首謀者は、そこで自らの命を絶ったのだ』
誰も口を開かない。狛枝くんのページを捲る音だけが静かに、場違いにも思える陽気な音楽の合間を縫うように響いている。
ふと、文章の脇に申し訳程度に載せられた写真が目に入った。恐らくここに映っている十数人の少年少女が、「コロシアイ学園生活」を経験した生徒たちなのだろう。希望ヶ峰学園の生徒たちであるらしいけれど、引いた状態で撮影されたのか彼らの性別程度は判断できても細かな表情までは読み取ることはできなかった。解像度の粗いそれを他の皆もあえて注視しようとはしない。次のページに、何よりも目を引く写真があったからだ。
『こうして生き残った生徒たちは、学園からの脱出に成功したのだが』
「……ちょっと待って」
狛枝くんが、一枚の写真を指差す。左ページにファイリングされた用紙のほぼ中央。私はその指の先が示す写真を見て、息を呑んだ。それは、「コロシアイ学園生活」を送る不明瞭な彼らの日常写真とは違って鮮明に印刷された、大きな顔写真だった。他にも何人かの同じような写真が載せられていたが、私たちがその一枚にだけ目を奪われたのは、そこに映っていた「彼」が、私たちの良く知る人物であったからだ。
伏し目がちの瞳に、上部にリムのないシルバーフレームの眼鏡、質の良いスーツに身を包んで腕を組んだ彼は、体型こそ私たちの知っている彼と違って随分とほっそりとしていたけれど、紛れもない、十神白夜くんその人だったのだ。
「と、十神くん……?」
「……どういうことだ? 何故、ここに奴がいる」
「し、知らねーよ……でもこれってつまり、オレたちの前にもコロシアイをやらされてたってことだろ? その生き残りが、ここに映ってるやつらってことは……」
それはつまり、十神くんがここに記された「コロシアイ学園生活」の関係者であるということだ。日向くんが何かを思い出したように目線を落としたけれど、彼が口を開くことはない。
「十神クンが生きていれば詳しい話を聞けたんだけどね……」
狛枝くんが言うように、彼が私たちにその話をする前に殺されてしまったのか、それとも私たちと同じように記憶を奪われていたせいで何も覚えていなかったのか、今となってはそれはもう分からない。だけど、分からないのはモノクマが私たちにこのファイルを渡した理由もだ。
今回のコロシアイと前回のそれは、恐らく何らかの関係があるのだろう。だからこそ今のタイミングでモノクマはこのファイルを出してきたのだ。隅の方で口元を押さえて笑っているモノクマに目線をやったら、モノクマは、期待に満ちた瞳で私のことを見つめ返した。
「うぷぷぷぷぷ、どう? さん。楽しんでもらえたかな?」
「……楽しんでいるように見える?」
「ううん全然! おバカなキミは他のヤツラと違って理解が足りないから、ボクとしてはとっても面白いんだけどね」
モノクマのにやけ顔の奥底には、得体の知れない、私にだけに向けられた底なしの悪意が潜んでいるように見えた。私はそれを、どこかで察していた。
「おいモノクマ! 小難しいこと言われてもわけわかんねーよ! 早く記憶を戻せ!」
食ってかかった終里さんに「いやあ、そう言われても今のボクにはどうしようもないよ。記憶を奪ったのは『未来機関』の連中だからね」と返すモノクマの後ろ姿を、じっと見つめる。何かが、私の中で静かに蠢いている。這っている。胃がもたれているような感覚に眉を寄せた。狛枝くんの手にしたファイルは、文章の途中、中途半端な形で終わっている。だけど、何かが引っ掛かる。その答えが見つからない。
「楽しいご褒美だったでしょ? ちなみに他のご褒美も全部この島にあるよ! これはマジだよ!」
「この島って言っても、もう全部探せるところは探したよね……」
「探せるところは、でしょ?」
今までずっと何かを考え込むようにして俯いていた日向くんが、ぱっと顔をあげた。
「……ドッキリハウスか?」
彼が言っているのは、橋を渡ってすぐにあったメルヘンチックな建物のことだ。千秋ちゃんと最初にそこに行ったとき、その建物の前にあったモノクマの顔をあしらった列車を調べたけれど、何も見つけることはできなかった。建物の入り口も見当たらなかったのでそれ以上の探索は諦めていたものの、日向くんが言うには、全員で乗ればその列車を発車させることができるとモノクマに告げられたそうだ。そしてその先に、ドッキリハウスはあると。
「そう! すべてのご褒美は、ドッキリハウスの中に隠してあります!」
両手を振り上げて高らかに笑うモノクマの顔には、はっきり罠ですと書いてある。いくらジェットコースターに乗ったご褒美として、初めてまともな情報を手にすることができたといっても、そんな見え透いた罠には誰も乗らない。 だけど、残りのすべてのご褒美と言われて一番に反応をしてみせたのは、普段誰よりも冷静であるはずの日向くんだった。
彼は、固執している。自分の才能を思い出すことに執着している。だから、彼が「希望ヶ峰学園時代のプロフィール」を欲する気持ちは、誰にも止めようがなかった。
「無理無理無理無理無理さっきのよりヤバいんじゃねえのオレはもう誰も信じねえ」
「弐大クンお願い」
「応ッ! 任せておけ!」
「ぎゃああっやめてっお願い……ッ放してッ!」
結局私たちは日向くんに説得される形でドッキリハウスの前にやって来ている。ご褒美が隠されているというこの建物の中に入るには、どうしても列車に乗らなくてはいけないそうなのだ。
なだらかな線路は傾斜もなく、さっきのジェットコースターよりも危険なものだとは思えない。それでも暴れる左右田くんを弐大くんが列車に押し込めるのを眺めながら後ろの方に乗り込むと、「隣、いいかな」と狛枝くんが笑いかけてきた。彼は私が返事をするよりも早く隣に座ると、皆が続々と列車に乗車する姿を最後尾から微笑ましげに見つめている。
「……楽しそうだね、狛枝くん」
「うん、楽しい。希望の象徴である皆とこうして一緒にいられるのは、とても楽しいよ」
狛枝くんの横顔は、きらきらと輝いていた。眩しくて目を細めた。泣きたくなった。好きだと、唐突に思った。理由も分からないままのくせに。引っ張られるだけのくせに。それも全部、わかっていたくせに。
胸の中が、訳のわからない粒でいっぱいになったようだった。それが悲しみの種だったのか、別の物だったのか、私にはわからない。だけど、ただ一つだけ言えるのは、私は今、苦しくて痛くて、たまらないということだ。わざわざ私を名指しした、先ほどのモノクマの意味深な言動のせいだったのかもしれない。私はかき乱されていた。自分の中心に針を突っ込まれたようだった。
人を殺してまで思い出したい過去なんてない。今もそう思っている。だけど、私は一体何者だったんだろう。狛枝くんと何があったんだろう。罪木さんは何を知っていたのだろう。この左手はどうして腐っていくんだろう。モノクマが時折私にだけ向ける笑みは、一体何だというのだ。
狛枝くんが黙り込んだ私を見つめる。もう少し遅かったら、泣いていたかもしれない。狛枝くんは瞳を細めて、微笑んだ。
「でも、さんと一緒にいられるのが、一番嬉しいな」
私のことを、何も知らないくせに。
だけど、私はその言葉に、胸がぎゅうと締め付けられている。そんなこと言うなんて狡いと思っている。目を合わせていられなくて、足や肩が触れ合いそうなほどに近くにいるこの人から、私は無理に顔を背けた。狛枝くんはそんな私を見て、小さく笑った。
やがてトンネルに向かって列車が動き出す。モノクマの不快なアナウンスの直後にどこからともなく噴射された白い煙を吸った私たちは、全員、意識を手放した。
「さん。そろそろ時間だ。キミに一番辛い思いをさせることになって、ごめん」
薄れていく意識の中で、誰かが私にそう言った気がするけれど、もう何もかもが遠い。