35
どうやら眠ってしまっていたらしい。
シーツや毛布、柔らかすぎる枕の感触に、私はまだこうしていたいと手足を丸める。布団の中は守られているみたいに温かい。だけど、私の意志とは反して脳は思考を始めてしまう。今日は何曜日だっけ。木曜日だったら午後は生物学棟に行かなきゃいけないから、その分早起きして朝のうちにピアノを弾くと決めているのだ。
覚醒しきらない頭のまま欠伸をする。瞼の裏からでも分かるくらいに空が明るくなり始めているらしい。唸りながら静かに目を開けた瞬間、私はけれど息を止めることになる。嫌になるくらいに整った顔をした人がそこにいた。寝顔を覗き込んでいた彼は、安堵したように目を細める。
「こ」
「……良かった。目が覚めた?」
「こっこここここ」
「こ?」
毛布を引き寄せて、ベッドの中で彼から距離を取る。狛枝くんはやけにのんびりした様子で首を傾げているけれど、そもそもなぜ彼がここにいるのだ。彼は一つのベッドに一緒に横になっていたわけではなかったとは言え、眠りから覚めたときに傍にいてもらうような関係でもなかったはずだ。思わず起き上がって、ヘッドボードにしこたま肘をぶつける。
「狛枝くん! な、なんで、私の部屋にいるの?」
「落ち着いてさん。ここはボクの部屋だよ」
「ぎゃ! 本当だ! あれっ? なんで? あれ、これ、じゃあ狛枝くんのベッド? なんで!」
「あのね、キミさ、倒れたんだよ。覚えてない?」
混乱する私を落ち着かせようと彼は私の肩を抑えた。狛枝くんの部屋。言われてみれば。棚に並んだ難しそうな本、見覚えのない雑貨、特別まとまっているわけでもないのに洗練されたように見えるのは、ここが狛枝くんの部屋だという前提があるためだろうか。床の上やテーブルは無駄なものが一つもなかった。手書きの楽譜でごみ箱が溢れている私の部屋とは、明らかに違う。
倒れた。私が? 思い出そうと眉間の間に手を置いて考え込む。視界に入った水色のネクタイが何となく緩められているような気がすることに、気が付かないでいたかった。
「部屋に運ぼうとしたんだけど、キミのポケットを弄って鍵を探すのも何だか悪い気がしてさ。ボクなんかの部屋で申し訳ないんだけど、早く休ませた方がいいと思って」
名残惜しそうに私の肩を一度撫でた狛枝くんは、手を離すと苦笑いを浮かべて私の隣に腰を下ろした。狛枝くんの体重分、ベッドが軋む。
混ざりあった現実と夢がべったりと手をとって、綺麗には乖離してくれない。「……倒れた」上手く咀嚼できなくて、口の中で彼の言葉を反芻させた。
「ねぇ、ところで具合は? もう大丈夫?」
「あ、そうだね、平気みたい……」
「そっか……熱も下がったみたいだね。良かった」
「熱……? ああ、そっか、そうだった……ね……」
どこも痛くはなかったけれど、何だか頭が重い。目を閉じて息を吐いた私に、狛枝くんは心配そうに目を細める。
「もう少し横になっていたらどうかな。あ、でもボクなんかのベッドじゃ休まらないか」
「う、そんなこと……」
「そんなこと?」
しかし、隣に座ったまま顔を覗き込むことはやめてほしい。ベッドから身体を起こしただけの状態の私に、枕元に腰を下ろした彼は私の目を見るためにわざわざ身体を半分捻るから、柔らかな猫っ毛が重力に従ってふわりと揺れる。たったそれだけのことに何故だか無性にどきまぎしてしまった。かけられていた毛布を自分に引き寄せてから膝を曲げて、狛枝くんから目を逸らす。
「そんな……そんなことは、あるけど」
「ふふ、そっか。ごめんね」
狛枝くんは笑って私から離れた。ぎし、とベッドのスプリングが軋んだことに、安堵したような、残念なような、妙な気分になってしまった。
「でも本当に心配していたんだよ。裁判中から、段々顔色が悪くなっていったみたいだったからさ」
水に浸した紙のように彼の言葉は私の脳に浸透していく。そして途切れた現実を縫い合わせた先でようやく、私はあの人のことを思い出したのだ。彼女のことを。二人を失った、あの事件を。
「……罪木さんは」
「彼女は処刑されたよ」
それは抑揚のない声だった。狛枝くんのものだとは思えないほどに。
「キミは、投票する前に倒れてしまったから覚えてはいないだろうけれどね。意識を失くしてしまったようだったから、モノクマが特例で棄権扱いにしてくれたんだ。……でも、あんな人の行く末なんて見る価値もなかったから、都合が良かったんじゃないかな?」
「……つごうが」
「彼女は希望に相応しくなかったんだよ。そんな人間に価値はない。そうは思わない?」
左手の指が鈍く痛む。罪木さんの声や形が鮮やかに浮かぶ。病に侵された彼女の、熱に浮かんだ瞳が、私を憎んでいたことを思い出す。希望に相応しくなかった。彼の言葉を否定することも肯定することも、今の私にはできない。全てを思い出したと言っていた罪木さんだけが手にした過去を、私は知らないのだから。私が犯した過去の所業を、私は結局思い出せていない。
彼の言葉には答えずに、そっと手の甲を撫でる。夢を見ていた。私の中に濁った色を落としていったようだった。夢の中の狛枝くんの顔にぐちゃぐちゃと線が引かれる。口元だけが綺麗に残って笑いながら言う。「この指が治ったら、もっと希望に満ちた演奏が聴けるのに」夢の中の私はその言葉に曖昧に笑った。指が治ったら。治ったら。
夢の中の私はこの指が治るとでも思っていたのか。
「希望に相応しくない人間に価値はない」
狛枝くんの言葉を、ゆっくりと繰り返す。指の切断されたピアニストに存在価値はあるか。私の演奏を聞きたいと願っていた人にとって、私は。
「価値がなければ、いらない?」
そう尋ねた私は、どうしてこんなに震えているのだろう。彼は、目を僅かに見開いて私を見つめる。笑いもしなかった。怒りも悲しみもしなかった。感情のない表情だった。夢の中の、ピアノを弾く私の首に布が巻かれる。狛枝くんは首を傾げた。真っ直ぐ私を見ていた。そこに海はあった。
「そうでしょ?」
じゃあ私はあなたにとって、やっぱりいらない人間だ。
それを認めた瞬間、突然、手首を切り落とされたような痛みが走った。咄嗟に蹲って、左手を抑える。
「さん?」
狛枝くんの焦りを滲ませた声が私の頭のてっぺんあたりに届いた。あれ、おかしいな、痛い。痛い、痛い。これほどまでの痛みは、今までなかったのに。息を止めてお腹に力を入れて耐えた。一本一本、極太の針を容赦なく突き立てられるようだった。声を殺して蹲る。漏れ出た悲鳴は、嗚咽に似ていた。額に浮かんだ汗が数粒落ちて、シーツに染みを作るのを、霞む視界で見送る。狛枝くんが「どうしたの? さん、大丈夫?」と、背中に手を添えるから、私はゆるゆると首を振った。そうしていなければ、飲み込まれてしまいそうだった。
どれくらいそうして耐えていたか。背中をゆっくりと撫でられていたおかげか、やがて、痛みの山を越えて、徐々に痛みは消えていく。そっと手を重ねられる。冷たくて大きい男の人の手だ。
「どうしたの? さん、痛むの?」
泣きたくなったのは、彼が酷く心配そうに私を見つめていたからだ。でも、だけどいらないのだ、私は。あなたにとって、いらない人間だ。ピアノが弾けなくなる。才能がなくなる、価値がなくなる。私はこの病気を止められない。この指は終わる。だから、痺れの残る指を抑えて、私は首を振った。認めて、現状を受け入れて、全てを諦めることは、今の私にはできなかった。
罪木さんは、私に関してはあれ以上何も語ることのないまま処刑されたらしい。
彼女が何を思ったかは分からない。ルールを守る。彼女にとってはそれが絶対だったのか。罪木さんは私との約束通り、皆に私の過去の所業を話さなかった。それをどう取ればいいのだろう。ただ、死んだ彼女が私に簡単には解けない呪いをかけていったのは揺るぎようのない事実だった。
「本当に大丈夫なの?」
「うん、もう平気。ごめんね、こんな遅い……っていうか、早い? 時間だったのに」
「そんなこと気にしないで。……キミのコテージまで送るよ」
あれほどの激痛が走った左手は、今はすっかり落ち着いている。それと同時に倦怠感も消失したのはありがたかった。あのまま狛枝くんのコテージにいるわけにもいかなかったので、私は頃合いを見計らってお暇することにした。一人で考えたいことも、数えきれないほどあった。
「良いよそんなの。すぐそこだし」
「だめ。すぐそこでも。……心配だ」
目を見開いて、彼の顔をじっと見つめる。狛枝くんは不思議そうに私を見つめ返してくれた。これは既視感だ。一緒に行こうか。彼は夢の中でも、そう言った。あの時の狛枝くんは、首を振った私にすぐに引き下がってくれたけれど、でも今回は、彼は私の言うことを聞いてくれないらしい。
既に明るくなりはじめていた東の空が眩しくて、一瞬目を細める。
「そうだ、さん」
つきあたりのコテージに向かって肩を並べて歩く私に、狛枝くんが思い出したように呟く。
「今日はきっと、キミにとって良いことがあると思うよ」
首を傾げる私に、彼は小さく、数時間後のお楽しみだと笑った。訳が分からなくてさらに首を捻っていると、私のコテージにあっという間に着いてしまった。制服のポケットから取り出した鍵で部屋を開けると、狛枝くんはほとんど無意識にだろう。私が部屋に入るまで、扉を支えてくれた。その仕草すらも夢の中の彼を思い出させて、私は、本当は泣きたかった。
夢だ。夢だった。あれは夢だ。私は狛枝くんと一緒にいた。防音の施された部屋で、彼は私の拙いピアノを聞いていた。あれは私が失くした記憶の欠片だ。私が欲しくて、見たくなくて、思い出したくて、知らないままでいたかった過去だ。私は狛枝くんを知っていた。狛枝くんは私のピアノを愛してくれていた。死んだ私を見つけてくれた。だから私は彼が好きだった。
「いろいろありがとう。狛枝くん」
「どういたしまして。あまり時間もないけど、ゆっくり休むんだよ」
その言葉に曖昧に微笑んで頷くと、唐突に狛枝くんは私の髪の束を耳にかける。背筋が粟立つ。意図を掴みかねて、思わず顔をあげる。寄せられた唇に、肩が跳ねる。
「それとね、さん」
からかうようだったその声は、どこか切実に聞こえた。そう思うのは気のせいか。
「……さっきみたいに、名前で呼んでくれたら嬉しいんだけど」
間近にあった狛枝くんの顔が離れる。名前。私が彼を、名前で呼んだと言うのだろうか。夢の中の狛枝くんが鮮烈に蘇る。彼もまた、同じようなことを言っていた。名前で呼んでほしいと。
目を見開いたままの私を見た彼は、自分で準備した逃げ道に逃げ込むように微笑む。それがどこか、泣き出す寸前のようにも見えたのだ。朝焼けに染まった空が、彼の髪を透けさせる。
「いや。覚えてないなら良いんだ。……それじゃあ、また後で」
踵を返す彼の後ろ姿を、私は夢の中のように見送るだけだ。