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希望ヶ峰学園に入学した私が与えられたのは、学園の東地区にある芸術棟の二階の一室。新しいグランドピアノとアップライトピアノが一台ずつ置かれた、一人で過ごすには余裕のある大きさの防音室だった。西側にある壁一面を埋める大きな窓も立派な防音窓で、すぐ外の中庭の喧騒はここでピアノを弾く私に届くことはない。通常の授業以外の時間のほとんどをここで過ごす私は、今日もグランドピアノの前に座る。指の調子は相変わらず好転することがなく、両手の指先だけをくっつけて、ストレッチをするように広げて伸ばす。
あと一時間後には、この指の定期検診が控えていた。最先端の医療技術を揃えたこの学園で治療を受けることのできる私は幸運だと、いつだったか学園長に言われたことを思い出す。
私の指に異常が現れ始めてから、既に一年が経っている。原因不明のこの病は、そもそも病と呼んで良いのかどうかも怪しい。私の手は入学当初以来、外科的な角度から、神経的な角度から、精神的な角度から、多角的に検査を受けている。しかし、あれは治療と言うよりは研究だ。それぞれの超高校級の才能を持った学生が、私の指を何の遠慮もなく検査するのだ。原因不明の病を持つ生徒は、彼らにとって恰好の研究材料だろう。
これでは才能を認められて希望ヶ峰学園に入ったのか、他の生徒の研究のために入れられたのか分からない。或いはその両方だったのかもしれない。浮かんだ考えをかき消すように頭を振る。学園長の思惑がどうであろうと、午後から検診があることにかわりはない。私の脳や筋肉や神経を見る学生のいる生物学棟は、何となく暗い印象があって何度通っても慣れないから、足を踏み入れるだけでも気が重いけれど。
今日は神経の検査の日だ。あの神経学者は特に口も態度も悪いから苦手だ。いつも漫画を読んでいるし、私の扱いもほぼモルモットに近い。想像しただけでうんざりする。
何気なく叩いた鍵盤が、私の耳に響く。背後の本棚に詰め込んだ私物の楽譜の山を、私はここに来てほとんど開いたことがない。上手く動かせない指がある以上、それらの曲を弾くことは困難を極めたのだ。好きな曲はある。弾きたい曲ばかりだ。だけど今日も指は痛い。だから私は好きに弾く。自分で適当に音符を繋げて、或いは既存の曲に勝手に音を減らして、増やして、自由に鍵盤を叩く。私は、思ったよりこの指が動かない現状を楽しんでいた。仲の良い同級生には意外だと笑われたけれど、私は元々、そういう人間だった。
主旋律はなだらかにテヌートを心掛けて、後半に向かってクレシェンド、伴奏の左手は、指をめいっぱい広げる和音は難しいから仕方なく迫力のないアルペジオに変えてみる。転調させたら一気に明るく。春みたいに。スタッカートを多用してみるのも良いだろう。それだけで心の内側が震えた。私は、こういうので良かったのだ、最初から。そんなことを思う。
今まで通り弾けなくたって、私自身は構わなかった。そのうち左手自体が動かなくなるかもしれないと言われたけれど、いいのだ、別に、そうなったらそうなったで、私はきっと楽しめる。右手だけでもピアノは弾けるし、もし全部の指が動かなくても私は他に好きなことを見つけられる。私は執着しない、固執しない、しがみ付かない。
今までピアノばっかり弾いて生きてきたから、もしもこれが駄目になったら、ポンコツの手をぶら下げて、代わりに今まで捨ててこなければならなかったものを拾いに行きたい。今ではもう全然分からない数学とかを一から勉強し直したり、道端で見つけた花で押し花を作ったり、いっそ合唱する側にまわってみたり、バタ足したり気球に乗ったりお祭りに行ったり、そういうのをやってみたい。考えるだけで、私の未来は輝いていた。
余計なことばかり考えていた私は、つまりピアノに集中してはいなかったということで、無数の音が響く部屋の扉が開いたことにも、おかげできちんと気が付いていた。一瞬手を止めて挨拶をしようかと考えたけれど、以前そうしたら彼はそれを酷く嫌がった。彼は、私のピアノを聴いていたいらしい。こんな腐りかけの超高校級でも、彼は気に入っているようなのだ。目線だけを彼に送ったら、彼はいつもの穏やかな瞳を私に向けてそっと微笑んだ。どうやら、今日の曲も彼の好みのようだ。私と彼は波長というか、そういうのが近い。
曲は終わりに向かう。足りない音は他の八本で補う。全力のフォルティシシモ、最後の和音はどうしても出したかったから、動かない小指を叩きつけた。じわじわと熱がこみ上げてくるのは、痛みと興奮と満足感のせいだ。彼は、数秒の静寂まできちんと味わった後、その手を叩いた。何となく気恥ずかしくて、私は小さく頭を下げる。
「今日もきれいな曲だった」
拍手の後、彼は適度な距離を保ったまま私にそう言う。グランドピアノの突上棒と譜面台、屋根の間の三角形から見える彼は、柔らかく微笑んでいた。
「ボクはクラシックにはキミほど明るくないから間違っていたら申し訳ないんだけれど、今の曲はハチャトゥリアン? 彼のワルツ曲に似ていたね」
「ほんと? やっぱり好きな曲と似ちゃうもんだねえ」
「ってことは今回もキミの作曲? ……すごいな。尊敬するよ」
大袈裟に両手を広げる彼を見るのが何だか恥ずかしくて、私は首を振る。
「指の調子が悪いから、そうでもしなくちゃ弾けないだけ」
気が付いたら彼は、私の左隣に立っていた。そのまま躊躇いもなく左手を取られるから、心臓がいくらあっても足りない。彼はどんどん壊していく。私がそのせいで、一人いろんな感情に突き動かされていることを、彼は知っているのだろうか。優しく触れられた、そのひんやりとした手に、温度が吸い取られていく。顔を見上げたら、彼は私の目線に気が付かない様子で私の指を撫でた。
希望ヶ峰学園に入ってから、私のピアノは私だけのものになった。いくら自分で曲を作って誤魔化したところで、そこには何の価値もないように思われた。私はそれでも関係がないと思って好き勝手にピアノを弾いた。今でもそれでいいと思っている。私の価値は私が決めると思っている。だけど、彼はそんな私の演奏を好きだと笑ってくれた。希望だと、言ってくれた。
「この指が治ったら、もっと希望に満ちた演奏が聴けるのに」
狛枝くんは、私を見つけてくれたのだ。
「今の曲、もう一回最初から聴きたいな」
「ありがとう、でもごめんね。実は私、これから検査に行かなくちゃいけないんだ」
「あ、そうか、今日は木曜日? じゃあ仕方ないね。一緒に行こうか?」
「大丈夫だよ。……お母さんみたいなこと言うんだね」
「まあね、キミのことが心配だから」
何食わぬ顔でそういうことを言わないでほしい。その言葉は、お腹の奥底にしまっておいた。私は小さく笑って、部屋の外に一緒に向かう。体重をかけないと上手く開けられない重厚な扉に手をかけると、私の右肩の辺りから伸びた腕が、代わりに扉を押し開けてくれた。「あ、ありがとう」振り向きながら微笑むと、彼もまた、薄く笑ってくれる。
「じゃあ、ボクも用事を済ませてこようかな」
「うん」
「また来てもいいかな」
瞳を細めた狛枝くんに、私は頷く。
「うん。いつでも来ていいよ。狛枝くん」
そう言ったら、彼は私を追い越して踏み出しかけた足を止め、わざわざ振り向いて私の瞳を見た。芸術棟のこの階は、音楽関係の才能を持った生徒に与えられた防音室ばかりだから、しんと静まり返っている。階段を昇り降りする足音や、外の学生の声や、様々な音が私の耳に降り積もるように残っていった。その中で狛枝くんは、私の耳にその唇を寄せる。「さん」内緒話をするみたいに囁くその声は、壊れ物を扱うみたいに優しかった。
「いい加減、名前で呼んでよ」
校舎の外から、揃った怒声のような音が響いている。私は狛枝くんの視線に絡め取られて、上手く返事もできずにいた。私はそうして、余計な雑音に耳を塞いで、ぬるい水たまりのような平和な世界に足を浸している。いつまでも、いつまでも。